タケノコが大好物だった戯作家で狂歌師の大田南畝(なんぽ)逝く
1749.4.19(寛延2.3.3)~1823.5.16(文政6.4.6)
タケノコが出回る季節になったが,南畝(蜀山人<しょくさんじん>と号して狂歌史上不動の位置を占める)はタケノコに目がなかった。息子を入門させようと大筍をもってきた人に対して,「竹のこのこの竹の子の竹の子のこの子の末もめでたかるらん」とうたった。
1794年(寛政6年),45歳のとき幕府の人材登用試験に首席で合格し,大阪銅座や長崎奉行所などにも転勤し,長崎ではロシアの特使レザノフ と会見している。75歳のとき登城の道での転倒が元で死去。
才筆豊かな人物で,19歳で著した狂詩集には,平賀源内(1728~79)が序文を寄せている。江戸の狂歌ブームのきっかけを作ったとも言われる。なお,土用の丑の日に「うなぎを食べるとよい」と言ったのは南畝ともいわれる。
辞世の歌は「今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」とも「生きすぎて 七十五年食ひつぶし かぎり知られぬ天地の恩」ともいう。狂歌をはじめ,漢詩文,戯作,随筆などを収録した『大田南畝全集20巻』(岩波書店)がある。