正論・異論・極論…様々な角度から考察する思考実験ブログ
【パヨク速報】「日本死ね」を嬉々として記事にした朝日新聞、足立議員の「朝日新聞、死ね」に「看過できない」(5ちゃん 速報ニュース・朝日新聞)
維新・足立衆院議員が「朝日新聞、死ね」とツイート
日本維新の会の足立康史衆院議員が、学校法人「加計(かけ)学園」をめぐる朝日新聞の
11日付朝刊の社説に対し、自身のツイッターに「朝日新聞、死ね」と投稿した。複数の
メディアが報じたのを受け、14日も朝日新聞に対して「ねつ造報道」などと投稿を繰り返した。
足立氏の一連の投稿について、朝日新聞社広報部は「現職国会議員がこうした暴力的な
言葉で正当な報道・言論活動を封じようとしたことに強く抗議します。本紙報道を『ねつ造』などとする事実無根の批判を重ねていることと合わせ、看過できません」とのコメントを出した。
【お題】
維新の足立議員による「朝日新聞死ね」の発言が波紋を呼んでいる。
足立議員によると、
昨年度に「日本死ね」なるネット上の言葉を民進・山尾議員が取り上げメディアが盛り上げ、流行語大賞にもなったのならば、「死ね」という単語は『社会的認知された言葉』であり、
朝日新聞を非難する言葉に使っても問題ないという論法らしい。
これは何が問題であり、どのような事であるのか?
【極論】
A:
確かに一国会議員がこのような不穏当な単語を使い、他者を攻撃する事は良くはない。
その事自体は足立議員自身が既に言及している事だが、その一方で足立議員は「朝日新聞死ね」の発言ツイートを拡散・炎上を希望するかのように発言している。
この意図は、単に朝日新聞のモリカケ問題への取材姿勢への非難なだけでなく、
「日本死ね」を取り上げ政局に利用した山尾議員への皮肉、それゆ拡散し一般化したメディアへの非難、メディアと結託し「死ね」という言葉を流行語大賞にしたユーキャンに対しての警鐘を示したものであろう。
更に言えば、「朝日新聞死ね」の言葉に反発する左翼界隈の人々こそ、以前に反安倍政局の為に日本死ねを連呼していた人々である以上、彼らに足立議員を非難する資格は無い。
B:
政治を非難する国民の声を取り上げるのと、国会議員が言論機関を攻撃する為の言葉では全く意味が違う。
権力側が言論の自由を攻撃するようでは、民主主義も危険水域ではないか?
C:
国会議員が言論を攻撃するから危険ですか…
そうやってメディアが非難される事は許されないという風潮が、今のメディアの傲慢、望むべく政治・政局の為ならフェイクニュースも構わない、という態度もフェイクニュースや偏向報道に対してのペナルティが無いという傲りから来ているのは明白。
メディアは「第四の権力」であるならば、その権力にも相互監視の目、社会からのペナルティの機会は必須ではないか?
監視の無い権力は腐敗する…今のメディアこそ権力の腐敗を糾弾しながら最も腐敗している権力ではないか?
D:
「第四の権力」権力とはそういう意味ではない。
国家機関・三権をも監視する「国民の目」の代表という意味だ。
仮にメディアが腐敗したとしてもそれを非難・糾弾するのは読者・視聴者という国民であり、信用を失ったメディアは国民からソッポを向かれ市場原理で淘汰される。
それで十分では?
E:
メディアの監視基準が国民・読者・視聴者で、ペナルティは市場原理ねぇ。
その思想こそ危険では?
国民がメディアを判断す基準自体がやはりメディアからの情報な訳で、そのメディア自体が自らの不正を隠蔽すれば、国民はメディアを非難する根拠情報を得られなくなる。
これでもメディア同士が監視・批判を出来て相互監視が存在するならばまだメディアの腐敗もある程度抑止されるのだが…
記者クラブ制度の弊害か最近までメディアがメディアを非難する事はまるでタブー視されているかの如く皆無だった。
おそらく「メディアが間違える事」は許されなく、メディアの権威が堕ちる事は民主主義の根幹に関わる許されない事という勝手な動機がギョーカイに働いていたのだろうが…
そうした抑止力が働かない状態で増長し腐敗を進めたメディアの象徴が「朝日新聞」なのでは?
