対極論

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大極論92号 約束と正義と その2

2019-01-24 02:34:17 | 時事・思考実験
【グローバルアイ】約束を守る国・日本、正義が重要な国・韓国(2)


(続き)

【極論:B】

>日本の認識の違いを説明しながら「韓国語の『オルバルダ』という表現を日本語で表現するのが一番困る」と告白した。「オルバルダ」が「正しい(ただしい)」という単語だけでは説明できないという話だった。
>韓国で通用する「オルバルダ」の意味は、それこそ時代によって異なって受け止められる。「その時は合っていて、今は間違っていること」が「オルバルダ」という意味として使われるということだ。


韓国人が定義する「正義」のスタンダードは『オルバルタ』というものらしい。
文中でとある「日本外交官」はオルバルタの日本誤訳に困ると漏らす、その理由がオルバルタとは「その時は合っていて、今は間違っていること」が「オルバルダ」の基準らしい…
つまり、あるときにはオルバルタだが、時代が変わればそのオルバルタは違ってる事もある…という論法だ。
そして中央日報はこの「オルバルタ」を意味する単語が日本語には無い事を暴露してしまった事は、
日韓が絶対に相互の理解を出来ないことも同時に暴露してしまった。

当たり前だが、日本でオルバルタみたいな「セイギ」を振りかざせば、軸のない奴・変節漢・嘘つき…などと言われ相手にはされないわな。

まぁ日本人も「正義」とはそれが必ずしも普遍的・相対的でない事は理解している。だがそれをコロコロ変えてよいモノではない。
だから単語に出来るほど頻繁にある事象ではない。

一方で、韓国語に「オルバルタ」という概念があるという事は、その「時代」という概念が比較的短いスパン…それこそ人の一生や世紀という概念でなく、年単位…もしくは月日単位で頻繁にコロコロ変わる正義価値観だから、日常単語として「オルバルタ」という語が存在するのではないか?

そしてそんな日替わりで変わりかねない「オルバルタ」なんていう韓国人的な「正しさ・正義」を、日本人は「正義」だとは認めない。

つまり、日本人の目から見た韓国人が振り回す「正義」というのが、常に一貫性がなく、ダブルスタンダードで、ゴールポストが動き、曖昧で、デタラメに映るのは、至極当然で
それは日本人が考える正義ではなく、単なる嘘つき=「オルバルタ」であるからでないか?


日本人の考える・理想とする「正義」とはよほど一本筋が通ってないとダメな訳。
だから日本人は正義を臆面もなく唱える輩に冷たい視線を向ける一方で、
約束・契約という「合意」を限定的だが正義の代替にしているのだろう。
その一方で、韓国は正義をその場のご都合で解釈を変え唱えあう…
日本人の俺の目からしたら、これでよく韓国は社会として成立しているものだと不思議になる。


【発行者の視点】

正義…ねぇ…正義ってナンデスカ?

「倫理的に正しく、論理的であり、皆が同調し・共感できる価値観。」??

…逆に言えば、既成概念既成事実を前提に論理を構築すれば「正義」を取り繕える。
この場合の「既成概念・既成事実」自体の正否の証明は問われない。
むしろこの既成事実という「前提条件」を疑問視する者を「非正義=悪」だと糾弾する口実になる。

つまり、「正義の理論武装」は既成概念という共通認識を前提にした理論構築が可能であり、
仮にその既成概念・既成事実が誤り・フェイクならば、その誤った前提の上に理論構築をされた概念である以上、その正義が正しくない事もある。
…が、セイギの論理にはそうした理屈は通用しない。

更に権威やメディアが同調・共感心理に訴えかけ、正義の理論の正当性を訴えれば、
その正義は正当性され社会に正統性を認知される。
その場合の同調・共感心理醸成には論理的構築より、感情的訴求が多用される場合が多い。

(まとめ)
◎正義の理論武装は、既成概念・既成事実(常識)を前提にする。
常識は必ずしも事実でなくとも良く単なる共通認知である場合があり、その「論理」ですら詭弁で構築できる。

◎正義の認知は「権威」によるジャッジメント・流布によって正当化される。
この場合の権威とは、国家指導者の場合もあれば、メディアが主導する場合もあり、ときには属性集団や宗教団体の指導者の指示による集団内のみで通じるようなな「正義」が構築される場合がある。

『正義』をプロパカンダ工作の同義語と捉えたら、
セイギが無慈悲で非寛容な連中の根元は、セイギの前提の既成事実化とセイギの排他的ジャッジメント…そしてそのジャッジメントを正当化させ異論を排除する数の暴力ないしは物理的能力の実行能力…
そんなモノでセイギは決まり、そんな程度で流される韓国の社会の異常性って怖いな…ってな。

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