少し前に,長渕剛が「私は自然が憎い」とかいう詩を発表(?)したというニュースがあって,くっついている「コメント」を見ると,なんだかさんざんだった.実は僕も最初は,うーんと思ったのだけれど・・・.
僕は長渕ファンではないし(中学生の頃,「もう一人の俺」っていう歌は好きでした),あの詩にすごく感銘をうけたというわけでもない.ただ,僕なりに忖度すると(詩が朗読されたというラジオも聞いていません),彼の言いたかったことの一部は,「批判すべき相手を間違えていないか」っていうことなんじゃないかと思う.
僕は彼のような度胸はないので明確に留保をつけないと何も言えないけれど,上の解釈がいくらかでも正しいとしたら,それには同意できるところもある.僕らはまた,犯人探しをしてしまっているような気がするから.
批判が必要なことは山のようにあるし,適切で建設的な批判もたくさんでている.でも,批判のための批判も少なくないように思う.
それに,やり場のない思いが,はけ口を求めてしまうこともある.長渕さんは,意識的にではないかもしれないが,その負のエネルギーを放出する方向をつくろうとしたんじゃないだろうか.もしそうなら(仮定ばかりだけど),それはすごく正当なことだと,”現代の詩人”の仕事として,まっとうなことだと思うのです.
なお,上の「留保」というのは,実際に被災してつらい思いをしている人たちが誰かを批判したり,要求したりするのは,話がぜんぜん別だということです.当然のことですが.
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安部公房の『砂漠の思想』(講談社文芸文庫)に,こんな話が出てくる.
ある農家の父親が,(親が)汗をかきながら仕事をしているときに,子供はどうするべきだと学校では教えているのか,と若い教師に聞いた.教師は「これは農村が貧しいからなので,もっと楽をできるような社会をつくるよう努力しなさい」と教えていると答えた(注:昭和30年代の文章です).父親は,なぜちょっと手伝うとか,お父さん暑いでしょうと声をかけるように教えないのかと不服そうにつぶやいた,という記事があった.
この記事は,理想論と現実論の食い違いを示すエピソードのつもりだったのだろうが,この父親の発言は現実論でもなんでもない.「暑いでしょう」なんていう他人行儀なあいさつはおかしいし,手伝ってほしいと思うのなら,怒鳴ったり殴ったりして(注:昭和30年代!)言うことをきかせるはずだ.
では,なぜこの父親はこんなことを言い出したのかというと,大義名分で教師をいじめたかったとしか思えない(というのが安部公房の意見).
「大義名分は通りがよいものだ.私は大義名分というやつは,民衆を互いにせめ合わせ,バラバラにしてしまうために支配者層がつくりあげた毒だと思っている.それを民衆が愛用するのは,そいつを飲んでいるふりさえしていれば,いつでも他人を思うままにつるし上げ,それで日ごろの不満を多少なりともいやすことができるからなのだ.もっともらしく大義名分をふりかざす者の内心ほど,虚偽にみちたものはないのである」(p.141)
--(ここまで安部公房ね)--
この「大義名分は通りがよいものだ」は,どんなときでも肝に銘じておかなくてはいけない.僕はそう思っています.
現代の「支配者層」が誰なのかという問題は,また別に考える必要がありそうですが.