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プロジェクト○川

学生に本を読んでもらおうという,ただそれだけのはずでした

歴史の転換点

2022年11月04日 | 本の話
余華『ほんとうの中国の話をしよう』(河出文庫)より。

歴史の転換点には、必ず象徴的な事件が起こる。一九八九年の天安門事件がそうだった。
(中略)
あの中国を席捲した激しい大衆運動は、六月四日早朝の銃声とともに終息した。その年の十月、私が北京大学を再訪したとき、そこにはまったく別の光景が見られた。日が暮れると、未名湖のほとりに何組ものカップルが姿を現し、学生宿舎からはマージャンの音と英単語を暗唱する声が聞こえてきた。たったひと夏で、すべてが変わり、春に何か事件が起こったとはまるで思えなかった。これだけ大きな落差は、一つの事実を物語っている。天安門事件は、中国人の政治的情熱が一気に爆発したこと、あるいは文革以来たまっていた政治的情熱が一時的にカタルシスを得たことを象徴するものだった。それからは金銭的情熱が政治的情熱に取って代わり、誰もがみな金儲けに走ったので、当然ながら一九九〇年代には経済的繁栄が訪れた。
(中略)
思うに、一九八九年の天安門事件は「人民」という言葉の内容を換骨奪胎する分水嶺だった。あるいは、「人民」という言葉の資産再編を行ったと言ってもいい。古い内容を破棄して、新しい内容に置き替えたのである。
文革開始から今日までの四十数年間、「人民」という言葉は中国の現実の中で、中身のない単語だった。いま流行している経済用語で言えば、「人民」はダミー会社にすぎない。その時代によって違った内容で、このダミーを使って株式上場を果たすのだ。

天安門は巨大な敗北ではなく(あるいは、敗北でもあったがそれ以上に)、カタルシスだった。その後の展開を見れば、なるほどと思わざるを得ないけれど、外からはわからないというか、わかっても口にしにくいことだ。カタルシスって言葉も、ずいぶん久しぶりに見た気がする。

なお著者名の「余華」に、解説では「ユイ・ホア」とルビが振られているのに、カバー裏や奥付には「よか」と書いてある。もう読み方は英語圏での音に合わせないと、外国の人と話すときに困るよね…。
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スピーチライター

2022年10月07日 | 本の話
以下は、石川真澄『人物戦後政治』(岩波現代文庫)からの引用。

たしかに、暗殺の可能性はいつでもある。とくにその当時はけっして思い過ごしとはいえなかった。東京・日比谷公会堂の舞台上、池田首相の眼前で浅沼稲次郎・社会党委員長が右翼の少年に刺し殺されたのは、前年六〇年一〇月一二日で、それからまだ一年と経ってはいなかった。池田首相は浅沼刺殺から五日後の一七日に召集された臨時国会の冒頭、衆院本会議で自ら追悼演説した。「沼は演説百姓よ/よごれた服にボロカバン…」とい大正末期に浅沼氏の友人が作った詩を引用したその演説草稿を書いたのがブーちゃんであった。当時としては型破りだった演説はきわめて好評で、国会名演説の一つに数えられるようになった。そんなブーちゃんにとっては首相暗殺の恐怖がいつも頭から離れなかったのに違いない。私は少し慌てて、次のイケバンの時からカメラを車の中に持ち込むことにした。

「ブーちゃん」というのは、池田首相の「主席秘書官の伊藤昌哉氏(のち、政治評論家)」(同書)のこと。

この池田首相による、浅沼社会党委員長追悼演説は、引用文中にもあるように名高いもので、今回のいろいろに関連しても、しばしば言及されている。

その「名演説」がスピーチライターの手によることが周知の事実であり、こういうことも首相の「主席秘書官」の仕事になり得る、などというあたりは、ここのところの話題に照らし合わせると、もっと広く知られていいのではないかと思い、ここに紹介する次第であります。
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OC / 茶立虫

2022年09月24日 | 本の話
今日と明日はオープンキャンパス。7月は(ああいう理由で)ドタキャンしてしまったものだから、今回はフル稼働しています。

ブース形式の研究室紹介も初めて担当してるんだよね。展示する「モノ」があまりないので、学会報告のポスターと、卒論の要旨をA3で印刷して、ずらっと並べてみたところ、あんがい多くの人が読んでくれました。

