悩む主人を見たのは初めてだった。
店を立ち上げてから1ヶ月。
3日にいっぺんのペースで
「玉子焼きの甘味が少し強いんじゃない?」とか
「塩味だけのにしろ」とか
「もっと甘いほうが好きだな」とか
様々なご要望をお客様から頂戴していた。
「オレの決めた味、・・うーん・・・。そんなにヘンかなぁ・・」
主人はこうと決めたら動かない。どんなに「違うよ」と言っても
まっしぐらに自分が考えている方向に突っ走る。
「おいしいと思うよ」
私は言った。でも主人は黙ったままだ。
さらに半月が経ち、以前私がよく行っていた飲食店のマスターが
お祝いに来てくれた。食事をしてお帰りを見送った後、
主人が言った。
「マスターがさ、玉子焼きを食べてボソッと言ったんだよね。
“・・・あのさぁ、玉子焼きくらいは河岸玉じゃなくてさ、
自分で焼こうよ”って」
「えっ、“自分で焼いてます”って言ったんでしょ?」
「いや、独り言みたいな感じだったんでそのまま特には何も」
「えー、何でそう思ったんだろう」
「オレ、河岸玉買ったことないからわかんないんだけどさ。あれって
たぶん外側も中側も焦げ目がついてないんだよ」
「あ、そうなの?」
「実家も鮨雅も焦げ目をつけるのね。でもホテル海洋は一切焦げ目を
つけずに焼くんだよ。見た目がきれいだからうちでもそうしようと
思ったんだけど、“自分で焼いてます”って感じがするのは
焦げ目がある方なのかな」
「あー、なんかわかる。表面とか切った断面のぐるぐるのところが
焦げてトラ模様になってる感じ。いいよねー」
「一番端っこのところも人気あるしな・・・」
「そうそう」
「・・・なんかさ、一生懸命焦げ目つけないで焼いて、買ったものと
間違えられるくらいなら、いっそ焦げ目をガツンとつけようかなこれから」
沈黙が続いた。
「よし!決めた。甘味をもう一回見てみて、あとは動かさない。
オレの気持ちがハッキリ決まっていなかったのがいけなかった。
もうブレない」
翌日からは、不思議なくらい言われることが少なくなった。
たまにご意見を頂戴しても「これがうちの味ですから」と
主人は静かに言った。
厚手の玉子焼き用のフライパン。
軽くけむりが出る頃合いで油をひく。お玉で一杯、卵液を流し込むと
ジュッという音とともに均等に泡が立つ。フチから火が通っていく。
長い菜箸で向こう側に寄せる。軽くまた油をひいて卵液。今度は
真四角のフライパンを傾けながら寄せた玉子の下に液をもぐり込ませる。
左手の持つ手と腰を使って煽りながらパタン、パタンとひっくり返す。
何度か寄せて卵液、ひっくり返すを繰り返すと、ぶりんと大きな玉子焼きが
出来てくる。 ここからが焦げ目をつける本番だ。
菜箸からゲタと呼ばれるフライパンとほぼ同じ大きさの木の板に
持ち替えると、その板に玉子焼きを載せたりフライパンに戻したりしながら
何度も熱したフライパンの側面に板でギュウーっと押しつけていく。
ぶるぶるんと揺れる姿はとても卵8個ぶんの液体だったとは思えない。
できあがった玉子焼きのどの面にもまんべんなく焦げ目がついていた。
端から4~5センチの厚さで切ると、湯気が立ち昇っていく。
「こっち、ひとつね」
「わたしもちょうだい」
いつしかお客様の前で焼くようになっていった。
玉子焼きは次々と切り分けられ、お皿に載ってお客様の前へ。
お箸でくずしながら頬張り、あまりの熱さから身悶えるお客様も
いらっしゃる。
このときの空気がたまらなく好きだ。