基本的な態度として、世間に対して憤ることを生業にしています。
世の中はオカシイ!?
それはこうした感情が無いと、創作ができないからです。
世の中は、理不尽で、不条理で、不幸で、不寛容なのです。
これがないと、怒りや憤りがフツフツと湧き上がって来ません。
ですがこうした負の感情は心を蝕みます。
一日中も何かを考え抜いていると、夕方に腹が重くなります。
先々週から顕著になった症状なのです。
世に出る前からこれでは、事が成っても苦しむ人生しか待っていない気がしたのです。
それならばソコソコで何とかならないか。
『中途半端よ万歳』とならないのか?
また考えてしまうのです。
それなのに手相の本を見ると、自分には成功や有名の線が一切ありません。
両手ともなので、生れ付きでも、努力の先でも身が立たないとあります。
占いを信じる信じないは別にして、こうした事実は当人のヤル気を削ぐのです。
砂の楼閣である自信が、ハラハラと風に流されて失われそうです。
これらの事実を踏まえると、そこそここそが我が人生な訳です。
前々から考えていた、中道で中庸で凡庸の道を生きられると考えて良いのです。
大好きな思想である『無用の要』ではないのか?
この世の地獄を味遭わないで、平々凡々と暮らせる実力がある。
『無事之名馬』ではないのだろうか?
そう思い当りました。
宮沢賢治の『風にも負けず』にも通じています。
ブログで何を書いても、何の反応も無いことが救いであると考えていい。
小説や脚本、漫画を描いてもサッパリと反応が薄い。
これは僥倖で無いのか?
そう思えたのです。
もう努力なんてしなくていい。
好きな事して生きて、問題無く大過も起き無いのです。
成功もしませんが、多くの経験を重ねても問題点も起きないのです。
だから世間に憤ても仕方ない。
問題が起きてもそれは世間様の誰かに降り注ぎ、自分には対岸の火事なのです。
遠くに聞こえる戦場の煙でしかない。
降り掛かるのは雨だけで、戦火でも火の粉でもない。
持ち物に価値が無く、誰からも奪われたりしないでしょう。
人生の起点になる人物にも事象にも出会わず、今が連続して行くのです。
災害も人災もここまで押し寄せて来ない。
そう考えたら気が楽になりました。
もうドキドキしないで平穏に暮らせばいいのです。
神や仏の庇護の元に生きているのが自分。
そう思う事に決めました。
神仏に感謝して生きて行きましょう。