蔵書目録

明治・大正・昭和:音楽、演劇、舞踊、軍事、医学、教習、中共、文化大革命、目録:蓄音器、風琴、煙火、音譜、絵葉書

『粛軍問題の経緯』 3 (1935.10.17)

2021年01月27日 | 二・二六事件 2 怪文書

     

     永田中將殺害事件

 相澤中佐は粗暴純朴全く寡黙直情の男である、彼は十月事件頃から既に國家改造の実行者の一旗頭に推された人である事は前述の通りである、永田中將も最初は同様の思想の持主であった事は三月事件の際の起案者と目されて居る事に依って推察が出来る。
 此の永田中將が軍務局長となるや此の思想実行者として僅かに殘って居る村中、磯部一味を圧迫し之を處分したのであるから相澤中佐は之に対し非常なる不快を抱く様になった、それに勤務して居った聯隊が適當でなかった某上官であった、福山歩兵聯隊長樋口大佐は彼等の一幹部であっただけに、此問題に関し純眞なる相澤中佐に間接直接油を注いだ事は爭はれない事実である、それに例の怪人物西田税の家に宿泊して居る、尚ほ永田中將は  天皇機関説には頗る微温的であり政界巨頭と近接し某時期に陸相たらんことを計畫してゐるなどと言ふ噂も誤り傳へられた、是等の事情は悉く相澤中佐を憤激せしめたに相違ない、結局永田中將は昭和維新を計畫実施する彼等の為には恰も明治維新當時の井伊掃部守である、彼を排撃せざれば到底理想の実現は覺束なきのみならず却って一味は彼の為に破滅の運命に陷らしめらるゝならんと考へる様になった、是に於て一方の旗頭を以って任じ彼等青年將校の崇拝を受けて居った彼としては一身を犠牲にして彼等一党の危急を救ふべしとなし幸に腕に覺えのある剣道を信賴し彼を一刀の下に殺害し是非の理曲直を天下に公表し天下に其の判決を仰がんとすと言う様な浅薄であるが雄々しい決心覺悟の下に此の事件を断行したのではないかと想像される。
 されば彼は軍法会議に於いて恐らく過去の三月や十月事件を堂々と発表し永田中將等の主義一貫せざる態度を攻撃するの策に出て國士を以って天下を論じ社会の腐敗を述べ之に対する矯正論を呼ぶだらうと思ふ。
 此の如くして獲るものは何か、
 結局陸軍内部の暗鬪を天下に暴露すること昭和の今日恐る可き陰謀の存在を発表して世人を驚かし國民の陸軍に対する信望を失ふに至らしむるのみである、軽擧妄動も甚しい哉と言はざるを得ない、從って陸軍當局は相澤中佐の軍法会議の内容眞相を公然世間に発表したら三月十月事件の社会改造の恐るべき陸軍の策動も暴露する事になるし陸軍内部の不統制も隠す事が出来なくなる、嚇々たる歷史のある我陸軍の名を汚し國民に対しても外國に対しても全く赤恥を曝す事になる。
 一方之を隠蔽することになると國民は陸軍を伏魔殿の如く疑ひ今迄の信望は薄らぐ様になるのは當然の帰着だ、國民戰爭國家總動員などと軍民一致を高調する御膝元が後ろ暗い事があっては相済まぬ次第である。
陸軍當局は如何に此問題を善處するだらうか。

