●著作権にまつわって思うことさまざま●
日本ビジュアル著作権協会というのがある。(あると思う。というのは、今ホームページが消滅しているから、存在が確認できないので)。灰谷健次郎、谷川俊太郎や新川和江、茨木のり子、富山和子たちがつくっている団体で、教科書に準拠した生徒用学習教材のなかで、自分たちの作品が使われるのを完全に拒否している。
国語の教科書を勉強するためにつくられている教材では、教科書に掲載されている作品を扱わないわけにはいかない。その作品を再掲載することは認めない、というのでは、こうした教材に依存している小・中学校生徒の学習に差し障りがある。
けれども、業者は金儲けのために教材をつくっているのだから、そのような不純な目的のために、自分たちの作品が使われるのは「嫌だ」という主張。コマーシャリズム反対、というわけだろうか?
だが待てよ。谷川俊太郎の詩には、どこかの製鉄会社(確か今は合併してその社名はなくなっているはずだが)の企業CMのためのものがある。自分もまた金儲けに荷担しているのだ(作曲は大貫妙子、歌うのも同じ。タイトルは「まっすぐ」)。新川和江には多数の歌謡曲の作詞がある。これも、コマーシャリズムそのもの。
しかし、問題なのはそのような姑息なことではない。
問題なのは、著作権 というものがどこまで有効なものなのか、ということ。
少し前に、服部克久の作曲した曲にクレームが付いた。小林亜星が以前に作曲した曲に曲想が酷似しているというのだ。
けれども、曲全体のフレーズの一部が似ていると言えば似ているかな、でもこれって日本人の好きなフレーズのひとつじゃないの? という感じだった。つまり、汎用性の強い表現だったのだ。
音楽も詩などの文学も、まるっきりゼロからその作品が発明されたわけではない。
文学を見れば、日本語という言葉がになっている二千年の伝統、引き継がれてきた美意識、展開し発展してきた表現技法、などなどをもとにして、新たな作品がつくられたのだ。その事実を直視すれば、作家は、その著作の使用を拒否する権利を持たない、と考えるべきなのだ。使用料を、適切な額で請求できるのは、むろんのこと。
国語教育にそれらの作品が使われることを、むしろ誇りに思うべき。むしろ、ありがたいと思うべき。そして、自分が先人から受けてきた恩恵を、社会に返すことを積極的に考えるべきだ。それなのに、自分の作家としての権利ばかりを主張し、作家としての権力を行使しようとするのは、反社会的行為だ。
音楽も同じ。作曲家はどれほど、先人に負うところ多いか。
ビートルズの音楽をじっくり聞いてご覧なさい。フレーズのあいまからダウランドなどのイギリス・バロックのフレーズがほのかににおっているではないか。ぼくがビートルズを好きになったのは、そのことに気づいたからだ。
著作権は大切に守られなければならない。
けれどもそれは守られすぎてもよいことを意味しない。
死後五十年でよい。作家の遺族が、作家の著作権の恩恵にあずかると言うこと自体が、制限されるべきことだからだ。もっとも作家の配偶者は配偶者自身の死まで、なんらかの恩典を考えるべきだが、それは著作権とは趣旨が違う。
これほど著作権など、知的所有権の保護を強化しようとするのは、日本やヨーロッパのように知的文化、芸術的文化の伝統のほとんどないアメリカ合衆国の薄っぺらな文化観にあるとみていい。彼らは、伝統のない分だけ、個人の開発と創造に重い価値を置きたがる。特許権が発明者の利益を保護しすぎるのもそのせいだ。
個人の功績を保護することと、発明された事物は人類の共有財産であるということ、このふたつをうまくバランスさせた特許法、そして芸術創造にあっては、その作品もまた人類の共有財産であること。そして、それらが先人の努力の成果を踏み台にしていることを思えば、たとえば、マイクロソフト社のビル・ゲイツの姿は、いびつで醜い。人類の共有財産をひとり占めして抱え込む姿の醜さ。これがアメリカ合衆国の知的財産の醜さの象徴でもあると思う。
たぶん、知的財産は公開が原則。
開発者、創造者に、その代わりに何を見返りするか。いかにその功に報いるか。その生活を保護するか。
そのバランスを、今一度考え直さねばなるまい。
日本ビジュアル著作権協会というのがある。(あると思う。というのは、今ホームページが消滅しているから、存在が確認できないので)。灰谷健次郎、谷川俊太郎や新川和江、茨木のり子、富山和子たちがつくっている団体で、教科書に準拠した生徒用学習教材のなかで、自分たちの作品が使われるのを完全に拒否している。
国語の教科書を勉強するためにつくられている教材では、教科書に掲載されている作品を扱わないわけにはいかない。その作品を再掲載することは認めない、というのでは、こうした教材に依存している小・中学校生徒の学習に差し障りがある。
けれども、業者は金儲けのために教材をつくっているのだから、そのような不純な目的のために、自分たちの作品が使われるのは「嫌だ」という主張。コマーシャリズム反対、というわけだろうか?
