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フランシスコの花束

 詩・韻文(短歌、俳句)

アフォリズム:アメリカの横暴・横着

2005-10-26 22:48:20 | アフォリズム・思想のフラグメント
  ●米軍の横暴と横着●
  
○ 沖縄のキャンプ・シュワブでの滑走路建設は日本の貴重な海を破壊する。
○ 米軍基地の縮小・廃絶を願う沖縄県民の心をいつまでも踏みにじる沖縄米軍と、それに「NO」と言えない日本政府。
○ 飛行機の離発着を妨害した羽田空港の電波障害は、横須賀に入港した米軍艦船が同じ周波数を使ったことによる。
○ 逗子市と横浜市にまたがる貴重な自然を、米軍の住宅のために破壊する。
○ 岩国基地移転の航空部隊のために、岩国基地から150km以内の離発着訓練用の滑走路を用意せよと要求した。
○ 座間市のキャンプ座間への陸軍第一軍団司令部を移転する決定。

 米軍は日本に何でも要求できると思っているらしい。
 岩国基地の近くに艦載機用の訓練飛行場がないというのなら、硫黄島に完全移転をどうぞ。
 それも嫌と言うなら日本から出て行ってください。すぐさま出ていってください。
 日本人に、米軍の横暴・横着に堪える義理はまったくありません。それは不合理です。
 日本人の血税を奪って、さまざまなことをさせる米軍は、日本人の生き血を吸う吸血鬼のようなもの。
 日本人の税金なんだ。
 日本人の土地なんだ。環境なんだ。
 日本人の環境を破壊する米軍は出ていってください。
 日本人の血税を吸い取る米軍は出ていってください。

 そして、小泉政権は、いったいだれのための政府なのか?
 アメリカ合衆国の世界政策、いや世界支配のためのただの手足なのか?
 ということなら、かつて日本政府が、ドイツのヒトラーのナチの後ろをくっついて歩いたときと、どこがちがうのか?

 知っていますか。小田急の電車の中での若い米兵の傍若無人。注意したら何をされるか分からない怖さ。乗客は眉をしかめることもできず、下を向いている。沖縄へ行けば、米軍の犯罪候補者がうようよ。しかも、黒人兵が犯罪を犯したときには、それは人種差別だと言いがかりをつけてくる。海兵隊の乱暴なのはアメリカ本国でもよく知られている。その海兵隊を沖縄に置いておく理不尽。

 米軍よ、もう、もう、いい加減に沖縄を人身御供に捧げるとことを強要するな。日本政府よ、もう、もう「NO]と言ってくれ。
 すべての米軍よ、沖縄からもこの日本のどの土地からも出て行ってくれ。
 こんな米軍に協力することしか考えない日本政府も、いっしょにアメリカ合衆国へどうぞ。
 日本政府はアメリカ合衆国の支店ではありません。
 それが分からない日本政府、小泉政権はどうぞ、アメリカ合衆国のホワイトハウスに居候させてもらいなさい。
 日本人には、こんな政府は不要です。

 不思議なのは、日本の右翼。アメリカの横暴、アメリカの横着を攻撃しもしない。むかし、共産党がソ連の原水爆は正義の原水爆だと主張して、すべての原水爆・核兵器の廃絶を求める人たちと分裂していったのと、右翼は似ている。同盟国アメリカ合衆国のすることなら、日本人の生き血を吸う行為でも右翼は許すらしい。

  ●アメリカBSE牛の横暴●

○アメリカ合衆国のBSE汚染牛の危険除去の方法は、本当に科学的か? 科学的、というのは、机上の空論を言っているのではないか。なぜなら、その科学的であるというというところの安全性、汚染牛の除去の確実性を支えるのは、BSE汚染牛の鑑定・判別・排除技術と、除去技術とが確立されていることを前提にするが、その前提自体がまったくあやふやではないか。

 たとえば、アメリカ合衆国には、BSE汚染牛の鑑定技術、排除技術を持った専門鑑定技師を養成するための機関はあるのか?
 たとえば、アメリカ合衆国には、BSE汚染の最も危険な部位の確実・安全な専門除去技術者を養成するための機関はあるのか?
 さらにまた、アメリカ合衆国には、鑑定技術の確認、監査のための監査・機関があるのか?
 アメリカ合衆国には、除去技術の監査機関はあるのか?

