「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「豊臣秀次の群像」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書」

2020-01-31 06:36:06 | 温故知新
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豊臣秀次(1568年~1595年)安土桃山時代の武将。豊臣秀吉の甥。通称孫七郎。父は三好吉房、母は秀吉の母の姉。1584年(天正12)小牧・長久手の戦に出陣し、敗れて有力家臣を失い、秀吉に叱咤された。しかし、翌年秀吉から近江に43万石の領知と山内一豊以下4名の宿老を付与され、八幡山に城を築いた。1590年秀吉の東国平定に際しては尾張清洲城に入り、宿老たちは東海道の要所に進出、豊臣政権の対東国最前線に配置された。実子に恵まれなかった秀吉が関白になると、羽柴秀長らとともに昇殿、1586年の右近衛中将から中納言、内大臣、左大臣と昇進。1591年には関白職を譲られ、後継者の地位についた。1593年(文禄2)秀頼が生まれると、実情は一変し、太閤として実権を握る秀吉と関白秀次権力との間に矛盾が表面化し、尾張の蔵入り地に太閤奉行衆の介入を受けるに至った。秀次に日本国の五分の四を与えるとか、秀次の娘と婚約など秀吉側から提案されたが、実現しないまま、1595年7月に謀反の罪で高野山に追放され、切腹させられた。妻子妾子女30余名も三条河原で悉く斬られた。秀次は調停に書籍を献上し、能の謠本百番の注釈など、作らせるなど、伝統文化の保存と継承した貢献した側面があった。正親町上皇の諒闇中に狩猟を行う軽率な性格があり、こうした結果を招いたといわれている。