誰かがそれを指弾しなければなかなかった訳で、足立議員の行為はまさに誰かがやらねばならなかったものでは?
F:
国会は言論の府で、言葉遣いが大切なのでは?
国会議員が死ねなんて言葉を使って良い訳がない。
G:
それを言ったら報道人も言葉が大切で、自分達が伝えた言葉が社会にどのような影響を与えるかを考慮して報道するべきじゃないかな?
少なくとも「日本死ね」を連呼して、死ねという言葉を社会的に許される言葉にした責任は痛感すべきだな。
H:
山尾民進議員と、足立維新議員を同列に扱うべきではない。
ネトウヨはよく、本質を無視し論旨のすり替えをするが、
山尾議員の指摘した本質は「保育園落ちた」という保育園の不備に対しての行政批判であり、
足立議員のように報道への恫喝とは本質的に違う。
単に「死ね」という単語を報道機関が使用を流布し社会が容認した訳ではない。
I:
本質と論点のすり替えですか…随分とご都合主義の論法ですね。
その論理だと、足立議員は朝日新聞の捏造偏向体質という民主主義を歪ませる報道機関を問題視しての「死ね」であり、
足立議員の「朝日新聞死ね」の言動の本質を無視して論点のすり替えをしているのがパヨクという事になりますよ?
だいたい、本質や論旨を多用し、議論を設定段階から結論ありきの代物になるような「本質」の設定なぞマスゴミとパヨクが勝手に設定しただけで、誰も設定もその前提の許可をした覚えはないし、
論旨のすり替えと騒ぐが、その「論旨」の認定の許可を与えた覚えはないと思うのですが?
メディアがその傲慢で勝手に論点とやらを設定し、それに反論をすると「論旨のすり替え」を勝手に認定する。
議論のプレイヤーとアンパイヤを兼ねているような状況でまともな議論と結論が生まれる訳がない。
パヨク界隈のやっている事は、人民裁判そのものだ。
【パヨク速報】「日本死ね」を嬉々として記事にした朝日新聞、足立議員の「朝日新聞、死ね」に「看過できない」(5ちゃん 速報ニュース・朝日新聞)
維新・足立衆院議員が「朝日新聞、死ね」とツイート
日本維新の会の足立康史衆院議員が、学校法人「加計(かけ)学園」をめぐる朝日新聞の
11日付朝刊の社説に対し、自身のツイッターに「朝日新聞、死ね」と投稿した。複数の
メディアが報じたのを受け、14日も朝日新聞に対して「ねつ造報道」などと投稿を繰り返した。
足立氏の一連の投稿について、朝日新聞社広報部は「現職国会議員がこうした暴力的な
言葉で正当な報道・言論活動を封じようとしたことに強く抗議します。本紙報道を『ねつ造』などとする事実無根の批判を重ねていることと合わせ、看過できません」とのコメントを出した。
【お題】
維新の足立議員による「朝日新聞死ね」の発言が波紋を呼んでいる。
足立議員によると、
昨年度に「日本死ね」なるネット上の言葉を民進・山尾議員が取り上げメディアが盛り上げ、流行語大賞にもなったのならば、「死ね」という単語は『社会的認知された言葉』であり、
朝日新聞を非難する言葉に使っても問題ないという論法らしい。
これは何が問題であり、どのような事であるのか?
【極論】
A:
確かに一国会議員がこのような不穏当な単語を使い、他者を攻撃する事は良くはない。
その事自体は足立議員自身が既に言及している事だが、その一方で足立議員は「朝日新聞死ね」の発言ツイートを拡散・炎上を希望するかのように発言している。
この意図は、単に朝日新聞のモリカケ問題への取材姿勢への非難なだけでなく、
「日本死ね」を取り上げ政局に利用した山尾議員への皮肉、それゆ拡散し一般化したメディアへの非難、メディアと結託し「死ね」という言葉を流行語大賞にしたユーキャンに対しての警鐘を示したものであろう。
更に言えば、「朝日新聞死ね」の言葉に反発する左翼界隈の人々こそ、以前に反安倍政局の為に日本死ねを連呼していた人々である以上、彼らに足立議員を非難する資格は無い。
B:
政治を非難する国民の声を取り上げるのと、国会議員が言論機関を攻撃する為の言葉では全く意味が違う。
権力側が言論の自由を攻撃するようでは、民主主義も危険水域ではないか?
