諸々雑記メモワール

諸事,気にとめたことなどを書きしるしたいと思います。

「食と人物」今日はどんな日 3月31日 農業指導者で詩人・児童文学者の宮沢賢治,稗貫農学校を依願退職

2015-03-31 10:02:23 | 日記

 農業指導者で詩人・児童文学者の宮沢賢治,稗貫農学校を依願退職

1896.8.27~1933.9.21(37歳)

 

  幼少時から人の不幸をわがこととする性質があったという。明治29年岩手県稗貫(ひえぬき)郡花巻町(現・花巻市豊沢町)で,質商・古着商を営み,熱心な浄土真宗の信者である宮沢政次郎(1874~1957)の長男として出生。のちに,賢治はしばしば冷害に見舞われ,貧しい農民の収奪のうえに成立する家業に対して嫌忌を抱いたという。このことも彼の文学の基底を形成する一因となっていたようにも思われる。

  盛岡中学を経て盛岡高等農林学校(岩手大学農学部の前身)で農芸化学を専攻し,研究科で地費学,土壌学,肥料学を学ぶ。助教授推薦の話もあったが,辞退し1921年(大正10)12月,稗貫農学校(現・県立花巻農業高校)の教師に就任。しかし,4年後の26年(同15)3月31日依願退職。退職の理由は定職の安逸さを嫌ったこと,農民への献身の道を選んだことなどがあげられている。

  同年8月農民指導のための「羅須(らす)地人会」を設立した。稲作指導,肥料設計などのかたわら,詩作や童話の創作に取り組む。31年(昭和6)東北砕石工場の技師に招かれるが,病を得る。この年の11月3日,病臥で手帳に「雨ニモマケズ 風ニモマケズ (中略) 一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ」を記す。この年は東北地方は冷害による凶作で農村の不況は深刻化した。

  もともと肺結核を患っていたが,昭和8年急性肺炎のため急逝。前日は病状が悪化していたにもかかわらず,夜7時頃から約1時間,不意の農民の肥料相談に応じたことなどで容態が急変したという。法華経の熱心な信者であった賢治は国訳法華経1,000部を知己に配布するよう遺言した。

  生前はほとんど評価されなかった。詩人の草野心平(1903~88)は「現在の日本詩壇に天才がいるとしたら,私はその名誉ある『天才』は宮沢賢治だと言いたい」と書いている。

 


「食と人物」今日はどんな日 3月30日 藤村紫朗(しろう)山梨県権令,日本初の葡萄酒醸造場設立

2015-03-30 11:47:33 | 日記

 藤村紫朗(ふじむら・しろう)山梨県権令(知事に相当),日本初の葡萄酒醸造場を設立し,ワイン王国山梨県の基礎作りに貢献

1845.4.7(弘化2.3.1)~1909(明治42).1.5(64歳)

肥後(熊本県)藩士の家に出生。尊皇攘夷運動に加わる。1873年(明治6)1月,山梨県権令(知事に相当)に就任。明治政府の殖産興業を推進するため,大久保利通らの指示に従い,山梨県を欧米式ブドウ栽培と醸造施設のモデル県にする意気込みで甲府・舞鶴城跡に77年(同10)3月30日,日本初の県立の葡萄酒醸造場を完成させるとともに,東八代郡祝村(現・甲州市勝沼町)に法人組織の葡萄酒醸造会社の設立を提案した。

  提案に基づき同年8月30日,大日本山梨葡萄酒醸造会社が発足した。10月10日,同社から24歳の高野正誠(1852~1923)と18歳の土屋龍憲(1859~1940)の2人の青年が前田正名に伴われて技術習得のためフランスに旅立った。

  藤村の就任期間は87年(同20)3月8日まで14年の長きにわたり,ブドウ酒醸造など殖産興業を推進し,県勢の向上に尽力した。その後,貴族院議員,男爵となる。

 甲府市北口2丁目には,藤村の功績を顕彰し,氏が奨励したとされる擬洋風の甲府市藤村記念館がある。


「食と人物」今日はどんな日 「味の素」を製造販売した鈴木三郎助(2代目)逝く

2015-03-29 11:15:09 | 日記

 

「味の素」を製造販売した鈴木三郎助(2代目)(すずき・さぶろうすけ)逝く

1868.1.21(慶応3.12.27)~1931(昭和6).3.29(63歳)

 

