昭和22年(1947)私が17才から20才までの高校生時代の友人との遊び事です。
私の小学校と中学校の時代は、大東亜戦争が激しさを増してきて、隣近所の学校友達の殆どが地方へ疎開してしまい、遊び友達には恵まれませんでした。
終戦後やっと、夜間高校生になって一緒に遊べる友人が出来たのです。
夏には、 「海水浴」
春と秋は、「東京近郊へ日帰りハイキング」
「桜の花見」
「たまに、一泊での山歩き」
冬には、 「スキーにも出かけました」
終戦後の若者(夜間高校生)の遊びです。
① 「海水浴」は、湘南方面が多く。
交通手段は、「国鉄・現在のJR」か「私鉄」でした。
行き先は、鎌倉・江ノ島・茅ヶ崎・葉山海岸など。
海水浴には、問題が私にありました。
それは、私は泳げないのです。
小学校の10才の頃には学校にプールがありませんでしたので、当然に泳ぐという経験がありません。
ある日、学友五人と「葉山海岸」に行ったときのことです。海岸で砂遊びをしているときはよかったのですが、5メートルほど沖にある岩に学友四人が泳いでいってしまいました。
岩は目の前ですので、何とか私もその岩に行きたいと思い泳ぎだしましたが、海水をがぶがぶ飲み込むばかりで少しも前にすすみません。
そのうち、学友四人が戻ってきて手伝うから一緒に岩に行こうということになり、再挑戦、仲間に守られて泳ぎ出しますが、泳いだことがないから、前に少しも進みません。
また、海の水をたっぷり飲み込むばかりです。
その後も友達と「海水浴」には行きたいが、行っても沖に行かれたら一人ぽっち。
どうすれば、一緒に海水浴で一緒に遊べるか一生懸命に考えました。
その夏に、親父以下家族一同で「潮し狩り」に行く機会がありました。
行き先は「京成電鉄の谷津遊園」です。
ここは、電車を降りて10分ほど歩くと「遊園地」です。
手前に大きな「海水プール」があって、両側に海の家が並んでおり、そこで「着物を脱いで預けパンツ一つになり」
プールの先に行くと「遠浅の潮し狩り」が出来る海が遠くまで開けていたものです。(現在は開発され遊園地の姿は無い)
「貝堀り」が終わると、「海の家」で昼食。
目の前は「海水プール」です。私が親父に「どうしたら泳げるようになるか。」と聞くと、教えてあげるからプールに入れと言う。
親父が見本を示したのは「抜き手」という泳ぎ方だ。
左肩を上に、顔を水面に出して、足と手で蹴るように泳ぐのだそうだ。
昔の人の泳ぎはこのように泳ぐのが普通だと言う。
これを、契機に仕事と学校が休みの日に、私一人の「谷津遊園地の海水プール」通いが始まった。
この夏だけでも、五回は「遊園地」に行ったかな。
親父とお袋には内緒でね。
「土方仕事」の外仕事で顔や身体は真っ黒だから、両親は気が付かない。
泳ぎ方は、見よう見まねで「カエル泳ぎ」にした。
これで、学友との「湘南方面」の海水浴にも行ける。
翌年、18歳での学友との「海水浴」には、平泳ぎで50メヘトルは泳げるようになっていたので、「葉山海岸の5メートル先の岩場」は楽勝となった。
「冬のスキー」昭和23年の冬
18才の冬のこと。スキーという遊びを一度もした事がないと私を含め友達全員が言うので、「スキーを計画」した。
スキーと云えば「越後」「越後と言えば湯沢たよな」と言うことで、土曜日の午後からなら出かける予定が組めると皆がいうので、「越後湯沢」にスキーに行くことにした。
この時代、我々は誰もスキーをした経験が無い。当然にスキーの板や靴などの道具類は何も持っていない。
旅行社で聞くと、スキーの道具は、現地で貸してもらえるというので、「湯沢の民宿」と「汽車の切符の手配」をして、その内容を夜学校で参加者に報告した。
宿には、夕方までには着いて下さいというので「上野駅に午後2時に集合ということにした。」