 日本への輸出直前に、危険部位が完全に取り除かれ、脊髄や脳などの断片やなにかがほんの少しでも付着してはいないか、検査する技術と検査する機関はあるのか?

 実はアメリカ合衆国にはそのうちのいずれも存在しない。
 技術の裏付け、システム・制度の裏付けのないものを、「科学的」と呼ぶのは詐欺、まやかし以外の何ものでもない。
 それを、日本の「食品安全委員会」はわかっていて、「全頭検査」に近似して安全、と断言できるのか?

 「科学的」、ということは、近似値=0 と言うことを強弁することなのか? 日本の「食品安全委員会」もそうは言っていないではないか。ゼロにいくら近くても、ゼロでないものゼロではない。つまり、こいういことだ。

「食品安全委員会」が言うのは、 無=有
このどこが科学的か? 統計的にゼロに近いことが、統計的にBSE汚染牛ゼロと等価だというのか?
等価とするのは、単に便宜的なものだ。
「食品安全委員会」はアメリカ合衆国の便宜主義を正当なものと認めるのか?
 日本人をBSE汚染の危機にさらすことになっても、それが本当に判明するのは今から、二十年後、三十年後だ。BSEによるクロイツフェルト・ヤコブ病が発症するのは、そのころだからだ。それまで、二十年間、三十年間、われわれは発症のおそれを抱きながら、米国産牛の混ざっている加工食品を食べさせられるというのか? たとえ、直接米国産牛を食べなくても、どこに使われているか分からない現状では、日本人はクロイツフェルト・ヤコブ病のおそれの中で生活することになるのだ。
 そこまでして、アメリカ合衆国の畜肉業者に、日本人はご奉仕申し上げなければならないというのか! 


アフォリズム:NHK決算報告/議員年金のこと

2005-10-21 01:04:30 | アフォリズム・思想のフラグメント
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photo:箱根中央火口丘のイロハモミジ

    ●NHK決算報告のこと
    
 2005年10月20日 NHKの決算報告が行われ、承認されたという。元号では平成17年だ。
 ところが、承認された決算の年度を聞いてびっくり。
 承認されたのは、平成13年度、平成14年度、平成15年度の3年分を同時に一気に、ということだ。繰り返すが、今年は平成17年だ。年度で見ても、平成17年度。
 承認されたのが最新のもので、2年も前のもの。それに3年前、4年前もあわせて3年分。
 予算の発表と承認は、毎年度やっているのに、決算だけは、こんなにルーズなのだろうか? 毎年、毎年、前年度の決算承認を求めているのではなかったのか? 不思議だ。正当性も公明性も著しく欠いている、
 こんな大甘な決算報告と承認などをやっているから、悪いことするやつを見逃すのだ。ごまかしがきくのだ。3年分の決算を一度に、なんて社会性の高い事業体のやることではない。

 しかも、その3年分の決算を当日に承認してしまった。
 政府がNHKに対してはこれほど、大甘であれば、管理不行き届きのそしりを免れない。ますます受信料を払いたくなくなった。

    ●議員年金のこと
    
 いわゆる「議員年金」の廃止論が急を告げている。
 本当にこのまま一気に廃止していいのかどうか?
 その前に考えるべきことが山ほどあるのではないか?

 なぜ、国民は「議員年金」に反発を感じているのか?
不明朗な議員の政治資金。いつかどこかで私腹を肥やしたり、本当に自分のお腹が出るような贅沢三昧だったり、どこか政治家の収入はいかがわしい。国民の大半がそう思っているから、税金でお手盛りの「議員年金」に反発するのではないか。

 けれども、先日プロ野球で新人王までとった元プロ野球投手が殺人事件で逮捕されたことを思い起こして欲しい。
少なくとも15年、20年と日本の国政のために身を粉にして働き、命を賭してつくしてきた国会議員が議員引退後に、生活のために、あるいは贅沢のために、このような「貧すれば鈍す」というような恥ずかしいことをして欲しくない、と国民は願っている。
 元国会議員の肩書きを利用して、破廉恥な詐欺に走って欲しくないとも願っている。
 とにかく、日本の国会議員はその任にあるときにも、その任を終えたときにも、世界に対して恥ずかしくない人間であって欲しいとひそかに思っているのだ。