新顔野菜のポスター(口頭の学会報告をポスターに再構成)はなかなか人気だったし、昆虫食もだいぶ質問があった。Yくんの野球の分析もウケがよかった。他ゼミの4年生にいちばんウケていたのは、Oちゃん(オバQではない)の遅刻の分析だったかな。

明日もがんばります。

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その7月、熱があるあいだは頭痛がひどくて、せっかく寝込んでいるというのに(笑)、読書もままならず、唯一読めたのは鶴ヶ谷真一でした。

僕、鶴ヶ谷ファンなんです。で、『書を読んで羊を失う』からの5冊を寝床に積み上げて読んでいった。

以下は、第二作『猫の目に時間を読む』の「茶立虫」より。

むかし茶立虫という一種不思議な虫がいたようだ。たとえば静かな一室に本を読んだりものを書いたりしていると、茶立虫の鳴く、ちょうど秒針の反響するようなかすかな音が聞こえてくる。音はいつも障子から聞こえてくるので、虫はそこにいるはずなのだが 、姿を見ることはない。あると思えばあるようで、ないと思えばないような、実に変わった虫だという。静かな秋のころに鳴くことが多い。そこで季語としては秋の部に入っている。

静かに本を読んでいると「茶を立てるような音」をたてるが、こちらが少しでも音を立てると鳴き止んでしまうのだという。

この風流な虫はいまも書物に棲みついていて、調べて姿を確認すると、僕の本でも見つかることがある。でも、茶立虫の「声」が聞こえるような静寂は、僕らの生活から失われてしまった。

数日前に、茶立虫もアレルゲンになるという記事を見かけた。風流も何もないね。
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昭和史

2022年05月18日 | 本の話
日本語版Audibleがサブスクになったもので、通勤の車(まだ電車通勤に戻れずにいる)でずっと聴いている。購入だと高くて手が出なかった半藤一利『昭和史』シリーズも聴き放題の対象だ。

もともと『昭和史』は「授業」という形での語り下ろしで、この音源は朗読ではなく、本の元になった「授業」を録音したもの。もちろん、半藤一利さんの肉声だ。細かな名前などは、聴くだけでは頭に入らないので(読んでも入らない)、手元の本も読むことになる。

で、いまこのタイミングで聴くと(読むと)、嫌でも思うことがある。

「敵は、日本軍が出動すれば退却する」という、自軍にとってはまことに都合のいい、固定した先入観が日本軍の参謀にはあった。〈それにのっとるかぎりはまことに間然するところのない作戦計画である。ただし敵情はまったく無視されている〉。
だから主観的には勝つはずなのに、徹底的に痛めつけられることになった。司馬遼太郎さんも指摘したことだが、戦車一つとっても差がありすぎた。こちらの戦車は装甲が薄く、機関銃にも耐えられない。しかし名前が「戦車」である以上、それはりっぱな戦車なのだった。(半藤一利『昭和史 1926-1945』、平凡社ライブラリー)

この引用部は本編ではないが(半藤著『ノモンハンの夏』を引用している天声人語を、半藤一利が引用している。こう書くとなんだかやけにややこしい)、これを読めば誰でも同じことを考えると思う。

他にも、日本が経済制裁を恐れていたり、国民が御用メディア(新聞)に踊らされていたり…。もちろん、100年前とは決定的に異なるファクターがあるから、安易に「歴史に学ぶ」わけにはいかないが。
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無帽について気になる一節

2022年05月17日 | 本の話
これ、気になるよね…。
(ごめんなさい、うちの関係者、それもある程度の古株以外には伝わるわけのない話です。)

さかのぼつて考へますと、中世は無帽の風俗がなくて、公家も、武家も、庶民も、みんな、かぶり物を用ゐてゐました。公家には冠の伝統があつて、エボシはこれの崩れたものだつたし、武家だつてみなエボシをかぶつてゐた。そして、絵巻物を見るとよくわかることですが、建築現場その他で働く工匠や人夫も、かぶり物をかぶつてゐます。これはどうやら、室内でも屋外でも同じだつたらしい。ここでちょつと岡本全弘氏の本で読んだことを付加へますと、一般には男は、室内だらうと屋外だらうと、他人に髪を見せるのは失礼なこととされてゐたのださうです。さう言へば、肖像画を見ると、後鳥羽院も源頼朝もエボシをかぶつてポーズを取つてゐますね。やや下つて、豊臣秀吉だつてさうである。部屋のなかでも、かうしてゐなければをかしかつたわけである。
(丸谷才一「無帽論」、『夜中の乾杯』、集英社文庫)