     怪文書

 眞崎將軍勇退後第一に現はれたものは村中、磯部両將校の名に依る『肅軍に関する意見書』である、その内容は三月事件十月事件を詳細に暴露し間接に陸相及永田局長を攻撃したものである。
 之は彼等一派が士官學校十一月事件で處分されたのを豫め計劃通り暴露戰法を採用し當局を困らしてやらうと言ふ復讐の手段に出たことに過ぎないが印刷配布前に眞崎將軍若しくは他の巨頭に意見を聽取し或は督勵を受けたものではないかと思考せられる、これは想像に過ぎないが此の文書は結局眞崎秦將軍の辨護になるからかく疑はれても仕方がないと思ふ。
 續いて現はれた異動に関する經緯の詳細の如きは何と辨解しても三長官会議に出席した誰かの口から洩れなければ出来ない、資料のみでゝっち上げてある、即ち三長官会議や軍事参議官会議の内容の記錄があって一々月日を追って具体的に詳細に記述されてある、而も其の大部は眞実であると言はれてゐる事に吾人は驚かされる、一般的に見て眞崎大將の主張の堂々として條理整然たるに反し林陸相は唖然として一言も答ふる事が出来なかったと言ふ様な一方的な記錄である。
 極秘の会議の内容中には人事の内規迄引張り出されてゐる、この内容は其の席に居った人でなければ到底知る事の出来ない事実である、從って鈍感の人間をも此の怪文書が何れから出たかと言ふ事が推量し得るに足るものである。
 永田中將死去の三日前彼と面会した友人の話によれば中將は極力怪文書の出所を明かにする為め努力中であると明言したそうである全く怪文書である、一体陸軍特に憲兵の強力整備せる捜査能力を以ってして其の出所を確め得ないのであるから洵に時代の大不思議である。
 其後怪文書は次から次へと発表され永田中將殺害事件などは『永田中將伏誅の真相』と言ふ様な逆臣平將門に使ふやうな不敬不謹慎の文句が使用される様になった、まさかこんなこと迄指導されたのではないだろうと思ふが怪文書の出所をつき止めたら面白い新聞種が山の様に出て来るだらうと思ふ、聞くところによれば憲兵隊の中には尚ほ眞崎殊に秦中將の残党が尠からず存在して居るそうだ、田代憲兵司令官が如何に公平無私でも出身が佐賀出身である、其所に言はず語らずの間に憲兵隊それ自身の此問題に対する捜査研究の意気込が一貫徹底して居ないのは當然であると説く者がある、或はこれが寄った実際の眞相でないかと思ふ、それでなければ其の眞相をつき止め得ない理屈がないと思ふ、それとも林陸相のお人好は之が嚴令する事を躊躇したのかも知れない、元来林將軍は眞崎將軍の為に首になる所を救はれたる恩人であるので大恩人を勇退せしめた事は既に林の精一杯の仕事であったらうからそれ以上彼に望のは無理かも知れない。
 かくして永田中將死去するや形式的師団長会議を開催し数日ならずして陸相は川島大將と交代してしまった、正に統制派の敗北と言ふ形である、飽く迄肅軍の後始末をし然る後に辞職すると新聞紙に発表した舌の根も乾かぬ裡に辞職した林將軍の態度に対しては邦家の為甚だ遺憾に堪へない次第である。

     所見

 渺たる我陸軍の内部に派閥や勢力抗争などの有り得べきものと想像されないが事実は絶えずこの抗争暗鬪を繰返されつゝあるは洵に痛恨の至りである。
 日露戰争頃迄は薩長の勢力は驚くべきものであって陸軍の要職は殆んど大部彼等の出身に依って占領されて居った、從って他藩出身の偉才が所を得ずして恨を呑んで退いた例も尠くない、併し一方考へて見ると維新の大業の立役者は何と言っても薩長の武士である、其の余勢が残って要職に澤山の將軍が蟠居して居ったのは自然の趨勢でなかったらうか、果然是等の老將軍が世を去るに及んで薩長の勢力は蠟燭の火の様に次第に減少して行った、然るに復讐心に燃ゆる被圧迫者は薩長の勢力の漸減するに反し江戸の讐を長崎で見事に取ってしまった、其目標となったのは罪も怨みもない陸軍大學校を目指す青年將校であった、登竜門である陸軍大學入校者に薩長特に長州出身の青年將校を約八年の長年月に亘り全く入校せしめなかったそれである。
 此長洲出身の青年將校に秀才なしと言へばそれ迄だが統計學上多数の初審合格者あるに拘らず再審試験に八年間も合格者なしと言ふ常識上あり得べからざる現象である、明かに大學教官の採點に於いて感情の入ったものと推察せられる、當時大學教官には一、二名しか長洲出身者を採用して居なかった事は益々此間の消息を裏書するものと信ずる。
 公平無私を誇る陸軍は特に試験の採點に於てこんなことがあるとは驚かざるを得ない。
 次いて上層階級の目ぼしい薩長出身の將軍を何のかのと理由をつけて首斬りしたのは勿論であった。
 續いて抬頭したのは宇垣閥であった、之に代ったのが荒木、眞崎閥である。
 それ許りではない、學閥がる、兵科閥がある、更に不快なのは一部動員で出征する兵団に対する羨望嫉妬から来る凱旋將軍の早期首である、凡百の事戰爭を以って基準とする陸軍であり乍ら人事と戰功は別途なりと公言して如何に戰功があっても普通の人事の順序通り整理する、果然近時渡満する上層階級の將校は帰ったら首だと覺悟して出征する様になった、戰爭に行くのは彈丸に命中して戰死するか然らざれば帰國後首の何れかである、こんな空気を醸成せしめたのは、若かき、勢力ある中央部の主として机上論者や実戰の味を知らぬ小才子天保組の醜悪なる専横に起因する。
 かくして現時陸軍は甚だ明朗性を缼く陸軍となってしまった、御勅諭の所謂上下相信倚し邦家に勤勞せよとの御主旨は次第に疎ぜられつゝある狀態である。川島陸相は大臣就任後國体明徴論には頗る力瘤を入れ力強く首相に迫る様である。それも勿論大いにやる可し、併し陸軍内部の肅軍は如何にする積か、外に當る為には先づ内を治めるのが當然の順序ではないだらうか。
 大動員大規模の外征か或は前科者の一網打盡の徹底的處分か、何れにせよ陸軍は多事多難である。吾人は刮目して近き將来の成行を監視しなければならない。
         (畢)