 国会議員が、本当に国民のためにその力の限りをつくし、国家に奉仕したことを認め、心から尊敬と感謝の心を持つならば、全額国庫負担ででも、その議員の労に報いたいと思うだろう。それが自然な人間の感情というものだ。
 しかるに、国民は特別に優遇されている「議員年金」に対して怨嗟の声を上げ、これを廃止することを願うという悲しい現実を、現在の国会議員、あるいは現在年金を受給している国会議員、元国会議員は直視せねばならない。

 今、国会議員である人の中にも、純粋に私財をなげうって国家のために、国民のために奉仕している人が、あるいは何人かはいるかも知れない。もしいるとすれば、その人たちは、逆に「議員年金」を支給されないことにある種のやりきれなさを感じるかも知れない。全財産を投げ打つわけにはいかなくなった、と思う人も出てくるだろう。いや、もし、全財産を投げ打ちつつある国会議員がいれば、という仮定の話だが、できれば一人や二人はそんな人がいて欲しいと願うのも国民の一人として、偽らざる思いであるのだ。

 本当に国家のためにつくしてきたと、国民がだれもが認める人なら、「議員年金」にはだれも文句をつけまい。それが文句をつけられるというところに、悲しい現実があるのだと、まず、国会議員は気づかねばならないのだ。

 あるいは、「議員年金」制度を廃止した後には、「功労年金制度」のようなものを全額国庫負担で制度化してもよいのではないか。それは、たとえば、「功労年金受給資格審査」に合格して、国民及び国家への功労者と認定された15年以上あるいは10年以上勤続(通算でもよい)の元議員には、生涯年金を支給するというようなことだが、本当に功労者であれば、支給してもいいのではないか。いや、支給すべきだと思う。
 もちろん、文書化された客観的な受給資格が要求される。公正な不偏不党の「受給資格審査会」によって審査され、政治資金が透明であったこと、いかなる不正もなく、どんな細かな報告洩れもなく、正当に議員歳費が用いられたことが証明されることが、最低の資格だ。そのうえで、どれほど国民のために議員生活を用いたか、その時間とエネルギーを捧げたかが問われる。一部の団体や地域や会社のために、どのようにささやかなことでも、利益や便宜をはかることがなく、ほんのささいなことにも口ききすることなく、ひとえに国家全体のために、日本国民全体のためにつくしたことが認定されることが、条件。
 つまり、日本国民の誰もが、その奉仕に感謝と尊敬の心を送ることのできる人であること。そのような人が何人も何十人もこれから出てきてくれることを願って、「功労年金制度」の創出を、提案したい。
 その制度が願うのは、、理想の国政の実現。理想を追求する清廉な国会議員だけが、国政にあずかるようになってくれるということを願う心。国民の切ない期待なのだ。


アフォリズム:消費者とは?

2005-10-18 15:44:39 | アフォリズム・思想のフラグメント

    ●消費者とは?

 消費者の属性。匿名性あるいは無名性。そして任意性。
 つまり、消費者は名札を持たない。その行動は任意。

 その匿名性、無名性に対して。
 スーパーや商店の対策は、この匿名性を何としてでも打破しようとする。
 クレジット・カードがそれ。これによって、消費者はその匿名性を完全に剥奪される。
 たとえば、ジャスコは月2回ほど、「感謝デー」と称して、このカードを提示するだけで、商品価格を5%引きする。

 こう考えてみたことはありませんか?
 たとえば、その月二回に目一杯買って1万円ずつ払ったとしよう。その5%は500円。月二回で1,000円
年間で12,000円。この金額を儲かったと感ずるのかどうか。なぜなら、この1万2千円のために、消費者は、自分の個人情報をすっかりジャスコというスーパーに明け渡しているのだ。自分の個人情報をいわば、毎年の1万2円で売り渡していると考えてよいからだ。その自分の個人情報の値段として、1年に月1万2千円がすてきな儲け、と言えるのだろうか?
 その個人情報をジャスコがきちんと門外不出で守ってくれるかどうかは不明。
 どこから洩れるかも分からない個人情報は、なるべくどこにも開示しないという心がけが必要だが、クレジットカードを持ち、それを使うということは、自分の個人情報をフル・オープンしていることになる。自分で自分の個人情報を守らなければ、この日本ではだれも守ってくれないのだ。情報漏洩と不正利用に関して、国家が最も危険なこの国では。