翌日、朝食後、早速に道具を借りてスキー場へむかった。
なだらかな、雪の丘という所で「スキーの板に長靴をバネで止める」
オッかなびっくりと、雪の斜面をストックで押すと、「するするスッテんころりん」全員転げるばかり。
周りのスキーヤーを見るとスート滑って楽しそう。
一時間ばかり、下手なのだから仕方が無いと、一生懸命練習するが、誰一人上手く滑る仲間がいない。少し滑るっては、すぐに転ぶ。
其のうち、我々の近くに上手に滑っている人が来たので、「どうすれば上達するのか」教えを請うた。
その、スキーの上手な人が我々のスキーを見ていて「これでは何時までやっても上達しませんよ」と言う。
なんで、と全員で聞くと。
1「まず、道具が悪いという。」
2「長靴にスキーの板は、地元の小学生が練習する姿だよ」
3「板が悪い。普通はスキー板の縁に鋼鉄のエッジというものが貼り付けられていて。
これで雪の斜面をコントロールするようになっている。」
4「皆さんのスキー板には、このエッジが一つも付いていない。
スキーの板の角が取れていて丸くなっている、これでは、転ぶばかりですよ」
という、事で「スキーとはこんなものか」で゛スキーは終わりになる。
後は雪合戦でもやろうということで、雪遊びに興ずる。
後日談「民宿の夜食」
土曜日の夕方に「越後湯沢の指定された民宿」に着いた。
民宿の風呂に入り、全員が夕食のお膳につく。
我々は、当然に「山采の料理」が並ぶと創造していたが???。
海岸から遠く離れた、山の中の民宿だよ。
「どうぞ、沢山食べて下さい。」と言って出てきた料理」は。
「かきのフライに刺し身」これにはびっくり。
こんな山の中まで何時運んできたのかと思うと「フライと刺し身」は痛んでいないか。
「食べて、全員が腹痛か」18才の若者には、結局理性より腹ペコが優先した。
昭和23年冬の交通不便な時代のこと、民宿では普段食べられない料理でもてなしてくれたのだろうがね。
私の小学校と中学校の時代は、大東亜戦争が激しさを増してきて、隣近所の学校友達の殆どが地方へ疎開してしまい、遊び友達には恵まれませんでした。
終戦後やっと、夜間高校生になって一緒に遊べる友人が出来たのです。
夏には、 「海水浴」
春と秋は、「東京近郊へ日帰りハイキング」
「桜の花見」
「たまに、一泊での山歩き」
冬には、 「スキーにも出かけました」
終戦後の若者(夜間高校生)の遊びです。
① 「海水浴」は、湘南方面が多く。
交通手段は、「国鉄・現在のJR」か「私鉄」でした。
行き先は、鎌倉・江ノ島・茅ヶ崎・葉山海岸など。
海水浴には、問題が私にありました。
それは、私は泳げないのです。
小学校の10才の頃には学校にプールがありませんでしたので、当然に泳ぐという経験がありません。
ある日、学友五人と「葉山海岸」に行ったときのことです。海岸で砂遊びをしているときはよかったのですが、5メートルほど沖にある岩に学友四人が泳いでいってしまいました。
岩は目の前ですので、何とか私もその岩に行きたいと思い泳ぎだしましたが、海水をがぶがぶ飲み込むばかりで少しも前にすすみません。
そのうち、学友四人が戻ってきて手伝うから一緒に岩に行こうということになり、再挑戦、仲間に守られて泳ぎ出しますが、泳いだことがないから、前に少しも進みません。
また、海の水をたっぷり飲み込むばかりです。
その後も友達と「海水浴」には行きたいが、行っても沖に行かれたら一人ぽっち。
どうすれば、一緒に海水浴で一緒に遊べるか一生懸命に考えました。
その夏に、親父以下家族一同で「潮し狩り」に行く機会がありました。
行き先は「京成電鉄の谷津遊園」です。
ここは、電車を降りて10分ほど歩くと「遊園地」です。
手前に大きな「海水プール」があって、両側に海の家が並んでおり、そこで「着物を脱いで預けパンツ一つになり」
