テキスト主体

懐中電灯と双眼鏡と写真機を
テキスト主体で語ろうとする
(当然、その他についても、語ったりする)

瞼の裏側の光景

2011-12-26 22:56:10 | 脱線して底抜け
実を言うと、瞼の裏側の光景は、年齢によって変化するようです。
もっと云ってしまうと、加齢するにつれ、つまらない光景になります。

子どもの頃、まばゆい陽光のもとで、目にホコリが入ったとかの理由で、瞼をぎゅっと閉じ、暗くほのめく無数の閃光をかいくぐって陽光が瞼を照らし、太陽の方向は判別出来るような状態になった経験はないでしょうか。
更にぎゅっと閉じると、瞼の裏に焼き付いた残像が無数のフラクタル図形を描きながら消えていき、連鎖的に新しい模様が生まれていく。

子どもの頃はこんな情景をよく認識していたような気がしないでしょうか。

以前にもお話ししましたが、網膜に映った映像を視覚として処理しているのは脳です。
人間の場合、生まれつき全盲で、成人年齢に達してから、視覚を獲得したヒトの研究などで、脳が、視覚を自己と関連づけて空間認識できるようになるまで、意識にとって視覚があまり意味のないモノであることが分かっています。

つまり、おそらくは、意識が芽生えたばかりの新生児にとって、瞼を開けた光景と、瞼の裏の光景の重要性の差異が少ない(差異が判別できない)ため、もっともよく瞼の裏側の光景を見ている、はずで、年齢を重ねて、瞼の裏側の光景が重要でないことを学習するにつれ、脳はその光景を視覚として認識しないようになってきます。

昔、私の個人的な面白い経験で、暗闇の中で睡眠中に、まばゆい白い世界を漂う夢を見ている状態で,半覚醒状態になって瞼を開けると、真っ黒の視界、閉じると夢の続きで真っ白の世界、つまり通常と全く逆に目を閉じるとまぶしく、目を開くと暗いという状態を数十秒間繰り返し、奇異な感覚を味わいました。
これは、脳の中で、夢の情景を意識に感じさせる部分と、目からの視覚情報を処理する部分が全く異なる働きをしていて、目を閉じると脳は視神経からの情報処理を瞬間的にやめてしまうことを示唆していると思います。
古い蛍光灯のチラツキや、映像モニターの瞬断が非常に意識にとって気になるのと異なり、目瞬きがブラックアウトとして意識されないのは、こういった脳の働きが大きな要因です。

話を戻すと、年を経てつまらなくなった(意識されなくなった)瞼の裏側の光景も、意識を集中して凝視するとまたいろんなモノが見えてきます。

このような話は、視覚認識にとどまる話ではなく、もっといろんな事象に投射して考えることができると思います。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