諸々雑記メモワール

諸事,気にとめたことなどを書きしるしたいと思います。

「食と人物」今日はどんな日 4月8日「大日比 夏ミカン原樹」が天然記念物に指定される

2015-04-08 14:08:30 | 日記

「大日比 夏ミカン原樹」が天然記念物に指定される

  1927年(昭和2)のこの日,山口県長門市仙崎大日比(おおひび)の青海(おおみ)島の海岸近くにある「大日比 夏ミカン原樹」(樹齢300年)が「史跡名勝記念物保存法」により天然記念物に指定される。現在も大日比の西本氏宅に現存。

 この夏ミカン原樹は,1704年(元禄17)頃,対馬暖流にのって青海島海岸に漂着した柑橘の種子から成長したもので,日本における夏ミカンの起源といわれる。海岸で種子を発見したのは,西本チョウという女性。

  明治維新後,夏ミカンは,旧萩藩では,生活に苦しむ士族救済のため,士族授産資金を活用し,屋敷を壊した空地などに栽培され,旧萩藩士の殖産事業として奨励された。このため,萩はわが国最初の夏ミカン集団産地に成長した。

  萩の夏ミカンの産地化に尽力したのは,小倉県令(知事に相当,現・北九州市)を退官した後,萩に帰住した小幡高政(おばた・たかまさ,1817.12.26~1906.7.27)である。第二次大戦前は夏ミカンによる収入が萩市の財政を上回る程であったという。


「食と人物」今日はどんな日 4月3日 和歌山県の橘本(きつもと)神社で「菓子祭・全国銘菓奉献祭」

2015-04-07 14:48:40 | 日記

 和歌山県の橘本(きつもと)神社で「菓子祭・全国銘菓奉献祭」

 

田道間守(たぢまもり)は,垂仁(すいにん)天皇の命を受けて常世(とこよ)の国より非時香菓(ときじくのかくのこのみ,橘)を持ち帰った。この功績をたたえ,田道間守を果物と菓子の神様として祀(まつ)る神社は全国に10余ヵ所あるといわれている。

  代表的な神社は兵庫県北部にある豊岡市の中島神社,太宰府天満宮(福岡県)の中島神社,佐賀県の伊萬里神社,紀伊国屋文左衛がみかんを積んで船出したという伝説の地にある和歌山県海南市下津町の橘本(きつもと)神社などがある。

  お菓子がなかった時代には,橘の実を加工してお菓子として食べていたことから,田道間守はお菓子の神様ともいわれている。橘本神社では,毎年4月3日に「菓子祭・全国銘菓奉献祭」が行われ,全国各地のお菓子屋さんより,和菓子,洋菓子,飴菓子等の色々なお菓子が奉納される。また,毎年10月10日(体育の日)には「みかん祭」が開催される。

 

 ところで,昭和17年(1942),田道間守をたたえる歌詞(「田道間守の歌」)が当時の小学校であった国民学校の「初等科音楽」(国定教科書)に初めて掲載される。

 

 

 

  1 かおりも高いたちばなを

 

    積んだお船がいま帰る

 

    君の仰せをかしこみて

 

    萬里の海をまっしぐら

 

    いま帰る田道間守 田道間守

 

  2 おはさぬ君のみささぎに

 

    泣いて帰らぬまごころよ

 

    遠い国から積んで来た

 

    花たちばなの香(か)とともに

 

    名はかおる田道間守 田道間守

 

 

 

この歌を兵庫県豊岡市の中嶋神社で小学生が歌っている貴重な録画をyutubeで聞くことができる。

 

 

 

 


「食と人物」今日はどんな日 4月7日 リンゴの需要拡大に貢献した歌手・並木路子(みちこ)逝く

2015-04-07 11:20:37 | 日記

リンゴの需要拡大に貢献した歌手・並木路子(みちこ)逝く

 1921.9.30~2001.4.7(79歳)

東京浅草出身。16歳で松竹歌劇団に入団。1945年(昭和20)3月10日下町を襲った東京大空襲(死者9万3千人)で母親を亡くし,火の海の隅田川を流されているところを危うく救助され九死に一生を得る。

