我が家の敷地内にある大層立派な桜の木。
当時その小さな苗木を植えたであろうご先祖も今のこのたくましい姿を知らない。
贅沢にも身近過ぎて毎シーズンに世間が賑わすほどに感動したことはあまりないのだが、それでも客観的に見ればそれそれは得なことだということを理解するのは簡単だ。
これほど立派な桜を眺めるために必要な労力は、玄関を開けて数歩先まで足を進めるだけ。よほどの都会や厳冬や公園などに乏しい地域でもない限りは桜を視界に収めること自体はそれほど難しくない。しかし、それだけのためにブルーシートやお弁当などを積み込んで場所取りのために朝早くから準備を整えて遠路はるばる訪れる人々はいる。
ちなみに、我が家の桜が満開になると、言わずもがな敷地内なので場所取りなんてものは無用なので贅沢にも頭上いっぱいに桜が広がる位置に花見席を構えることができる。つまり首を水平にしていても視界の上半分は常に桜で埋め尽くされるわけだ。なんという贅沢。そして他の花見客を気にせずに気の済むまで桜を堪能できる。
ご先祖は戦時中の開拓者で、両親は兼業農家。それなりに多くの土地を所有していて、つまりは資産家である。しかし兼業ということもあるうえに、寄る年波と後継の不在で土地を売却せざるを得なくなり、かつては道ですらなかった風景にコンクリートとアスファルトの塊が、圧迫感を帯びて迫ってきた。それは俺が思い出せないほど幼い頃の話である。
一族としての誇りみたいなことに疎いというなんとも残念な息子ではある俺だが、本日この日生まれて初めて身近で当たり前な桜だったり畑だったり土地だったり家だったりを、いつかは両親達の保護を離れてしまうということを実感した。そしてその時に、息子である俺を含めた子供達に守る力がない場合は、それらは容易く失われていく存在なのだということ。
無力さを思い知った時に初めてご先祖や両親がそれらを守るために注いできた力の大きさを知らされるのだろうか、そんなことを思った。
失って初めてー。だなんてそんなベタな展開は死んでも御免だ。兄弟や親戚も必然的に多い家族なので、俺の出る幕なんてない可能性は確かにあるが、それでも思いを形にするのに今からでも遅すぎることはないだろうと思った。
今時兼業農家で生計を立てられるほど時代は甘くない。駐車場なりアパートなりにして、ボロ儲けでなくともせめて守っていける程度には金を生む土地として活かすのであれば、体力的にも経済的にも厳しい畑なんて早々にやめてしまったほうがいいという判断は、全くもって現実的である。
仕事の合間に農業を手伝う俺である。地域の人たちには我が家の農作物はまことに評判が良く、赤字だからといって暑寒や腰痛が全て損だということにはなっていない。農薬をほとんど使用しない自作の野菜はスーパーのそれらよりも圧倒的に信用ができるのは勿論のこと、口にした夕飯の野菜は収穫して1時間も経っていないという新鮮の極みだったりもする。今でこそ減り続けている農家ゆえに身にしみる有り難さである。まさか自分が親の百姓を継いでいくとは毛ほども思っちゃいないが、血は争えないのだろうか、農作業が嫌いになれない自分がいる。農家の血のせいだろうか?確かに父母共に農家なのでサラブレッドなのだ。しかし時代が時代なのと、母が農家の大変さを子供達に強いるようなことはさけたいという思いから、後継ぎなんていう言葉は一度も聞いたことがない。こうしてブラインドタッチでiMacに思いを綴っている俺と畑で汗と土まみれになっている俺を同一視するのは、親しい人以外では難しいことだと思う。
とはいえ、親の持つノウハウを真面目に学ぼうと思ったことは一度もないので、丸投げにされでもしたら管理不良で無駄な経費を稼ぐの関の山である。無論だが、農作物は季節と天候に依存しているので不作や不手際があったとして改善をしたくても可能な試行回数はそのシーズンに一度、つまり失敗した経験を活かせるのは翌年からということだ。学者が集って日夜励むような研究機関でもない限りは、本当に長い道のりだということをつくづく痛感する。農業ほど温故知新が大切な分野もないのではなかろうか。遥か昔、狩猟から農耕に移って間もなく結婚制度が設けられた理由もわからなくもない。土地と技術を、長い縦の線で未来へと繋げていかなければならなかった時代のおかげで今がある。それを再現しろだなんて言わないし、今でこそ違う形で継承していける方法があるので、結婚しない若者達を批判するつもりは一切ない。俺のように誰もが土地を所有した家に生まれるわけではないし、根無し草ゆえに成し得ることも勿論あるし、所有権は独占権と紙一重。
俺が言いたいのは、信用できる人の手を離れた時に放っておいたら信用できない「誰かの手」に渡る可能性があるとうこと。春には必ず花開く桜の根元にショベルカーの刃先を刺したがっている人が、今か今かと影を潜めているのは、電話している時の親の口調からすぐにわかる。財政難から「しょうがないよね」という一言で片付けられてしまうには、これほど惜しい財産があるだろうか。それはきっと、俺が守れるものの中で愛しい人の次に大きなものかもしれない。守れる力がなくとも、守りたいという意志のある俺でありさえすれば、その資格も、もしかしたら素質もあるのかもしれない、願わくばそうであってほしい。
健やかで明るい人生であれば、金や物なんてそれほど大事じゃない。そう言ってしまえば聞こえはいいが、大金には大病や事故や天災から多くを守る力があることも事実。そういった不幸を避ける力と幸福を追う力にはどれほどの差があるのだろう、そう考えると俺はわからなくなってしまう。
「稼ぎ方よりも使い方の方が重要なのがお金」というのは誰が言ったかは忘れてしまったが、つくづくそうだなと思い知る日々である。勿論、悪いことをすれば悪銭身につかず。労せずして得たものは将来苦労して返さなければいけなくなる。ちゃんとした仕事で収入を得るなんていう当たり前な話がしたかったのではなくて、日常の充足というものは、「誰と一緒に過ごすかという選択」だったり「情熱を知ること」だということを言いたいのだ。それに必要なのは金銭よりも意志や信念であって、収入と支出に繋がりはないということだ。
厳密に言ってしまえば、例えば他人の人格に変化を促したい時に、仕掛け人や出来事を仕向けるといった方法をいわゆる教育や訓練と称すのであれば金銭で代替可能あるいは補えるものもあると言えなくもない。しかし、真心や情熱を託すにあたっては、金銭よりもそれらを見せる姿にこそ同じものが宿しているべきだと俺は思う。
かのトーマス・エジソンも「この情熱を子に託すことができたらこれほどの財産はない」みたいなことを言っていた。培ってきた知識や知恵よりも、発明というものがいかにたまらなく楽しいものかというものを伝えるほうがよっぽど大切なのだということ。エジソンにとっては発明だが、子供にとっては発明じゃなくとも、同じくらい強い情熱を持ってなんでもいいから打ち込める人生を、愛する子供に願う気持ちには極めて同感だ。
長くなったが、週末までには散り始めてしまうであろう一時の優美な景色の主役を見ていていろいろなことを思った旨を綴った今回の投稿でした。
おー
わー
りっ