ヤギや羊ならわかるけど、帽子…?
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銀と善と神

2022年05月01日 | 本の話
Yたろの寝かしつけに寝床で本を読む習慣が(いまだに)あって、でも面白い本だと聞き入ってしまうから、選んで難しい本を読む。で、暗いなかで読むにはやはりスマホが便利なので、青空文庫から選ぶことになり、このあいだは『善の研究』を読み終えた。

その前は『銀の匙』(中勘助の方)を読んでいたんだけど、こちらは途中から面白くなってしまって、なかなか眠らなくなった。虚弱で弱虫で勉強もできなかった主人公が強くなっていくあたりに、感じるものがあったみたい。音読係も、終わりの方になると涙なしでは読み進められない。

『善の研究』はYたろに難しいのはもちろん、読んでいる僕にも難しい(笑)。でも多少はYたろにもわかるようにと言葉を補ったりしながら、何週間もかけて一通り音読すると、やはり(僕の)理解も進む。この最後に近い一節なんて、ほんとうにカッコよくて、しびれます。

アウグスチヌスのいったように、時は神に由りて造られ神は時を超越するが故に神は永久の今においてある。この故に神には反省なく、記憶なく、希望なく、従って特別なる自己の意識はない。凡てが自己であって自己の外に物なきが故に自己の意識はないのである。(西田幾多郎『善の研究』)

この世界に神様がいるとは思えない。でも、「神」なるものを想定することならできると思う。
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4月

2022年04月15日 | 本の話
いつもながら、4月はことのほか忙しい。

今日は吉田健一と丸谷才一の対談から。

丸谷 いまの世の中のように、ものの感じ方がひどく揺れ動いていて、明日はどうなるかわからない、板子一枚下は地獄みたいな時代に、いちおう読者に応えることのできるのは、小説というより、文明論とか歴史の本だというようなことはありませんか。

吉田 大事なことはね、状況がそうであるからといって、それを煽るようなことを書けばいいと思ったら、これは大間違いだということでしょう。

丸谷 だからこそいまの文学者の仕事には、安定した文明と危機的なものとの関わりを書くことが要求されているんじゃないかな。

吉田 さらに言えば、文学は絶対に安定のほうに中心が合うんですよ。安定なくして、文学も伝統もありゃしない。とにもかくにも日本の文学が続いてきたのは、何らかの安定があったからだし、また、人がそれを求めたからですよ。人は必ず安定した言葉を求めます。それを、時代の表現なんてことを考えていたら、おしまいなんだ。
(「読むこと書くこと」、『吉田健一対談集成』、講談社文芸文庫、p217。初出は「波」1972年12月号)


「ものの感じ方がひどく揺れ動いているとき」に、それを煽っていいのかどうか。
こういうときこそ、立ち止まって考えるべきなのだろうと思います。
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理科進学+

2022年03月25日 | 本の話
森毅『数学受験術指南』(中公文庫)より。

そのころは、文科へ進学すると、兵隊にとられる危険があったので、理科進学というのが普通だった。(p.113)

なるほど…言うまでもなく、これは第二次世界大戦の頃の話だけれど、こういう未来が来ないと言い切りにくい情勢になってしまった。だからといって「進路で迷っている高校生は、理系に進むべきかも」と書くとポジショントークだということになるだろうか(今年も苦戦しています)。

それにしても、旧制高校はすごい。

(高校の)授業は、いまの大学よりすさまじく、中学の数学は高校数Ⅰ程度だから、微分も積分もやっていないのだが、物理はニュートンの微分方程式から始まる。だいたい、いまの高二から大学教養一年ぐらいまでを、一年間でやったようだ。(p.116)

こういう環境から、多くのノーベル賞受賞者が生まれたわけだね。

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あと、こんなことも書いてある。

また、「解き方」を教えて、それができたかどうかテストをする、といった「高校数学」風のテストはやめるべきだ。むしろ、まだ「解き方」を教えてないところをテストするぐらいのほうがよい。入試本番では、「解き方」のわからない問題が出ると思ったほうがよい。「解き方」を知っていて解く、なんて癖は、受験本番にはむしろ有害だ。(pp.59-60)