 そうそう、もうひとつ付け加えたおこう。
 ジャスコの「感謝デー」は大量買いする人が多いためか、その値段にあまりこだわらない消費者が多く、前日まで6個498円だったリンゴが、その日だけ6個598円だったりする。100円もアップしておいて、その5%引きだから、消費者は結局高い物を買わされていることになることも、スーパーがいかに厚顔無恥かがわかるというもの。

 消費者の任意性はどうだろうか?
 これは販売側で、消費者の任意性をできる限り奪い取ろうとする。
 卑近な例
 スーパーのチラシの大きな文字で踊っている言葉。
 「きょうはお鍋の日! 温かいお鍋で一家団欒を!」
 「イタリア料理の日にしよう!」
 「今日は中華料理に挑戦!」
 などなど。
 つまり、売りたいものを売りたい日に売る。儲かるものを売る。
 あまり儲からず、実際には売りたくない目玉商品は、「数に限定」をして、平気で消費者を裏切る。
 中にはイトーヨーカドーのように、「限定100個」なんて桃の販売をしたりする。
 卵の1000パック限定の安売りが、午前中早くに売り切れてしまう店で、100個!
 目玉にもならない安売りなど、宣伝するほうが、厚顔というほかない。

 
    ●TVコマーシャルと消費者金融

 消費者金融、つまり、サラ金のコマーシャルがTVにあふれている。
 銀行自身の消費者金融のコマーシャルも混ざって、まさにこぞって「借りろ、借りろ」の大合唱。「借りろ、借りろ」と一方では誘っておきながら、「計画的に」とか「バランスを」とコメントする。

 でも、ちょっと考えてみよう。
 その利息。銀行の消費者金融で、15~18%の利率。サラ金では「出資法」が制限する29.2%の年利率限度いっぱいまでの利息。「利息制限法」では、最大年18%の利率に制限されていることとの、齟齬の問題は大きな問題だが、まずその前に、この利率が、ひとりの人間が十全な生活を営むために、問題のない利率であるかということを、よく考えてもらいたい。
 丼勘定ではいけない。
 たとえば、20万円をサラ金で借りて、「出資法」限度いっぱいの利息「29.2%」をとられるとしよう。
 その利息は年間で5万8400円。月に4,867円弱。「あっ、これなら払える!」でいいのだろうか? あなたの月給を25万円とすると、1時間当たりでは、ほぼ1,623円強。とすると、月に支払う利子は、あなたの労働の3時間分。サラ金から高利でお金を借りれば、月に何時間かのただ働きを強いられることになるのだ。
 月収が百万円の人なら、銀行の消費者金融を直接使えるが、それでも同じ20万円を借りた場合、15%の利息として、それでも年間3万円を課される。サラ金の半分近くになる。時間当たりの給与も、6,000円以上にはなるので、1ヶ月分の利息2,500円は30分以下の労働でまかなえる。これを安いと感じるかどうかは、その借金の緊急性や重要性にかかる。遊びのため、自分の欲望のためなら、かなり高いコストとみなければなるまい。