『粛軍問題の経緯』 2 (1935.10.17)

2021年01月27日 | 二・二六事件 2 怪文書

     

     荒木、眞崎將軍の人事横暴

 満洲事変勃発當時は南大將が陸相であったが間もなく若槻内閣瓦解と共に教育總監本部長であった荒木將軍が陸相となった、元来荒木將軍は昔から青年將校と會見し意見を聽いたり気焔を擧げたりすることが好きであったので常に青年將校の憧憬の的となって居った、第六師団長時代には盛んに皇軍意識を強調し皇軍の志気を鼓舞発揚するに努めた、之が時代の趨向に じ益々人気を集めた、敎育總監部本部長から陸相に栄転する頃は人気の嶺頂にあって青年將校國本社員 國家主義者等門前市をなす有樣であった。
 金谷参謀總長が十月辞職するや次長二宮中將も職を退き第五師団長に転任した、次長の後任には今迄比較的逆境にあった眞崎台湾軍司令官を持って来た。
 眞崎大將は宇垣大將及長閥には之迄非常なる圧迫を受け昭和六年八月の異動には第一師団長より將に首になる所を辛うじて武藤將軍等の援助により踏み止まった將軍であるので、宇垣閥薩長閥を極度に憎み其の復讐の念に燃えた人である、而して荒木大將とは元来親交あり、長閥征伐には共に大いに働いた間柄である、両將軍相結んで宇垣閥の排撃を開始したのは無理もないと思ふ、幸に人事局長杉浦中將は有名のお人好しで如何にでも動く人であるので彼等の人事は思ふ樣に運ぶことが出来た、陸相は三月、十月事件に関係ある將佐官を盡く地方に転職せしめた、之は懲戒の意味もあると同時に宇垣閥排撃にもなったので一石二鳥の巧妙なるやり方で必しも非難すべきものではないが之に代る顔觸れが適當でなかった。
 両將軍は所謂佐賀及土佐縣の者を以って盡く要職を固めてしまったのである。
 則ち佐賀出身の柳川中將が次官に秦中將が憲兵司令官、土佐の山岡少將が軍務局長小畑少將が参謀本部第一部長朝鮮軍参謀長警備司令部参謀長其他佐官級でも目ぼしい所は皆彼等一派の占位する所となった、殊に敎育總監部系統であって唯硬骨漢であると言ふだけで手腕も頭惱も全くない山岡少將を陸軍の最も重要なる軍務局長に抜擢した如きは萬人齋しく意外とした所で痛く識者を驚かした人事の乱脈はこれから始まったと謂はれてゐる。
 小畑少將は頭惱鋭敏であるが頗る才気に富み事毎に人事に嘴を入れた樣である。
 小畑も山岡も陸軍界にては有名な狭量冷淡な感情の持主であり憎愛の念の極めて強い性癖者であるので此の両者の意見が陸相に直接若くは眞崎將軍を通じて採用せらるゝ樣になったから人事は益々極端に偏頗に傾き怨嗟の聲次第に喧しくなり流石の將軍の盛名も次第に衰へる樣になって併し公然と不平を述べ革正を叫へは忽ち要所要所の同系の上官や同僚乃至下級の者のスパイ的密告により幾許もなく左遷され或は首になった例もあるので後には硬骨の意見を吐く者もなく数人会合しても先づ其顔振れを見廻して『スパイ』の存在の有無を確め然る後快談すると言ふ様な陰惨な空気が少くとも中央三大官衙内にて醸成されて居り今尚ほ此狀態が継續されつゝある事は事実である。
 尚ほ困った現象は十月事件に於いて分離独立した尉官の一党であっても荒木、眞崎、秦、柳川等の諸將軍と近接して居る中に自ら気脈相通ずることに成り遂に荒木、眞崎將軍等の當時絶対強力なる背影を賴み所謂虎の威をかる狐となり進退横暴を極め屡々上司の目に余る行動をやり始めたことであった、其の一、この実例を擧げればこんなことがある、戸山學校の有力なる某佐官は其の一派に属する一尉官が嚴禁しあるに拘らず屡々思想的會合の席に出場するので其の命を奉ぜざる故を以って之を處罰するや、却って敎育總監部から叱られ後當然異動すべき其の尉官が學校に残って其の佐官は遂に首になった、優秀なる經歷を有する大學卒業者である、例へ些少の品格上の缼點があったとしても決して首になる人ではない、彼等の後援する一党の一人を排撃せんとしたことが眞崎敎育總監等の御気嫌を損ねた事に起因するは明白である、某戰車聯隊の某佐官と彼等一派の一將校の行動に関し命に依り調査し師団長に之を報告すると此の大切な機密に属する人事が翌日には筒抜けに本人の所に連絡されて居った、其の師団長は錚々たる柳川將軍である事に注意せば其の間の消息は自ら洞察するに難くはないと思ふ。
 即ち彼等一派に対しては直属上官の威力も及ばないと言ふ統率上有り得べからざる現象さへも所に依っては生ずる樣になって来た、
 之が昭和九年正月荒木將軍が林大將に陸相を讓る前後の内情であった。