Y太郎がYouTubeで見ている「ペケッツ」で、「わからない問題では考え込まないで、すぐ答を見る」というやり方が、「学年1位の勉強法」として紹介されていた。

もちろん、あるところまではそれでいいし、基本の「型」を覚えることは大切だ。でも、どこかから先は、要領の良さだけでは足りない。
最近、森嶋通夫『なぜ日本は没落するか』(岩波現代文庫)を読み返したこともあって、考えちゃうなあ…(ペケッツで考え込んでる親父の方がずっとアホっぽいが)。

もうひとつ引用を追加します。

数学の得意な人間は、あまり公式をおぼえない。少しの公式をうまく使うのが、数学得意の定義のようなものだ。
たしかに、公式をおぼえておくと、当面の問題が解けて、テストの成績が上がったりする。それは、一見は近道だ。
しかし、おぼえたものは忘れるものだ。公式をあてはめてはできないのが、大学入試の問題では普通のことだし。
べつにおぼえなくとも、何度でも教科書を見ればよい。ついでに、その公式を導くところを読み直すのがベターだが、めんどうならそれをしなくてもよい。何度でも見るだけでよい。
そのときに、知らずにでも、まわりの風景が目に入るものだ。教科書のなかの、どんな景色のなかに、その公式が坐っているか、それが目に入るものだ。
公式だけを抜きだしておぼえていたのでは、そうした風景から切りはなされて、その公式が死んでしまう。風景のなかで公式を見ていること、それが大事だ。
そのうちにおぼえてしまえば、それは仕方ないことだし、おぼえてなくて困ることに出あうと、公式なしにヤリクリすることに馴れていくものだ。それが、数学の実力である。
急いで公式をおぼえるより、公式をおぼえる前の状態で実力をつけたほうがよい。(pp.83-84)

為末大さんの「中学生まで全国大会はいらない」にも通じる話だと思う。
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違い

2022年03月12日 | 本の話
エリック・ホブズボーム『20世紀の歴史 下』(ちくま学芸文庫)より。

また、スターリンの恐怖政治については、独裁者による個人的権力の際限なき行使だと単純に考えることもできない。たしかに、そのような権力と自分が他人に与える恐怖、生殺与奪を決定する力を、かれは楽しんでいた。それと同じくらい確かなのは、その地位をもってすれば思い通りになる物質的恩恵に対して、スターリンはきわめて無関心だったことだ。そうはいっても、かれ個人の精神的倒錯がどのようなものであれ、スターリンの恐怖政治は、その支配が行き届かないところでは、理論上、警戒心同様、戦術として合理的な手段だった。実際には、両方ともリスクを避けるという原則に則っていた。それは翻って、状況判断を下す(ボリシェヴィキの言葉でいうなら「マルクス主義的な分析をする」)自分の能力に自信がなかったことを反映しており、そこがレーニンと違っていた。かれの恐るべき生涯は、共産主義社会という実現不可能な目標を不屈の精神で頑なに追い求めたものとして理解しなければ筋が通らない。

伝わってきている話が本当だとすると、物欲という点は違うんだな。

ところで、政府も野党もガソリン価格を抑えて、有権者のご機嫌を取りたいようだけれど、エネルギーが不足する近未来が見えているのだから、消費はむしろ抑制すべきだよね…。去年、災害でもないのに備蓄も減らしちゃったんだし。
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地政学

2022年03月06日 | 本の話
本棚を整理したので、Z・ブレジンスキー『地政学で世界を読む』(日経ビジネス人文庫)もすぐに見つかる。

原著の出版は1997年で、日本語訳は翌年1月、この文庫本は2003年に出版されたもの。当時、いくらか読んでいるのだけれど、重要性はわからなかった。

「ロシアの言い分も理解しろ」という趣旨ではないことを断ったうえで、「ブラック・ホール」というタイトルがつけられた第4章から、かなり長くなるけれど、コメントなしで引用だけ。