 けれども、その一方で、銀行が預金者に払う利子は、定期であっても1%にも満たない。そのような安いコストで手に入れた資金で、消費者金融は銀行直接でほぼ濡れ手に粟の利益をもたらすことに、だれも不平も不満も感じないのは、不思議でならない。たとえば、預金者に1%の利息を還元したにしても、15%-1%=14%が粗利になるのだ。こんな不当な利益を世の中は許していいのだろうか?
 サラ金は銀行から安いコストで資金を借りる。その利率は多くても常に1桁の%。7~9%と考えられるから、先ほどのように、29.2%もの利息を支払うと、サラ金の利ざやは20%以上。つまり、銀行よりも儲かるのだ。なるほど、テレビコマーシャルにサラ金のものがあふれるはずだ。何せサラ金の資金は潤沢。銀行がどんどん貸してくれる。借りてくれれば借りてくれるほど、サラ金は儲かる、儲かる。少々の貸し倒れが出ても、それでも儲かって仕方がない。それに、もともとが、強引な取り立て、暴力的な取り立てをしてきた経験があるから、法にかからない程度の脅しや、威嚇はお手の物。借り手に、「恐ろしいことになる」ということを想像させるだけでも効果があるのだ。そのようなひどい取り立ての実績と歴史があるのだから。自己破産でもされない限り、貸し倒れはまずない。
 これを不当な利益、と言わずして、何を不当と言うべきか。
 金を貸して、20%もの利ざやをかせぐことを、どうして我々はこの社会に放置しているのだろう。
「出資法」の利息制限もまた、少なくとも「利息制限法」の限度内におさえることが、まず必要だ。これだけの不当利得を認めている「出資法」にこそ、問題があるのだ。
 「利息制限法」の最大利率18%が大きすぎることも、問題にすべきだ。銀行はその「利息制限法」の範囲内の利息を課しているが、最大で18%近い利ざやを得るのだ。普通預金の利息なんて、限りなく0%に近いのだから。普通預金から資金を投入すれば、借り手から支払われる利息のほぼ全額が、粗利として、銀行のふところにはいるのだ。

 サラ金も銀行も、「バランスを考えよう」とTVコマーシャルで訴えるが、最も考え、直ちに是正しなければならないのは、預貯金金利とこうした消費者金融金利との乖離の大きさだ。ここにこそ、バランスを持たせなければならない。銀行やサラ金が儲け過ぎることは、社会の公正性や、公明性、平等性を阻碍しているのだ。高利貸しが有卦に行っている社会が、ろくな社会であるはずがないではないか。
 本当に苦し紛れに借金をせざるを得ない人を、食い散らかして、本当に社会の公正性は保たれるのだろうか?
 
 国家の借金を何とかすることも重要だが、この消費者金融の偏った利潤もまた、ただちに正すべきことなのだ。
 借金国家、借金社会、借金人生から、何か、すぐれたものが生まれるはずがないではないか。正しいモラルが律する社会になるはずがないではないか。

Just MyShop(ジャストシステム)

アフォリズム:報道と十四年前の普賢岳火砕流

2005-10-17 02:24:54 | アフォリズム・思想のフラグメント
アフォリズム:報道と普賢岳火砕流=過熱報道合戦の果て

 日本テレビが、雲仙普賢岳火砕流の中に埋まっていた報道カメラが十四年ぶりに出現したことについて、日曜日の深夜特集を組んでいた。
 その言葉や声のトーンは、いかにもセンチメンタル。
 死んだ記者の遺族にはかわいそうではあるが、つまるところ、報道合戦の果てにその若いカメラマンは死んだというほかない。火砕流の直前まで、カメラを回し続けたからだ。いや、回し続けざるを得なかったからだ。他社の報道カメラマンも同じところでがんばっているのだから、彼らが張り付いている以上、そこにそのカメラマンもがんばるほかなかった。
 大火砕流の直前には、避難のアナウンスが、警察の車から流されていた。
 それでも、カメラを回し続けた若い人。

 長崎新聞社の記者のコメント。
 「あの二、三日後の報道で、(わしがあの現場から)さっさと逃げよった、と言われとった。」
 「わしは逃げたんやない。記事の締め切りを逆算したら、あそこに四時までしかおれんかったんや。」
 「わしは、けっして臆病やったからやない」

 そうだったのだ。あの大火砕流で死ななかった報道記者は、現場から早々と逃げた臆病者呼ばわりされていたのだ。
何とひどい話だろうか。
 日本に何十社もあるある報道機関が、みんなであの雲仙普賢岳の現場に張り付いて、みんなで報道合戦をしていた。その戦場からいち早く離脱すると、それは「敵前逃亡」の卑怯者だったのだ。「臆病者」あるいは「卑怯者」あるいは「腰抜け」あるいは「逃亡兵」と自社の同僚になじられたり、他社の記者やカメラマンに馬鹿にされたり、上司からどやされたり。一体何のための報道合戦だったのだろうか?

