記憶鮮明、文章不明

福祉は権利。平和こそ最大の福祉。保育なめんな、子どもなめんな、保育士なめんなです。

天気晴朗でなく雨激し  これっきりツアー

2006-03-08 | Weblog
兄貴とおりがみの前に突然現れた、一見して自○隊関係者と思われるおっさん。日本海海戦についていきなり質問してきました。

では解答編です。

【日本の艦や砲の性能や、砲手の技量などを100としたら、ロシアはどれくらいだと思います?】

「えーと、えーと・・」
脳内でそろばんをはじくはじく!!
・・・・強大な帝国ロシアの最強バルチック艦隊っつうからニッポンより上だよなぁ?
・・・・いや待てよ?あえて聞いてくるって事は下?
「あのー、70くらいですか?」

「フッ」と笑うおっさん。

「10だよ。艦の性能や兵士の訓練とかは日本のほうがずっとまさっていたんだ」「この海戦では勝つべくして勝った、うかれてその後ニッポンは調子に乗っちゃったんだよな。自分たちの実力をしっかり分析しないであとの戦争やっちゃったわけだから。」
「ロシアは艦のタイプが古かったり、砲の性能が劣ってた。兵士も訓練が足りなかったのさ」

そういうと、おっさんはすーっと廊下の向こうのドアに姿を消しました。






兄貴の解釈によれば
「日本海海戦の勝利は日本の軍事力技術力がロシアに勝っていたゆえのことなのに、まるで精神力だけで勝ったかのように後の人間が美化していたのはまちがっていたんだよーと言いたかったのかねぇ?」ということらしい。
海戦勝利後の日本の新聞のおはしゃぎぶりを見れば「なるほどねぇ」と思います。







順路へ戻り船尾の士官ルームへ。ハンモック吊って砲と寝食を共にするペーペーの水兵、下士官とは住む世界が違っとります。お食事はダイニングルームですわって会食形式。
キッチンはお皿がずれない工夫あり。


高級士官は個室で寝起き。お風呂だって個別にあります。







軍服。ちょっとおりがみはクラッときました。弱いんだこういうの。




気がつけば三笠の中を2時間もうろうろしてました。


では、「そのとき歴史が動いた」風に・・三笠のその後です。



日本海海戦でのヒーローの晩年はパッとしません。佐世保港に停泊中に火薬庫の爆発事故を起こして、なんと300人以上の死者がでます。兵士たちは砲室で寝泊りしていたので犠牲者が日本海海戦よりも多かったんです。(マーカー、憶えてますか?)

予備艦としてあちこちの軍港にお勤めしたあと、




大正の末期、軍籍を抜けて日露戦争の功労者は「記念艦」として保存されるコトになってこの地に落ち着きます。 

その後、敗戦に伴い米軍の管理下におかれたあと、マストはもげ荒れるにまかされボロボロになっていた三笠の事を知って心を痛め「修復しよう」という最初の呼びかけをしたのは





なんと、太平洋戦争時には敵国であった、三笠の生まれた地、イギリスの人だったそうです。





気に入らない国。考えが合わない国にはドカンと一発・・・。
そんな悲しい事もう考えないで、と老船は私に訴えてるように見えました。

出口のない海の世界はまっぴらごめんのすけ。

ボタン一個で戦争がはじまるような時代だからこそ・・。時々こうして、人間が砲弾と寝起きしていたようなこの船を見て思い起こそう・・。




さて、問題は降りしきる雨です。

出口で途方にくれていたおりがみたちにさっきのおっさんが声をかけてくれました。
「ちょっと待ってて、売店にビニールかさ残ってるか見てきてあげるね」
そうか彼はここの職員だったのか・・・。

・・・・やがて実にすまなさそうに戻っていらした。
「ごめんねー、売り切れだったよぉ。」

そのときですよ、雨がスーッと小ぶりになってきました。おっさんの暖かい気持ち嬉しかったです。

「大丈夫そうですから」とお礼を言っておりがみたちは横須賀中央駅へと向かいました。



せっかく横須賀にやってきたというのに三笠だけ見て帰る兄貴。

「良かったんですか?」
「ああ、もう、満足。つきあわせてすまなかったねぇ」
「いえ、私も勉強になりましたー」

「次回はぜひ山口百恵の横須賀ストーリーツアーと行きたいもんじゃねぇ・・・」


は?はははははは

あ~に~き~


このあと桜木町にておっとも加わり大宴会。

今年はこんなひなまつりでした、はい。












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