 ロシア国内の危機的状況と国際的な地位の低下が政治支配層にとってとくに苦痛と不安のタネになっているだけでなく、ロシアの地政上の立場も大きく後退した。西部では、ソ連解体による国境の後退がとくに打撃になっており、地政上の勢力圏が劇的に縮小した(一五八~一五九頁の地図を参照)。バルト諸国は一七〇〇年代以降、ロシアが支配してきた地域であり、リガとタリンの港を失ったため、バルト海への出口が狭まり、冬に凍結する部分に限られることになった。ベラルーシは正式には独立したが、ロシアへの同化が進んでいて、ロシア政府が政治的にきわめて強い立場を維持できているが、ここでもナショナリズムの流れが波及して政治の主流にならないとはかぎらない。そして、旧ソ連の国境より西では、ワルシャワ条約の崩壊によって中欧の旧衛星諸国、とりわけポーランドが、NATOとEUに急速に接近している。

 とくに打撃が大きいのは、ウクライナを失ったことである。ウクライナが独立国家になったため、ロシア人は政治と民族のアイデンティティを見直さざるをえなくなったうえ、ロシアにとって地政上、きわめて大きな後退になった。膨張をつづけてきたロシア帝国の歴史が三〇〇年以上逆戻りして、製造業と農業で大きな潜在力をもつ地域を失い、民族と宗教の両面でロシア人に近い五二〇〇万人を失ったため、ロシアがほんとうに強大で自信をもった帝国国家になるのが難しくなった。ウクライナの独立で、ロシアは黒海を支配する地位も失うことになった。これまではオデッサが地中海諸国、さらには全世界との貿易の窓口として、決定的な地位を占めていた。

 ウクライナを失ったことは、地政上、きわめて重要な意味をもっている。ロシアの地政戦略上の選択肢が極端に狭まったからだ。バルト諸国やポーランドを失っても、ウクライナへの支配を維持できていれば、ロシアはユーラシア帝国の指導者として、旧ソ連領土の南部、東南部で非スラブ系民族を支配する立場を追求できる。しかし、ウクライナを失い、そこに住む五二〇〇万人のスラブ民族を失ったことで、ユーラシア帝国再建を目指せば、ナショナリズムとイスラム教に目覚めた非スラブ系との泥沼の戦いをロシア人だけで遂行しなければならなくなる。チェチェン紛争は、その第一段階にすぎなくなるかもしれない。また、ロシア人の出生率が低下し、中央アジアでは逆に出生率が爆発的に上昇しているので、ウクライナを失ったロシアが単独で新ユーラシア帝国を再建したとしても、年々、ヨーロッパ色を失い、アジア色が強まっていくのは避けがたい。

 ウクライナの独立は、地政上きわめて重要であるうえ、地政上の触媒の役割も果たした。ソ連が連邦組織からCISに名前を変える形で生き残ることができなかったのは、ウクライナの断固とした動きがあったからだ。ウクライナは一九九一年一二月に真っ先に独立を宣言した。ベラルーシのベロベシスクで開かれた会議では、ソ連を解体してもっと緩やかなCISを発足させるべきだと強硬に主張した。そしてとくに、ウクライナ内のソ連軍に対する指揮権を突然宣言したクーデターにも似た行動が、決定打になった。ウクライナが断固として民族自決の道を主張したため、モスクワは衝撃を受け、当初はもっと臆病だった他の共和国も、ウクライナの例にならうようになった。(pp.153-155)


 したがって、帝国解体後のロシアでは、歴史と戦略に関する混乱の時期が避けられない。ソ連の崩壊で衝撃を受け、それよりもなによりも、一般には予想もつかなかった大ロシア帝国の解体で呆然自失状態になって、ロシアでは広範囲な自省の動き、ロシアの歴史的役割がどうあるべきかについての幅広い論争が起こり、主要国のほとんどでは提起されることすらない疑問をめぐる議論が、公の場でも私的な場でも沸騰している。ロシアとはなにか、ロシアとはどの範囲をさすのか、ロシア人とはなにを意味するのかが議論されているのである。