 あのとき、43人もの人が火砕流に呑み込まれて死んだ。報道陣について行った地元の人も何人かやられた。報道陣さえあの場にがんばり続けなければ、地元の人は死なずに済んだ、と言う。避難の呼びかけがあったにもかかわらず、報道陣はその呼びかけを無視したのだ。
 そのことについて、日本テレビは番組の最後になって、コメントする。いわく、
「自分たちの行為が地元の人を巻き込むことになるんだと言うことを知りました。」
申し訳ないという一言を言うわけでなく、口調は報道合戦の過熱について考えさせられた、と言う程度のコメントだった。

 つまりは、日本テレビには反省はない。あるのは、自社の若いカメラマンを死なせたことへの、日本テレビとしての哀悼の意。それが表に出ているもののすべて。その裏には、報道合戦がすごかったんだから、あの場合はしかたなかった、という開き直りが、でんと構えている。堂々と、偉そうに構えている。

 なぜあれほどまでに過熱したのか。なぜあれほどままでに各社競ってその一瞬を逃すまいとしたのか。
 地元の人たちには緊急性も重要性も最大級の報道であったにしても、全国的に配信するために、あれほどの報道合戦を繰り広げなければならないほどの重要性や緊急性があったかどうか。
 結局、火砕流の現場を、そのぎりぎりの現場を撮るということに報道の心が奪われて、実際に報道者がそこまでする必要があるのかないのか、全く反省がないままに、検討されないままに報道が進んだことにこそ、問題があったのだ。けれども、あの報道過熱の渦中でその点について十分な吟味、反省ができなかったことを自戒するというのならまだしも、あれから十四年もたった今になってもまだ、その報道の必要性について、何の反省も見られないのは、なぜなのだろうか。十四年もたっていながら、報道の必要性や重要性について、客観的に検討を加えた形跡がまったく見られなっかたことには、ある種のいらだちを禁じえなかった。

 何も反省していないではないか。どこかの芸能人が結婚式でも挙げるときと同じ感覚で、そのことの話題性だけで、その事件を追った。その結果があの大火砕流の発生による報道陣の多数の殉職だった。
 だれかが「できちゃった結婚する」ことと、「原氏がジャイアンツの監督に再任する」ことと、「小泉自民党が衆議院選挙で300議席を上回る」ことと、「石油価格が急上昇する」こととが、どれも同じヴァリュー、同じ重さ、同じ価値を持っているのが、いまのマスコミだ。
 話題性があれば何でもよい、日光の猿どもの悪事であっても、神戸の猪の人間への突進行為であっても、庭先のイグアナであってもなんでもよい。

 報道とは何か。報道すべきことと、報道したいことと、報道してもしなくてもどっちでもいいこと、とがあるとき、マスコミは、
報道すべきことではなく、自分の報道したいことを最優先する。それが我々にとって重要であるかどうか別問題なのだ。
それが、あの雲仙普賢岳火砕流の事件に象徴的に現れる。
 それが最も重要な地元の人のもとには、あの雲仙普賢岳の報道は行きわたってはいない。
 とりあえず高みの見物をしているたとえば東京や大阪の人間が、その報道を、好奇心の塊となって見ているに過ぎないのだ。ということは、どういうことか。必要のための報道ではなく、高みの見物のための、好奇心のための報道だった。
そのために、人々の好奇心に奉仕するために、日本テレビの若いカメラマンや他の局の報道者が死んだ。

 報道とは何か。我々の好奇心に奉仕するものなのか。それとも。
 日本テレビは猛省せよ。
 いや、日本テレビに限らぬ。日本の報道各社は、多かれ少なかれ、この日本テレビと同じなのだ。

 例えば、アスベスト問題。この二十年というもの、報道各社はまるで追いかけようともしなかった。二十年前にはアスベストの危険性が公表されていたにもかかわらず。つまり、話題のありそうなことには死を賭しても各社競争で取り組むが、地道なそして骨の折れそうな追及には本腰を入れてやろうとしない。それが、いまの日本のモラル崩壊を端的に象徴している、と言っても過言ではあるまい。