  同年10月24歳のとき戦後初の企画映画『そよ風』(松竹)が封切られ,主題歌「リンゴの唄」(サトーハチロー作詞,万城目正作曲)を歌う。これがまたたく間に大流行し,敗戦直後のすさんだ人々の気持ちを和らげる。「赤いリンゴに唇よせて/だまって見ている青い空」のリンゴは今ではほとんど生産されなくなった紅玉であったといわれる。

  昭和20年当時のリンゴ生産量は6万4,600トンと昭和期の最低を記録。「リンゴの唄」はリンゴのイメージアップや消費拡大に果たした役割は計り知れないと思われる。

  87年(同62)には青森県リンゴ対策協議会から感謝状(平成12年,同県から初の青森りんご勲章)を,88年(同63)には長野県市民団体から「リンゴ王国・信州・クイーン賞」を贈られた。平成13年死去。

  なお,作詞したサトーハチロー(1903~73)の祖父・佐藤弥六(1842~1923)は青森リンゴの先覚者の一人。


「食と人物」今日はどんな日4月6日 タケノコが大好物だった戯作家で狂歌師の大田南畝(なんぽ)逝く

2015-04-06 11:28:01 | 日記

タケノコが大好物だった戯作家で狂歌師の大田南畝(なんぽ)逝く

 1749.4.19(寛延2.3.3)~1823.5.16(文政6.4.6)

  タケノコが出回る季節になったが,南畝(蜀山人<しょくさんじん>と号して狂歌史上不動の位置を占める)はタケノコに目がなかった。息子を入門させようと大筍をもってきた人に対して,「竹のこのこの竹の子の竹の子のこの子の末もめでたかるらん」とうたった。

  1794年(寛政6年),45歳のとき幕府の人材登用試験に首席で合格し,大阪銅座や長崎奉行所などにも転勤し,長崎ではロシアの特使レザノフ と会見している。75歳のとき登城の道での転倒が元で死去。

  才筆豊かな人物で,19歳で著した狂詩集には,平賀源内(1728~79)が序文を寄せている。江戸の狂歌ブームのきっかけを作ったとも言われる。なお,土用の丑の日に「うなぎを食べるとよい」と言ったのは南畝ともいわれる。

  辞世の歌は「今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」とも「生きすぎて 七十五年食ひつぶし かぎり知られぬ天地の恩」ともいう。狂歌をはじめ,漢詩文,戯作,随筆などを収録した『大田南畝全集20巻』(岩波書店)がある。


「食と人物」今日はどんな日4月5日カレー粉国産化に成功した山崎峯次郎,日賀志屋(現ヱスビー食品)創業

2015-04-05 15:25:14 | 日記

カレー粉の国産化に成功した山崎峯次郎,日賀志屋(現ヱスビー食品)を創業

 1903.6.11~1974.11.4

 

 大正期,カレー粉は殆どが輸入品で,その大半は英国製であり,その原料や調合割合は全然わからず,本格的なカレー粉の製造は国内では行われていなかった。ソース屋に勤務のかたわらカレー粉の製造の研究を行っていた山崎峯次郎は種々研究の結果,日本で初めて純国産のカレー粉の製造に成功し,1923年(大正12)の4月5日,浅草七軒町(現台東区元浅草1丁目)に,日賀志屋を創業した。

 「一日一日を賀(よろこ)び,志をたてて商売にいそしみ励む」の生活信条を屋号とした。1930年(昭和5)社運が,日が昇る勢いであるように,また鳥が自由に大空をかけめぐるように,商品が全国津々浦々まで行きわたるようにとの願いを込めて「太陽」と「鳥」を図案化したヒドリ印をその商標とした。翌年,ヒドリ印に「太陽=SUN」と「鳥=BIRD」の頭文字「S&B」を併記して商標とした。

 これがエスビーカレーの呼び名の始まりである。日本人の嗜好にあったカレー粉の製造に専念し,カレー粉の普及の基礎を作った。1949年(昭和24)「S&B」に因み,日賀志屋を「ヱスビー食品株式会社」に改称した。著書に『香辛料 1~5巻』『スパイス・ロード:香辛料の冒険者たち』『香辛料ーその歴史とカレー』などがある。昭和49年死去。享年71歳。