 この問いは、議論のためのものというにはとどまらない。この問いにどう答えるかで、地政上の政策が変わってくるのだ。ロシアはロシア民族だけからなる民族国家になるべきなのか、それとも、イギリスがイングランドだけではないように、ロシアもロシア民族以外も含めた帝国国家になるべきなのか。ロシアの国境は、歴史、戦略、民族の観点からみて、どこにおくべきなのか。歴史、戦略、民族の観点からみたとき、ウクライナの独立は一時的な逸脱だとみるべきなのか(そう感じているロシア人が多い)。ロシア人であるためには、ロシア民族(「ルスキィ」)でなければならないのか、それとも、民族のうえではロシア人でなくても、政治的にロシア人であることができるのか(これを「ロシアニン」と呼び、「イングランド人」ではないが「イギリス人」ではある人たちにあたる)。たとえば、チェチェン人はロシア人だと考えられる(考えるべきである)とエリツィン大統領をはじめとする人たちが主張したために、悲劇が生まれた。(pp.161-162)


 しかし、なによりも大切なのはウクライナだ。EUとNATOが拡大していけば、ウクライナはいずれ、これらへの加盟を望むかどうか、選択できる立場になる。EUとNATOが国境を接する隣国まで拡大し、国内改革が進んで加盟を申請できるようになれば、ウクライナは独立国家としての立場を維持するために、両組織への加盟を望む可能性が高い。それまでには時間がかかるが、欧米がいまの時点で、経済と安全保障での結びつきを強化していく一方で、加盟手続きを開始する現実的な時期として二〇〇五年から二〇一五年の一〇年間を示唆しはじめても、時期尚早とはいえない。こうすれば、ヨーロッパの拡大がポーランドとウクライナの国境で止まるのではないかとウクライナが恐れるリスクを軽減できる。

 ロシアはNATO拡大に反対する姿勢をとっているが、一九九九年の中欧数か国への拡大は黙認するだろう。共産主義体制の崩壊後、ロシアと中欧の文化と社会の違いが拡大しているからである。これに対して、ウクライナのNATO加盟を黙認することは、ロシアにとってはるかに難しいだろう。これを認めれば、ウクライナがロシアとの運命共同体から完全に脱したことを認める結果になるからだ。しかし、ウクライナが独立国家として生き残るためには、ユーラシアの一部ではなく、中欧の一部にならなければならない。そして、中欧の一部になるには、NATO、EUと中欧諸国との結びつきに完全に参加しなければならない。この結びつきをロシアが認めれば、ロシア自体もヨーロッパの一部としての道を選択することになろう。ロシアがこれを拒否すれば、ロシア自体もヨーロッパの一部としての道を拒否し、「ユーラシア」国家として孤立する道を選ぶしかなくなる。

 ここで留意しておくべき点は、ロシアがヨーロッパの一員になるにはウクライナもヨーロッパの一員になる必要があるが、ロシアがヨーロッパの一員にならなくても、ウクライナはヨーロッパの一員になれることである。ロシアがヨーロッパに自国の将来を託すのであれば、ウクライナが拡大ヨーロッパの一員になることが、ロシア自体の国益になる。そして、ウクライナとヨーロッパの関係が、ロシアにとって歴史の転換点になる可能性がある。しかし、これは、ロシアとヨーロッパの関係を決定づける時期までに、まだかなり時間があることも意味する。「決定づける」というのは、ウクライナがヨーロッパへの道を選択することで、ロシアが歴史の次の段階での進路を選択せざるをえなくなるからである。ヨーロッパの一部になるのか、それとも、ユーラシアの国として孤立し、純粋なヨ ーロッパでもなければ純粋なアジアでもなく、「近隣諸国」との泥沼の紛争に苦しむ国になるのか、ロシアは選択を迫られる。(pp.199-200)

以下が、この第4章の終わりです。このようには進まなかったことを知ったいまでも、読んでおく価値があると思う。

 拡大ヨーロッパとロシアの関係が二当事者間の正式な結びつきから、経済、政治、安全保障の各面にわたる有機的で拘束力のある提携に深化していくことを希望したい。そうなれば、二一世紀の当初の二〇年間に、ロシアはヨーロッパにとって不可欠な一部になり、ヨーロッパ自体も、ウクライナはもちろん、ウラルのはるか先まで拡大することになる。ヨーロッパと欧米の国際枠組みにロシアが協力するようになり、いくつかには加盟するようになれば、ヨーロッパとの結びつきを切望しているカフカスの三国、グルジア、アルメニア、アゼルバイジャンも、それらに加盟する道が開かれる。

