地底社会派大学の学生1年生(仮)

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震災支援最終日とまとめ

2011-05-31 | ブログ版つぶやき
5月7日、
6日目。

最終日。
全然書いていませんでしたが、
相馬市に置いておいた2人のメンバーがいたんです。
相馬市で、被災したペットを世話する避難所で活動していた、
2人をピックアップ。
余った救援物資は、いわき市の農家さんにすべて寄付。
川俣町の農家さんから預かった、
白米糠をアジア学院に運搬した。

高速に乗って、
ひたすら帰路。
首都高速が嫌だから、
中央道に乗って、帰った。
福島→栃木→群馬→長野・・・という感じで。
磐越を突っ切って、
ひたすら日本海という選択肢もあったが、
栃木の某Aに寄る必要があったので、
断念した。

ETCの深夜割引に引っ掛けるために、
わざと遅くSAを利用しつつ、走った。
12時間以上かけて。

着いたのは、8日午前1時。

まとめ。
栄養不足が深刻だった。
手近なおにぎり、パン、ラーメンばかりだったので、
ビタミン・ミネラル不足。
5日だけだったから、身体は持ったけど、
1ヶ月支援するならば、もっといい食事を。
倒れてしまって迷惑をかけます。
高速に乗り過ぎた。
予定の時間をオーバーするのはしょうがない。
しょうがないが、
だからといって安易に高速乗ってよいのだろうか?

ここまでは我がグループの問題。

私たちが見た被災地はほんの雀の涙にも満たない
3つの点にしか過ぎない。
被災地は非常に広く、3つの点をわずか1週間ほどで見て、
震災を語るなんておこがましくもある。
しかし、被災地の状況を伝えることはわずかだが、できうる。
仕事はいっぱいあるのに、
把握し切れなかったり、平等にやろうとしたりして、
上手くボランティアに仕事を分配できていないそうだ。
被災者と非被災者の溝もそうだが、
沿岸部200mの被災者と
「内陸」市街地の被災者の溝も開いている。
このような言い方は失礼だが、
同じ被災者なのに、津波を受けたか受けなかったかで、
境遇が違う。
市街地の被災者はもう普段の生活をしている。

まだ気付いたことはあるはずだ。
文字数の都合、時間の都合で、
一旦終了させていただく。
また時間があれば、追記する。

福島県報告、続報、5月4日~6日

2011-05-30 | ブログ版つぶやき
だいぶ遅くなってしまった。
たぶんおそらく、5月4日からのことだと思う。

5月4日、
3日目。
5月3日に泊まった農家さんの家は、
某Aのツテ、つまり私たちから見れば、ツテのツテ。
ツテは大事だね。

いわきは原発の南側だが、この日行ったのは、
原発の北側、相馬市だ。

いよいよ、トラックの重い物資を渡す日が来た。
それと同時に地震と津波でやられた福島の本体部分へ
援助する日でもあった。

午前4時くらいに起床して、出発。
毎朝早く、皆さん少々疲れ気味。

高速で常磐道をちょっと乗って、
磐越道、東北道を通って、福島市で降りて、
海へ向かって東進。
午前9時ごろ、相馬市のボランティア団体に到着。
相馬は暑かった。まるで、夏だ。
栃木は涼しかったのに。

この団体は3月20日くらい、第1陣でつくったツテだ。

実は行くまで仕事ははっきりしなかった。
行ってみても、ボランティアがする仕事がないこともある
ということは考えられた。
でも、仕事はあった。
なければないでそれもそれで、経験だ。
でも、あってよかった。

3つの班に分かれた。
2人は身寄りのなくなったペットを預かり、
世話する避難所で犬の散歩等をする人。
2人はトラックに積んだ物資を仕分けして避難所に
分配する人。
残りは、海岸近くの墓地で片づけをする人。
この墓地は実際見れなかったが、
すごくひどい状況だったそうだ。

私は分配班に回った。
避難所に野菜をお届けするという、
貴重な体験をさせてもらった。
「被災者と非被災者の間には大きな溝があって」
という話を聞いていた。
しかし、
野菜を手渡すとき、
「このよそ者が・・・」
ということもなく、おおむね好意的に受止めたようだった。

