気まぐれ。人の思いというものは、常にままならないものである。
高揚の時は万能感を得てなにをするにもやる気に満ち溢れることがあれば、気分が落ち込んでいる時には些細なことにも消極的になる。
上機嫌な時に選んだことを、不機嫌な時に後悔するというのはよくあること。然るに、元気な時に選んだことを、疲れている時に後悔する。
朝と昼と夜と、晴天と雨天と、夏と冬と、明るみと暗闇と、高いところと低いところと、広いところと狭いところと、静かなところと騒がしいところと、etc。男性であれば思春期と射精。女性であれば生理と出産。
楽しみな未来を想像してわくわくしている時、不安な未来を警戒して張り詰めている時。問題に立ち向かおうとしている時、障害を乗り越えて解放感で満たされている時。
十人十色千差万別複雑多様極まりなく数え切れない要素達の作用によって人の気持ちは常に動いている。
Q.「いつどこでの自分の意志(選択)を尊重するべきか?」という問いについていつも考えていた。
A.「そもそも問い方が間違っている」これが先ほど至った結論である。
強い意志と信念によって選ばれた決定は、"気分にも状況にも"覆されることはないはずである。もしくはそうあるべきである。なぜなら、冒頭から述べているように人の気分というのは実に浮ついたもので、何かと目先の利害に振り回されてしまうものだからである。本能をアテにしてはならない、というのは過去の記事でもくどいほど書いてきたことである。
"いつどこで"という基準が正しくない理由は、その状況と場所と気分と時期という4つの要素を前提にして決まってしまうからである。例えば、夏の晴天のとある休日の朝に気持ちの良い目覚めと健康とそこそこのお金さえあれば、誰でも多少のリスクを恐れずにいろんなことに挑戦しようと思えるだろう。ちょうど年明け頃に全く達成されない抱負をいくつも設けるのと同じように。何かに挑戦しようと思えるような"とても良い状態"というのが1年のうちに何度かは訪れることだろう。そんなスーパーコンディションの日には、確かにやる気に満ち溢れて有意義な時間を過ごせるかもしれないが、人生とは苦あれば楽あり禍福は糾える縄の如しで良い状態ばかりなわけがない。
不安に押しつぶされそうな日も、仕事や約束に忙殺されてしまう日も、雨で寒い夜に転んで泥だらけになる日も、普段なら許せる親友のジョークが彼女と喧嘩した後では関係に亀裂が入ることになる日もある。
前置きがむやみやたらに長くなるのはこのブログではご愛嬌。おかげで読者ゼロ。
つまりどうすれば良いかといえば、「アメニモマケズ」である。雨だろうと眠かろうと苦しかろうと疲れていようと、一度決めたことはやり通す。やり終えれば次に行ける。やり終えれば「やらなかった後悔」をせずに済む。
思い立った時に〇〇しておけば今頃・・・。弦楽器や鍵盤の練習にもっと集中して取り組んでいれば動画投稿してそこそこの再生数を稼げるようになったり自分にしかできないアレンジだったりをしてたかもしれない。プログラミングの勉強をしていれば、英語の勉強をしていれば、絵の練習をしていれば、スポーツの練習をしていれば、etc。たった今この瞬間からそれらをしない限り、「〇〇していれば」という思考の先には絶対に進めない。常にその言葉を脳内で繰り返し再生するだけである。
なんとつまらないことか。悲しいことに自分に対する罪悪感と情けなさが自分を余計に憂鬱にさせる。良いこと無し。
俺はずっと「自分に必要なアイテムのようなものがあるはずだ」とばかり思っていた。義足のように足りないところに足すべき何かがあるんじゃないかと。しかしそうじゃなかった。強い意志という最初から自分の中にあった無限の可能性をもつツールの起動スイッチを押すだけでよかった。
本当にバカだよね。できている人にとっては空気や水の存在よりも当たり前なことなのにこんなに字数を費やさなければ確かめられないことだったなんて。
おわりっ
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