 この動きがどれだけ早く進むのかはわからないが、ひとつだけ確かなことがある。ロシアをこの方向に進ませ、他の方向に向かう気持ちにならないように地政状況を形成していけば、ペースが早まるのだ。そして、ロシアがヨーロッパへの道を早く進むほど、ユーラシアのブラック・ホールは、近代的になり民主的になっていく社会によって解消されていく。ロシアにとって、唯一の選択肢のジレンマは実のところ、地政上、どのような方針を選択するかの問題ではなく、生き残りにとって不可欠な課題に取り組むかどうかの問題なのである。(p.201)
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眠られぬ夜

2022年02月25日 | 本の話
このタイトルで西城秀樹やオフコースを連想するのは、せいぜい昭和生まれまでか…「ら」は入らないけどね。

で、今日はヒルティ。

あまり批評めいたことはしない方がよい。批評することに熱心な人は、あり余るほどいる。しかし、善を認めてそれを力づける人や、真理をおだやかに、しかも完全に述べうる人はまれである。しかし、真理が有効にはたらくためには、ぜひそのように語られねばならない。
(ヒルティ『眠られぬ夜のために 第一部』、岩波文庫)

「真理をおだやかに、しかも完全に述べうる人」は無理にしても、「善を認めてそれを力づける人」にはなりたいと思う。「批評することに熱心な人」は、もういいな。
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バーコード

2022年02月23日 | 本の話
Readeeで文庫本整理をしています。

バーコードで登録できるのは便利だけれど、書籍にこのバーコードがつくようになったのは1990年頃かららしい。それより古い本もたくさんあるんでね…。

整理してみると同じ本が2冊出てくることはざら。ただ、去年読みたくなって、古本で単行本を買った、小林信彦『夢の砦』(名作)の文庫本が出てきたのには少し驚いた。

最多は『かれらが走りぬけた日』で文庫が6冊と単行本が1冊(もちろんバーコードはついていない)。あと、荒巻義雄『神聖代』『柔らかい時計』『時の葦舟』なんかも何冊かずつ出てくる。これは古本屋で見つけるたびに買っていたからだけれど。

で、本の整理をして読まないわけはない。

ずっと後の時代になって、ぼくたちが戦後と言いならわしてきたこの時期を代表する作家をひとりだけ選ぶとしたら、それは「小林信彦」ということになっているのではないか、とぼくは思っているのだけれど、そのことを説明していくために、まず、ぼくたちは「日本の喜劇人』の記述に戻らなければならない。(高橋源一郎『文学がこんなにわかっていいかしら』、福武文庫)

僕もそう思う、最近特に(前段部分ね)。

そして私自身が読書家としての物心がつく頃、すなわち一九七〇年代後半でもまだ『考えるヒント』は現役でした。例えば丸山真男の『日本の思想』(岩波新書)などと並んで、受験生の必読の書とも言われていました。代々木ゼミナールの書店などでも『考えるヒント』の文庫本は、新刊でもないのに、良い位置に平積みされていました。だからこそ、その頃、『週刊朝日』の名物企画だった国語入試問題批判で、丸谷才一が、小林秀雄の難解な文章を大学入試問題に採用することに強く批判的だったのです。つまり小林秀雄は入試に良く出る作家だったのです。そしてその難解な小林秀雄の文章になじむための、絶好の導き役が『考えるヒント』だったわけです。(坪内祐三『考える人』、新潮文庫)

何年か前(と思って調べたら2013年…)、センター試験に小林秀雄が出題されて話題になった。その「鐔(つば)」はたしか『考えるヒント』だと…(文庫本には入っていなかった)。だから、入試問題が40年戻った、ということではなかったんだな。
(追記:「鐔」は全集だと「考えるヒント」の巻に入ってるけど、初出は『芸術新潮』だそうなので、この最後の部分は間違いのようです。)

編集者時代に私が田中小実昌から受けた注文はただ一つ、「原稿のひらがな部分を漢字には直さないでくれ」というものでした。(坪内祐三『考える人』)