しかし、
ボランティア団体の事務長に避難所まで来てもらって、
野菜以外の物資を仕分けてもらおうとしたが、
多忙のため来られなくて、
物資の半分は渡せなかった。

相馬市の引き際も、
やっぱりちょっと計画通り進まなくて、
ごたごたして、出発が遅れた。

某Aからのお願いで、
とある農家さんから「有機農業がもうやっていけなくて、
白米糠を買い取るので、運んで欲しい」と言われたので、
その通りにした。
川俣町の農家さんまで行って白米糠を取りに行った。

川俣町からいわきの農家さんの家まで帰ったから、
夜11時半になっていた。
日本狭いと言うけれど、福島県は広い。
いわきも一つの市だけれど、その市だけでも広い。

5月5日、
4日目。
朝10時起きで良いといったのに、
みんな8時起床。
農家さんの家を補修。
午後、平工業高校まで、野菜届けつつ、
避難所を見学。

この日は曇っていて涼しかった。

そこで、たまたま別の関西のボランティア団体
「某M福島」(?)に会って、
付き合いで、「いわき野菜クラブ」の話を聞いて、
かんぽの宿で温泉に入った。

その頃は夕方だったが、
帰り道にいわきの海岸沿いを見て回った。
震災から2ヶ月が経とうとしていた中、
ほとんどそのままの状態で津波の爪痕が残っていた。
その爪痕は海岸から200mくらいまでの沿岸部だけだ。

この日は早く、夜8時に帰って来れた。
いわきの農家さんの家に。
この農家さんにはだいぶお世話になった。

5月6日、
5日目。
いわきの農家さんの家は、
地震の揺れで大きな被害が出て、
壁が壊れたり、瓦が落ちたり、水が出なかったりしていた。
それをみんなで直していった。
1日中。
直しつつ、疲れを取った。

あと、5月7日の分が残っているが、
また今度としよう。

福島のことを書く

2011-05-14 | ブログ版つぶやき
報告書も書いてない。
しかし、そろそろ、
福島のことを本気で書かないと、怒られそうだ。

5月2日、
日付が変わって午前0:40、
要するに、5月1日深夜。
予定通り、9名。
鳥取市某スーパーM湖山店近くを出る。
借りたトラックにいっぱい荷物を積み、
支援者から借りたエスティマに人員を乗せ、出発。
トラックは2人、エスティマは7人乗った。
鳥取自動車道、鳥取インターから高速に乗った。
中国道佐用から本気で高速だ。
運転手、助手席は眠れない。
運転手じゃなかったのに、全然眠れなかった。
福島へ行く不安、緊張いろいろな思いが交錯していた。
いろいろなSAで止まり、運転手交代した。
京滋バイパス→旧名神を経て、養老SA、
ここでいったんトラックとお別れ、
トラックは中央道へ、エスティマは東名へ。
エスティマは訳あって浜松西インターで一度降りる。

いよいよ、首都高だ。
ナビに頼って、何とか通過。
東北道に乗る。
トラックと合流。
最初の目的地、福島ではないが、
栃木の西那須野塩原で降りて、
某Aという所へ行った。
ここにはツテがある
初日は親しい(と思われる)A氏宅で、
いろいろ話しながら、
カレーを食べて泊まった、寝た。
疲れているだろうから、初日は何もしない。
その前に、某Aの施設を回って見た。
いろいろ農業の話を吸収した。

5月3日、
やっと、2日目の話だ。
どうも長くなりそうだ。
「明日は6時半集合」といっていたから
みんな、6時くらいに起床。
ミーティングが始まった。
某Aというのは、国際的だから、
オールイングリッシュ。
意味が分からない。
でも、何となく慣れてきた。
つたない自分の英語は何とか通じたようだ。
草取り、薪木運び、水やり、肥料撒く、など、
いろいろ手伝った。
あと、何かの豆にツルを絡ませる、シートを張った。
これで、某Aとも栃木ともお別れ。
福島県へ向かった。
ここで、初めて東北の土を踏んだのだ。
いわき市へ。
いわきの山奥だ。
mixiチェックインの効かない所だ。
かなり道に迷い、
着いたのは夜遅くだ。
自然農法の卵を送ってもらった所だ。
この農家さんの宿を借りて宿泊地とした。
着いたら寝るだけだった。

こんなに書いたのに、半分も書けてない。
ここでいったん終了。
次回へつづく。
to be continued....