テキスト主体

懐中電灯と双眼鏡と写真機を
テキスト主体で語ろうとする
(当然、その他についても、語ったりする)

造船所通

2014-03-04 23:43:18 | 脱線して底抜け
藤永田、佐野安、名村、日本の造船が世界一になった1950年代、大阪の木津川左岸でキラ星のように隆盛を誇った、3つの造船所が並んでいた通りです。
いまでも市バスの停留所に名が残っていますが、私が物心ついた頃は第一次造船危機のあおりで、周辺の町に数多くいた従業員も転職を強いられたり、畑違いの自動車セールスをしたりと、私自身は造船所通、と云われてもピンと来ません。
ただ、大阪で有名な二つの川、淀川と大和川より、この木津川は、私にとって馴染みが深く、千本松大橋が出来る前は公営の渡船で対岸の船町に渡り、鬱蒼とした工場群の中を抜け、友人宅や父の勤務先に行ったものです。また、この橋を自分の運転する車で通るようになって、友人を乗せて通行中、前から来た別の友人の車を見つけ、片側一車線でヘアピンターンしたのは、いまだに途方もない無茶だ、としてからかわれる事があります。


船町は工場ウォッチャーにも人気のある場所ですが、かつては道路の上を縦横に行き交うパイプ配管群で昼なお暗いイメージで、子供の頃は不気味に感じていたモノです。


閑話休題、その三つの造船所のうち、もっとも古いのは藤永田造船所で、かつては江戸幕府の開いた横須賀の浦賀ドックとならんで、駆逐艦建造の雄だったそうです。私も、子供の頃、なにかの伝手で見学して、乾ドックこそ見たことがありますが、関わりとしては、長じてから、サイドビジネスだった藤永田自動車教習所(いまの住之江ドライビングスクール)にお世話になったことがあるくらいでした。

先日、その造船所通りを通過して、あまり変わってないなぁとふと思った記憶、昔有った、中華&喫茶のお店が見あたらなくなったことなどが、今日、ふと艦これで育成中の駆逐艦のいくつかが藤永田造船所製であったことを知り、昔日の記憶とともに涌きあがってきたのでした。
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