C:
国会議員が言論を攻撃するから危険ですか…
そうやってメディアが非難される事は許されないという風潮が、今のメディアの傲慢、望むべく政治・政局の為ならフェイクニュースも構わない、という態度もフェイクニュースや偏向報道に対してのペナルティが無いという傲りから来ているのは明白。
メディアは「第四の権力」であるならば、その権力にも相互監視の目、社会からのペナルティの機会は必須ではないか?
監視の無い権力は腐敗する…今のメディアこそ権力の腐敗を糾弾しながら最も腐敗している権力ではないか?
D:
「第四の権力」権力とはそういう意味ではない。
国家機関・三権をも監視する「国民の目」の代表という意味だ。
仮にメディアが腐敗したとしてもそれを非難・糾弾するのは読者・視聴者という国民であり、信用を失ったメディアは国民からソッポを向かれ市場原理で淘汰される。
それで十分では?
E:
メディアの監視基準が国民・読者・視聴者で、ペナルティは市場原理ねぇ。
その思想こそ危険では?
国民がメディアを判断す基準自体がやはりメディアからの情報な訳で、そのメディア自体が自らの不正を隠蔽すれば、国民はメディアを非難する根拠情報を得られなくなる。
これでもメディア同士が監視・批判を出来て相互監視が存在するならばまだメディアの腐敗もある程度抑止されるのだが…
記者クラブ制度の弊害か最近までメディアがメディアを非難する事はまるでタブー視されているかの如く皆無だった。
おそらく「メディアが間違える事」は許されなく、メディアの権威が堕ちる事は民主主義の根幹に関わる許されない事という勝手な動機がギョーカイに働いていたのだろうが…
そうした抑止力が働かない状態で増長し腐敗を進めたメディアの象徴が「朝日新聞」なのでは?
誰かがそれを指弾しなければなかなかった訳で、足立議員の行為はまさに誰かがやらねばならなかったものでは?
F:
国会は言論の府で、言葉遣いが大切なのでは?
国会議員が死ねなんて言葉を使って良い訳がない。
G:
それを言ったら報道人も言葉が大切で、自分達が伝えた言葉が社会にどのような影響を与えるかを考慮して報道するべきじゃないかな?
少なくとも「日本死ね」を連呼して、死ねという言葉を社会的に許される言葉にした責任は痛感すべきだな。
H:
山尾民進議員と、足立維新議員を同列に扱うべきではない。
ネトウヨはよく、本質を無視し論旨のすり替えをするが、
山尾議員の指摘した本質は「保育園落ちた」という保育園の不備に対しての行政批判であり、
足立議員のように報道への恫喝とは本質的に違う。
単に「死ね」という単語を報道機関が使用を流布し社会が容認した訳ではない。
I:
本質と論点のすり替えですか…随分とご都合主義の論法ですね。
その論理だと、足立議員は朝日新聞の捏造偏向体質という民主主義を歪ませる報道機関を問題視しての「死ね」であり、
足立議員の「朝日新聞死ね」の言動の本質を無視して論点のすり替えをしているのがパヨクという事になりますよ?
だいたい、本質や論旨を多用し、議論を設定段階から結論ありきの代物になるような「本質」の設定なぞマスゴミとパヨクが勝手に設定しただけで、誰も設定もその前提の許可をした覚えはないし、
論旨のすり替えと騒ぐが、その「論旨」の認定の許可を与えた覚えはないと思うのですが?
メディアがその傲慢で勝手に論点とやらを設定し、それに反論をすると「論旨のすり替え」を勝手に認定する。
議論のプレイヤーとアンパイヤを兼ねているような状況でまともな議論と結論が生まれる訳がない。
パヨク界隈のやっている事は、人民裁判そのものだ。
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