その者、青き衣をまといて
絵画に描かれる聖母は、青きマントをまとっていることが多い。それは、青、わけても透明な青こそが聖母の色とされるからである。それは「海の星」とされる聖母信仰を象徴する色なのであろう。ラファエロの聖母子像にしても、ジョットのにしてもマリアは青いマントをまとって描かれる。
これらの高貴な青は、「ラピスラズリの青」と言われる。貴重な鉱物ラピスラズリから得た青ということである。鉱物の量が絶対的に少ないため、貴重な青とされ、その青の透明性から「高貴の青」とされた。マリアあのマントの色はこの青である。
突然、『風の谷のナウシカ』の中で伝えられているとされる予言を思い出した。
その者、青き衣をまといて、金色の野に降り立つべし。
劇場版では、それはオームの神秘の触手によって上げられたナウシカの姿として実現する。その予言は、
失われた大地との絆を結び、ついに人々を清浄の地に導かん。
と続く。
モーセは約束の地へとイスラエルの民を導いたが、ナウシカの導く「清浄の地」はどこなのだろうか? 『旧約聖書』では、そのモーセ自身は、約束の地を目前にして、ついに約束の地に入ることがなかった。導く者の悲しみ。導く者は、導かれる者たちの過ちや不信仰を背負って、一人死んでいく運命にある。まるで、イエスの運命のように。
ぼくは『風の谷のナウシカ』という劇場版のその場面を見るたびに、涙をこぼす。DVDである。もうわかっているから、「おっ、来るぞ」と思うと同時に目の中に涙があふれてくる。
人はひとりの女性によって救われる。
あるいは、ぼくは男だから、ひとりの女性によって救われたいという願望が、女性よりは強いのかも知れない。それがオームの金色の触手の上を青き衣をまとって軽やかに歩くナウシカに、妙に感激してしまう理由の一つかも知れぬ。
聖母マリアはキリスト教の救済史においては、あくまでも脇役である。原理としては、聖母マリア自身には何の力もない。それなのに、ぼくらは聖母マリアによってこそ救われたい、という願望を持つ。母への、いえ、母なるものへの思いの強さ、深さのゆえなのであろうか。
青い衣で鮮やかに思い出されるのは、フェルメールの「ミルクメイド」つまり、「牛乳を注ぐ女」が腰にまとう鮮やか青い衣である。フェルメールには「青衣の女」というタイトルの絵もあるが、こちらの青は灰青色に近く、いくらかくすんでいる。一方はよく描き混まれた背景の中にしっかりと存在する女性、そしてミルクという滋養。他方は背景の多くが省かれたシンプルで優しい光にあふれた画面の中で、一心に手紙を読んでいる女性。お腹が目立つ。夫の子を宿しているけれど、その夫はいま航海にでも出ているのであろうか。壁に掛かる世界地図がそれを暗示させる。
日本にも青い衣の伝説が残されている。
こちらは東大寺の「お水取り」にまつわるお話である。「お水取り」を過ぎると寒さが一気にゆるむので、寒がりの幼いぼくはその行事が行われる日を心待ちにしたものである。東大寺修二会。かつては二月に行われていた。今は暦の関係で、三月に執り行われるが、その「修二会」の一連の祭事の中で、東大寺に関係した物故者の読み上げが行われる。「過去帳」である。
以下は東大寺の説明である。
承元年間(1207~1211)の修二会のことである。
集慶という僧が「過去帳」を読み上げている真っ最中に、突然「青衣の女人」が現れて、恨みを込めた目で集慶をにらんだそうである。そしてこう言ったという。
「なぜわたしを読み上げてくださらなかったのか」
集慶は、あわてて次の一句をそっとささやいた。
「青衣の女人」
すると、その女性の姿がすっと消えたという。「青衣の女人」は「しょうえのにょにん」である。
名もなき女性ゆえ、「青衣の女人」と呼ばれる。貴族の女性とてその名を以て呼ばれることはごく一握りであった時代である。天皇に嫁した女性は、たとえば藤原高子や定子など、後の世にその名が知られているが、清少納言も紫式部もまた和泉式部も、いずれもいわば通称である。ニックネームとでも言うべきものである。だから、ただ名もなく「青衣の女人」とされただけで、身分のない女性であることにはならない。かえって、「過去帳」で読み上げられるべき、忘れてはならない女性であるとは、高貴の女性と考えていいのだろう。
青き衣。
それは洋の東西を問わず、女性の高貴さを象徴するものであるのかも知れない。コバルトブルー、ウルトラマリンブルー、ラピスラズリ、サファイアブルー、ロイヤルブルー、オリエンタルブルー、シアン、ターコイズブルー・・・・
先にも書いたように、これらの青の中で、ラピスラズリの青が最も高貴な色であると言われている。「牛乳を注ぐ女」の青もこの色ではなかったか。すると、聖母の青は、あるいはラピスラズリと原料は同じながらさらに鮮やかな、透明な青を見せるウルトラマリンブルーであったろうか?
うむ。ブルーの似合う女性は好きである。ブルーを上手に着ている女性にはちょっと、ほんのちょっとだけれど、恋心を抱くときがある。まぶしいあこがれのような思いとともに。