神奈川県三浦郡堀内村(現・葉山町)で米穀酒類の販売を営む鈴木三郎助の長男として出生。1875年(明治8)8歳のとき父が34歳で死亡したため家督を相続。苦難の時代が続くが,海草からヨードを製出する方法を研究し,90年(同23)成功。ヨードホルム,ヨードカリ,硝石などの製造に取り組み,1907年(同40)5月,日本化学工業株式会社設立,同年6月,合資会社鈴木製薬所(資本金3万5千円)設立。08年(同41)7月,帝国大学理科大学(現・東京大学理学部)教授池田菊苗(1864~1936)が発明した「グルタミン酸塩ヲ主要成分トセル調味料製造法」に注目し,9月,池田博士の調味料製造法の工業化を引き受け,特許の共有者となり,試験的製造に着手。実弟の鈴木忠治(1875~1950)の協力を経て工業化に成功。事業化するため,一家の命運をかけて,製造工場を神奈川県逗子に建設。翌年5月に「味の素」の広告を『東京朝日新聞』に初めて掲載。当初は全く売れなかったという。「味の素」が社名として登場するのは,三郎助が死去した翌年の1932年(昭和7)10月11日,「株式会社鈴木商店」の商号を「味の素本舗株式会社鈴木商店」に改称してからである。

 

 

 


89歳とはどんな歳

2015-03-03 18:38:31 | 日記

<89歳の時に何をしたか>

◇元衆議院議長・兵庫県選出の原 健三郎(1907.2.6~2004.11.6,明治40~平成16),1996年(平成8)2月13日,衆議院本会議で,尾崎行雄,三木武夫に続き,3人目の在職50年特別表彰を受ける。

 *1996年(平成8)10月8日公示の第41回総選挙(10月20日投票)に兵庫9区(比例区と重複)から立候補,本選挙の最高歳,小選挙区では落選したが,比例区で当選。

 *平成16年,97歳の天寿を全うする。

 

<89歳で亡くなった人々>

■浄土真宗の開祖・親鸞(承安3~弘長2),死去。

 

■浮世絵師・葛飾北斎(1760~1849,宝暦10~嘉永2),死去.没するとき「天我をして10年の命を保たしめば……真正の画工となろう」と嘆じて息を引き取ったという。

 

■右翼,国家主義運動の中心的指導者・頭山満(とうやま・みつる,1855.5.27~1944.10.5,安 政2.4.12~昭和19),死去

 

■元首相・吉田茂(1878.9.22~1967.10.20,明治11~昭和42),老衰のため死去.戦後初の国葬が行われる→67

 

■元東大総長・物理学者・茅誠司(1898.12.21~1988.11.9,明治31~昭和63),死去

 →58

 

■東海大学設立者・松前重義(1901.10.24~91.8.25,明治34~平成3),死去

 

■女優・岡田嘉子(1902.4.21~92.2.10,明治35~平成4),死去

 

■元熊本市長・星子敏雄(1905.11.9~95.7.13,明治38~平成7),呼吸不全のため死去

 *元満州国総務庁警務総局長

 

■元駐米大使・朝海浩一郎(あさかい),1995年(平成7)9月9日,心不全のため死去

 

■「最後の人形師」とも呼ばれた文楽人形師・大江巳之助,1997年(平成9)1月24日,徳島県鳴門市内の病院で死去

 *国立文楽劇場が保管している約400の首の大半は大江さんの作で,1976年(昭和51),人形師としてただ1人,国の選定保存技術保持者に認定された


103歳とはどんな歳

2015-03-02 22:09:49 | 日記

<103歳の時に何をしたか>

◇国文学者・物集高量(もずめ・たかかず,1879.4.3~1985,明治12~昭和60)氏,1982年(昭和57)4月3日,『百三歳。本日も晴天なり』(日本出版社)を著わす。

 

◇挿絵画家・中 一弥(なか・かずや)氏(1911.1.29~,明治44),2014年(平成26 )12月26日(金)の日本経済新聞の文化欄に「私は103歳の挿絵画家」を掲載。今夏刊行された三男の逢坂剛『平蔵狩り』(文芸春秋)の表紙絵を描く。

 

◇聖路加国際メディカルセンター理事長・日野原重明氏は,上記の中一弥氏の活動を知り,2015年2月7日の朝日新聞,毎土曜日連載「103歳・私の証 あるがまゝ行く」で,「ライバルを見つけたぞ!」と記す。

 

<103歳で亡くなった人々>

■東北大学名誉教授・西澤恭助氏,1995年(平成7)8月16日,老衰のため死去。

*東北大学学長西澤潤一の父。

 

■アートフラワーの創始者で料理研究家の飯田深雪さん,2007年(平成19)7月4日, 

老衰のため死去。