 報道各社が、報道の原点に立ち返ること。それは、今、報道のあるべき姿。報道の使命というものについて、もう一度、いちから考え直すべきときにある、ということでもある。


アフォリズム:防災と地方自治体

2005-10-16 21:58:51 | アフォリズム・思想のフラグメント
     アフォリズム:防災と地方自治体

 防災ということについて、地方自治体がいかにいい加減だったが暴露されたのが、昨年の「中越地震」だった。
 あの地帯が、世界でも有数の(日本で、というのではない、世界でもだ)地滑り地帯であることは、地質をかじった人間なら誰でも知っていることだった。つまり、地方自治体のお役人様たちは、容易に、自分たちの土地が地震や豪雨などには非常に敏感な土地であることを、知っているはずだった。
 けれども、そのための準備が何もなされていないと聞いて、愕然とした。
 何であんな災害の起こりやすい危険な場所で、そのための用意がなされないのだろう、と、それはほとんど怒りにも似た感情だった。

 第三紀層の粘土化した地質は、地中に無数の滑り面をはらんでいるのと同じ。
 たとえば、十日町の地滑り地帯は、ゆるゆると非常にゆっくりしたスピードで滑っている。百年で数十センチから数メートルというものだから、住民は何とかかんとかそこで生活することができるらしい。
 こうした事実は、研究者によらずとも、そこに住む人間はだれでも知っていること。それなのに、自治体は何にも防災準備をしていない。

 体育館やプールの天井がきちんと固定されていない点についても、先日の長岡市の担当者の話はまことに無責任。こう言ったのだ。
 「予算がないから、すぐには直せない」

 地方自治体は、そこに住んでいる人間の生活や、健康と命について、何の責任も感じないらしい。
 
 アスベストの被害が明らかになり始めたとき、たとえば、神奈川県の担当部局は、そのメーカーに事情を聞く、ということで、責任を果たしたと思っていたようだ。周囲の医者、病院や個人医院に調査を入れることすらしないままで、平気だった。

 世の中は、地方に権限を委譲しよう、という方向に動いているのに、肝心の地方自治体が、そこに暮らしている人々に対して、無責任なのは、給料泥棒と言うほかない。
 そこに暮らす住民は日々命がけで暮らしているのだ。
 あるいは日々健康や安全を脅かされながら生活しているのだ。
 そのことについて、地方公共団他は、まったくのアパシー。

 身近にいる地方自治体の公務員を見ても、公務員は気楽だから、なった、と言うような連中ばかりだ。
 だから、この間の東京都の職員のように、何が起こっても、自分は関係ないのだ。
 携帯義務のポケット・ベルを持ち歩くことすらしない。
 ポケット・ベルの呼び出し方もいい加減。
 あるいは、地震計のネット・ワークも都庁のものは更新されずにいたから、すぐに気象庁に情報が入らなかった。
 ことほど、でたらめ。都民への責任など上から下までまるでない。
 あるいは、都知事の性格が、傲慢な支配者面が、権力者意識が、下っ端まで浸透しているのかも知れませんね。

 だから、こんな安月給じゃ、そんなんで、いちいち都庁へ飛んで行けるかよ。
 都民のためになりたくで、都の職員になったんじゃねえんだよ。
 ていどの感覚で開き直っているのだ。

 自分たちのエリアに住んでいる人間の命にかかわっているのだという意識はこれっぽちもない。
 酒を飲み過ぎて糖尿病になっていたりする職員がいるが、もってのほか。
 自分の健康管理も十分にできない人間が、住民の税金から給料をもらう権利などあるはずもない。

 学校では、今でもお役人様たちのことを「公僕」と教えていることは、こうしたお役人様たちはすっかりお忘れなのでしょうかね?

 いずれにしても、地方公務員は、根本的にたたき直さないと、肝心なときは全く役立たずだ。
 あるいは、全員、一度陸上自衛隊にでも一年間放り込んで、性根を鍛えてもらう、というのもいいかもしれません。
 今のままでは、我々の生活を彼らに託すことはとてもできないのだ。

 重ねて言うが、地方公務員は、根本的な意識改革を必要としている。