ここ、その前から読んでくるとすごく面白いところなんだけれど、それで、この田中小実昌の『アメン父』について、若き日の源一郎先生がこう書いている。

とにかく、普通の小説は、早く読まなくちゃやいけないのだ。というか、 ゆっくり読むと、全然面白くない。立ち止まって、周りを見回しても、ろくなものが見えない。だから、さっさっと歩いて、景色の移り変わりを楽しむ以外に手がないのだ。このことに敏感なのは、なんといっても、ラテンアメリカの作家だな。どうせ、早くしか読めないんだったら、無茶苦茶早く読むようにしてやろうってわけだよ。マルケスの『族長の秋』やアレナスの『めくるめく世界』なんかは、実は、読者が読む速度の限界を超えてるんだが、それはジョイスが考えつかなかった唯一の方法だったんだな。まあ、そんなことはどうでもいいんだけど、ごく稀に、ゆっくり読まなくちゃいけない小説がある。ゆっくり読むと、普通に読んでいては気づかなかったことに気づく。批評家がやる批評にいちばんひっかかりにくいのが、こういうタイプの小説だ。批評家は忙しい。分析したり、判断したり、いろいろゃらなくち ゃいけないからだ。だから、ゆっくり読むひまがない。ほんとうにお気の毒だねえ。もちろん、たいていの小説は、それで十分なんだが、「ゆっくり」タイプはそれでは、ぜんぜん駄目なんだ。(高橋源一郎『文学がこんなにわかっていいかしら』)

この『アメン父』のように、新本で手に入らない本は多いけれど、古本は簡単に買える時代になった(お金さえあれば)。だから何でも慌てて買っておく必要はなくなってきているのかもしれないけれど、やっぱり紙の本を手元に置いておきたいと思ってしまうあたり、僕は21世紀に対応できていないのか、と思ったり(引用は写真撮ってOCRだけどね)。
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2022年02月23日 | 本の話
2月の札幌近郊はご存じのとおり大雪に見舞われ、やっと除雪がひと段落したと思ったらまた大雪。幹線は数日で除雪されても、少し細い道に曲がると対面通行になっていたりする。

コロナ禍以降は車で通勤しているもので…2月に入ってからは、往復2時間で済めば御の字で、3時間は当たり前。いちばんかかった日は往復で5時間運転した。2時間運転すると、ナビが「そろそろ2時間運転しています。休みませんか」と話しかけてくれる。

気がつくと全豪オープンが終わっていて、とうとう一試合も見なかった。GSをまったく見ない日が来るとは。

一方で気がつかないうちに、トーマス・ベルンハルトの翻訳が2冊出ていて、慌てて(というのはもちろん言葉の綾)注文する。

少し検索してみると、エンリーケ・ビラ=マタスの翻訳が出ているし、シルビナ・オカンポの短編集が2冊も。オカンポはビオイ・カサーレスの細君で、そのビオイ・カサーレスの『モレルの発明』(ブラザーズ・クエイの『ピアノ・チューナー・オブ・アースクェイク』の原作)は古書が高値。岩波か河出で文庫化してくれないものか。

リスペクト―ルの『星の時』なんていうのも出ていて驚く(で、もちろん注文)。リスペクト―ルは世界的に再評価が進んでいるらしく、英語版Audibleにも続々と登場している(買って聞いてみたが、やっぱり頭に入んないや)。

リスペクト―ルの代表作『GHの受難』は、ものすごいといえば、ものすごい話だよ…薦める気はまったくないけれど(理由は読めばわかる)。

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道徳

2021年12月31日 | 本の話
あっという間に大晦日だ。

習慣を自由になし得る者は人生において多くのことを為し得る。習慣は技術的なものである故に自由にすることができる。もとよりたいていの習慣は無意識的な技術であるが、これを意識的に技術的に自由にするところに道徳がある。修養というものはかような技術である。(三木清『人生論ノート』)

古典を素直に読めるようになるのは、歳をとることの良い側面のひとつだと思う。もっともその裏には、新しいものを受け入れにくくなるという代償があるから、喜んでばかりはいられない。
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臆病者

2021年10月20日 | 本の話
日本語オーディブルを最近また使い出して(車通勤なので)、無料になってた橘玲『臆病者のための株入門』をなんとなく聴きました。一度読んでいるのかもしれないけど、少なくとも覚えてはいなかった。

で、驚いたのは、著者が何度も日本のことを「世界でいちばん人件費が高い」と言っていること。

書籍版の出版は2006年の4月で、執筆時期は小泉政権が終わり(任期満了)に近づいていた頃だ。

ついこの間まで、日本は世界でいちばん人件費が高い国だった。それからたった15年で…と思うと、遠い目になってしまう。



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