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気ままに生活してるシニアの残日録

福田恆存「演劇入門」を読んで(その3)

2023年03月11日 | 読書

(承前)

増補「醒めて踊れー近代化とは何か」では、日本の近代化、個人としての近代化、演劇の近代化という問題について自説を展開している、難しいのであるが、自分なりに要点を書いてみると

  • 自分と言葉との距離が測定できぬ人間は近代人ではない、特に言葉にすべてをかける演劇人・役者は身につけていなければならない
  • シェイクスピアのハムレットは近代的な性格を有している、根底に一貫した性格、人格があり、彼の前に現れる敵、味方に対して自らの手で鮮やかに場の転換をはかる、その場に応じて複雑な自己の異なった面を転換してみせる
  • 日本人はつねにその場の原理が働き、その場から抜け出せず、場に充実でなければならず、一度抜け出したら生きていけない個人以前の嬰児的性格に不安を感じているだけ、日本企業の終身雇用、年功序列に郷愁を持ち、誇りを持つ、そんなことでは近代化をいう資格はない
  • その場とは戦前は国家、戦後は企業・組織、日本人は場の雰囲気に心身共に縛られてしまいがち、その場の支配から容易に脱せない、「今鳴いた鳥がもう笑った」と言われるのを恐れる
  • 演劇人も自分たちだけの穴場を唯一の共通の場と心得、そこからの離脱を恐れ、ひたすらにそれに忠誠ならんとしている、仲間と仲間同様の演劇青年とだけ手を組んでいくらでも自己欺瞞が可能
  • 蠅取り紙に蠅が貼り付いたように縛られるが、1、2本だけ足をつけていても、脚が強靱であり、羽の力が強ければ、場の粘着力によって個としての離陸、飛翔の能力を失う恐れがない、それこそ精神の近代化(=自由の獲得)である

「演劇入門」は昭和25年から51年にかけて発表されて福田氏の論文をまとめて本にしたものなので、或いは現代においては状況は大きく変っているかもしれないが、氏の演劇にかける熱い思いの基本は現代でも通用するのではないかと感じた。

福田氏の演劇論の中で述べられている種々の言葉は、この本がいくつかの論文を集めたものであることから、最初に統一して定義が示されているわけではないので、なかなか理解できないところがある、以下のような大事な用語についてはちゃんと理解できたかは自信がない、今後、また折に触れてゆっくり再読したい

  • リアリズム=写実、一方、演劇は描写ではないと述べている、写実と描写の違いは?
  • 日本舞踊はすべて日常生活における一つ一つの具体的なしぐさの連続からなり、それを1つのムーブメント=流れとして様式化したもの
  • シェイクスピア劇は写実的
  • 心の動きが自然のような表現、すなわち、リアル(自然)で型(絵の様)になっていなければならない
  • 大事なのは、どう喋り、どう動けば、それが芝居になるのか、つまり効果的であるかということと、
  • 写実的であり、自然であるということと矛盾しない
  • 文学性
  • 演劇性
  • 観念性(作者によって意識された知的な観念であり、主題であり思想である、これが近代劇・近代文学・近代小説を衰弱させた、文学は被害者、観念性は加害者、観念性の主張のため劇の中の文学的要素であるせりふが被害を受けた)
  • 表現主義演劇
  • 自然主義演劇

以上、長々とまとめてきたが、シェイクスピア戯曲の翻訳家、演出家、保守派の論客としての氏の考えがよく出た本だとおもった。演劇に興味がある人にとっては読んでみてよい本棚だとおもう。


福田恆存「演劇入門」を読んで(その2)

2023年03月11日 | 読書

(承前)

「演出論」では、氏は、演出=交通整理、だと考えている、演出家中心の演劇は常につまらない、潔癖な人は舞台芸術に対して完璧で統一ある作品を生み出そうと考える、全体主義国の演劇は必然的に演出家中心主義にる、演出家=全能者という考えに惹かれた演出家は劇の隅々まで自分の爪痕が残らないと承知しなくなる、演劇は「妥協の芸術」だ、役者は台本に、劇作家は役者に妥協しなければならない、妥協の余地のないものはもはや芸術でない、目に見える生きた肉体(役者)が、眼に見えないもの(演出家)に操られているのを眺めるのは観客にとって苦痛だ、役者の自由が禁じられ表立ってくると表立ってくると、観客の想像の自由を失う、私たちの後進性がよく新しさと勘違いして肯定されていることがあるが、演劇中心主義もそのひつ、演劇後進国日本に西洋帰りの演出家を奉る風習を生み、演出家を演劇の中心的存在に祭り上げた、これは知識人や文化人といった人たちが特権階級に祭り上げられる傾向と一致している。

全体主義国家の演出云々というところは福田氏ならではの論理展開であろう。なかなか面白い論考である。演劇の演出家に限らず、オーケストラの指揮者、オペラの演出家、映画監督などの役割についても考えさせらる。

「シェイクスピア劇の演出」では、役者と劇作家との間には対立や抗争があるが、ある種の信頼感があれば両者は両立する、演出家の役割はその両立の兼ね合いにかかっているのでその範囲を逸脱してただ全体の統一といってもそのよりどころは演出家の恣意による以外なくなる、演出の意識過剰にしてはならない、シェイクスピアは劇的効果という点では何人も及ばぬほど的確であった、劇的効果とは不安・怒り・懐疑・愛欲・野心等の情熱を刺激し浄化する効果のこと、劇は描写ではない、ハムレット役者は観客がその都度ハムレットにこうしてもらいたいと願うことをやってのけて、観客の心理的願望を満たしてやらなければならない、役者は観客が自己の心理的効果を充足させるため、観客の身代わりとして、舞台に昇っているのだと言うこと、シェイクスピア劇では役者もまた作者、演出家、観客にならなければならない、つねに作者と役者と観客との三位一体がある

シェイクスピアの原文は強弱の音が交互にひびき、リズムがありテンポがあるので早く喋っても言葉が崩れない、日本語の翻訳では早く喋るとわけがわからなくなる。これは(その1)でも述べた「ジョン王」を観たときに感じた日本語せりふの聞き取りにくさについての福田氏による回答かもしれないと思った。

(その3に続く)