だが待てよ。谷川俊太郎の詩には、どこかの製鉄会社(確か今は合併してその社名はなくなっているはずだが)の企業CMのためのものがある。自分もまた金儲けに荷担しているのだ(作曲は大貫妙子、歌うのも同じ。タイトルは「まっすぐ」)。新川和江には多数の歌謡曲の作詞がある。これも、コマーシャリズムそのもの。
しかし、問題なのはそのような姑息なことではない。
問題なのは、著作権 というものがどこまで有効なものなのか、ということ。
少し前に、服部克久の作曲した曲にクレームが付いた。小林亜星が以前に作曲した曲に曲想が酷似しているというのだ。
けれども、曲全体のフレーズの一部が似ていると言えば似ているかな、でもこれって日本人の好きなフレーズのひとつじゃないの? という感じだった。つまり、汎用性の強い表現だったのだ。
音楽も詩などの文学も、まるっきりゼロからその作品が発明されたわけではない。
文学を見れば、日本語という言葉がになっている二千年の伝統、引き継がれてきた美意識、展開し発展してきた表現技法、などなどをもとにして、新たな作品がつくられたのだ。その事実を直視すれば、作家は、その著作の使用を拒否する権利を持たない、と考えるべきなのだ。使用料を、適切な額で請求できるのは、むろんのこと。
国語教育にそれらの作品が使われることを、むしろ誇りに思うべき。むしろ、ありがたいと思うべき。そして、自分が先人から受けてきた恩恵を、社会に返すことを積極的に考えるべきだ。それなのに、自分の作家としての権利ばかりを主張し、作家としての権力を行使しようとするのは、反社会的行為だ。
音楽も同じ。作曲家はどれほど、先人に負うところ多いか。
ビートルズの音楽をじっくり聞いてご覧なさい。フレーズのあいまからダウランドなどのイギリス・バロックのフレーズがほのかににおっているではないか。ぼくがビートルズを好きになったのは、そのことに気づいたからだ。
著作権は大切に守られなければならない。
けれどもそれは守られすぎてもよいことを意味しない。
死後五十年でよい。作家の遺族が、作家の著作権の恩恵にあずかると言うこと自体が、制限されるべきことだからだ。もっとも作家の配偶者は配偶者自身の死まで、なんらかの恩典を考えるべきだが、それは著作権とは趣旨が違う。
これほど著作権など、知的所有権の保護を強化しようとするのは、日本やヨーロッパのように知的文化、芸術的文化の伝統のほとんどないアメリカ合衆国の薄っぺらな文化観にあるとみていい。彼らは、伝統のない分だけ、個人の開発と創造に重い価値を置きたがる。特許権が発明者の利益を保護しすぎるのもそのせいだ。
個人の功績を保護することと、発明された事物は人類の共有財産であるということ、このふたつをうまくバランスさせた特許法、そして芸術創造にあっては、その作品もまた人類の共有財産であること。そして、それらが先人の努力の成果を踏み台にしていることを思えば、たとえば、マイクロソフト社のビル・ゲイツの姿は、いびつで醜い。人類の共有財産をひとり占めして抱え込む姿の醜さ。これがアメリカ合衆国の知的財産の醜さの象徴でもあると思う。
たぶん、知的財産は公開が原則。
開発者、創造者に、その代わりに何を見返りするか。いかにその功に報いるか。その生活を保護するか。
そのバランスを、今一度考え直さねばなるまい。