初老男のノンビリしたブログ

近所や周辺の事柄に対して、書き記して行きます。

考え過ぎを忘れよう

2018年12月03日 17時12分30秒 | 驚いたことなど

 
基本的な態度として、世間に対して憤ることを生業にしています。
世の中はオカシイ!?
それはこうした感情が無いと、創作ができないからです。
 
世の中は、理不尽で、不条理で、不幸で、不寛容なのです。
これがないと、怒りや憤りがフツフツと湧き上がって来ません。
 
ですがこうした負の感情は心を蝕みます。
一日中も何かを考え抜いていると、夕方に腹が重くなります。
先々週から顕著になった症状なのです。
 
世に出る前からこれでは、事が成っても苦しむ人生しか待っていない気がしたのです。
それならばソコソコで何とかならないか。
『中途半端よ万歳』とならないのか?
また考えてしまうのです。
 
それなのに手相の本を見ると、自分には成功や有名の線が一切ありません。
両手ともなので、生れ付きでも、努力の先でも身が立たないとあります。
 
占いを信じる信じないは別にして、こうした事実は当人のヤル気を削ぐのです。
砂の楼閣である自信が、ハラハラと風に流されて失われそうです。
 
これらの事実を踏まえると、そこそここそが我が人生な訳です。
前々から考えていた、中道で中庸で凡庸の道を生きられると考えて良いのです。
大好きな思想である『無用の要』ではないのか?
 
この世の地獄を味遭わないで、平々凡々と暮らせる実力がある。
『無事之名馬』ではないのだろうか?
そう思い当りました。
 
宮沢賢治の『風にも負けず』にも通じています。
ブログで何を書いても、何の反応も無いことが救いであると考えていい。
小説や脚本、漫画を描いてもサッパリと反応が薄い。
これは僥倖で無いのか?
そう思えたのです。
 
もう努力なんてしなくていい。
好きな事して生きて、問題無く大過も起き無いのです。
成功もしませんが、多くの経験を重ねても問題点も起きないのです。
だから世間に憤ても仕方ない。
 
問題が起きてもそれは世間様の誰かに降り注ぎ、自分には対岸の火事なのです。
遠くに聞こえる戦場の煙でしかない。
降り掛かるのは雨だけで、戦火でも火の粉でもない。
持ち物に価値が無く、誰からも奪われたりしないでしょう。
 
人生の起点になる人物にも事象にも出会わず、今が連続して行くのです。
災害も人災もここまで押し寄せて来ない。
そう考えたら気が楽になりました。
 
もうドキドキしないで平穏に暮らせばいいのです。
神や仏の庇護の元に生きているのが自分。
そう思う事に決めました。
神仏に感謝して生きて行きましょう。