プールの先に行くと「遠浅の潮し狩り」が出来る海が遠くまで開けていたものです。(現在は開発され遊園地の姿は無い)
「貝堀り」が終わると、「海の家」で昼食。
目の前は「海水プール」です。私が親父に「どうしたら泳げるようになるか。」と聞くと、教えてあげるからプールに入れと言う。
親父が見本を示したのは「抜き手」という泳ぎ方だ。
左肩を上に、顔を水面に出して、足と手で蹴るように泳ぐのだそうだ。
昔の人の泳ぎはこのように泳ぐのが普通だと言う。
これを、契機に仕事と学校が休みの日に、私一人の「谷津遊園地の海水プール」通いが始まった。
この夏だけでも、五回は「遊園地」に行ったかな。
親父とお袋には内緒でね。
「土方仕事」の外仕事で顔や身体は真っ黒だから、両親は気が付かない。
泳ぎ方は、見よう見まねで「カエル泳ぎ」にした。
これで、学友との「湘南方面」の海水浴にも行ける。
翌年、18歳での学友との「海水浴」には、平泳ぎで50メヘトルは泳げるようになっていたので、「葉山海岸の5メートル先の岩場」は楽勝となった。
「冬のスキー」昭和23年の冬
18才の冬のこと。スキーという遊びを一度もした事がないと私を含め友達全員が言うので、「スキーを計画」した。
スキーと云えば「越後」「越後と言えば湯沢たよな」と言うことで、土曜日の午後からなら出かける予定が組めると皆がいうので、「越後湯沢」にスキーに行くことにした。
この時代、我々は誰もスキーをした経験が無い。当然にスキーの板や靴などの道具類は何も持っていない。
旅行社で聞くと、スキーの道具は、現地で貸してもらえるというので、「湯沢の民宿」と「汽車の切符の手配」をして、その内容を夜学校で参加者に報告した。
宿には、夕方までには着いて下さいというので「上野駅に午後2時に集合ということにした。」
翌日、朝食後、早速に道具を借りてスキー場へむかった。
なだらかな、雪の丘という所で「スキーの板に長靴をバネで止める」
オッかなびっくりと、雪の斜面をストックで押すと、「するするスッテんころりん」全員転げるばかり。
周りのスキーヤーを見るとスート滑って楽しそう。
一時間ばかり、下手なのだから仕方が無いと、一生懸命練習するが、誰一人上手く滑る仲間がいない。少し滑るっては、すぐに転ぶ。
其のうち、我々の近くに上手に滑っている人が来たので、「どうすれば上達するのか」教えを請うた。
その、スキーの上手な人が我々のスキーを見ていて「これでは何時までやっても上達しませんよ」と言う。
なんで、と全員で聞くと。
1「まず、道具が悪いという。」
2「長靴にスキーの板は、地元の小学生が練習する姿だよ」
3「板が悪い。普通はスキー板の縁に鋼鉄のエッジというものが貼り付けられていて。
これで雪の斜面をコントロールするようになっている。」
4「皆さんのスキー板には、このエッジが一つも付いていない。
スキーの板の角が取れていて丸くなっている、これでは、転ぶばかりですよ」
という、事で「スキーとはこんなものか」で゛スキーは終わりになる。
後は雪合戦でもやろうということで、雪遊びに興ずる。
後日談「民宿の夜食」
土曜日の夕方に「越後湯沢の指定された民宿」に着いた。
民宿の風呂に入り、全員が夕食のお膳につく。
我々は、当然に「山采の料理」が並ぶと創造していたが???。
海岸から遠く離れた、山の中の民宿だよ。
「どうぞ、沢山食べて下さい。」と言って出てきた料理」は。
「かきのフライに刺し身」これにはびっくり。
こんな山の中まで何時運んできたのかと思うと「フライと刺し身」は痛んでいないか。
「食べて、全員が腹痛か」18才の若者には、結局理性より腹ペコが優先した。
昭和23年冬の交通不便な時代のこと、民宿では普段食べられない料理でもてなしてくれたのだろうがね。