     林將軍陸相就任より永田事件迄の曲折

 昭和九年正月、荒木大將は病気の故をもって陸相を教育總監たりし林大將に譲り敎育總監は軍事参議官たりし眞崎將軍が後任となった、荒木大將は陸相就任當時の聲明は実に嘖々として一世を蓋ふと言ふ有様であったが大臣としての出来榮は余り芳しい方ではなかった。
 満洲事変の波に乗って軍部の希望は殆んど大部容れられたが余りに多辨であり余りに多方面に頭を突込み過ぎた傾きがある。
 軍部以外の農村問題に対しては玄人を向ふに廻して淺薄な意見を発表し有識者の物笑を招いた。
 政治家実業家政党は殺伐たる暗殺事件の頻発並に彼のファシスト的態度に依り直接の圧迫迫威を受けた、自然の結果として口には出さないが痛く軍部に反感を持ち同時に其の首領である陸相を怨む様になった。
 口には皇軍の意識を宣傳し忠君愛國を高唱する彼の子息は皮肉にも社會主義者である事があった、幾多の人士は最早彼の能辨美辞に耳を傾けない様になった、非常なる多額に上る軍事機密費の用途に氷解し難い箇所ある事を傳へ聞いた、幾多の識者に寧ろ彼を排撃する者さへ生ずる様になった、殊に陸軍内部に対しては極端なる人事の不統制に依って全く其の信望を失してしまった、元来將軍は人事に関しては頗る恬淡公平の人であったが老獪偏狭の眞崎大將やそれに更に輪をかけた様な山岡、小畑等の意見を重用したのが最大の過失であった、此の如くして彼は病気でなくとも當然陸相の位置は保ち得なかったと見るのが至當であらうと思ふ、當時荒木大將は陸相の位置を眞崎大將に譲りたかったのは事実である。
 眞崎第一林第二の候補の順序であった、然し眞崎の人望は其時既に半を失って居った。
 當時次官たりし柳川中將其他が百方劃策した眞崎陸相の運動も遂に色々の事情に依り成功せず林大將が陸相となったのである、之は全く天意に伏せるものと見る外はない。
 林陸相は実に陸軍は勿論國民全部の信望を集めて就任した。
 其信望を集めた所以の最大は何と言っても肅軍に関する期待があった、林陸相自身も肅軍に全幅の努力を傾注すべく覺悟したと信ぜらるゝ、扨て陸相は肅軍を如何取扱ったかと言ふと陸相は肅軍に漸進主義を採用し以って極端なる反動の惹起を避くるに懸念した様である、先づ永田少將を軍務局長に次官を橋本中將に転入せしめた、併し遂に其の代償の意味かどうかは知れないが二宮將軍が首になり柳川中將は第一師団長に問題の秦憲兵司令官は第二師団長と言ふ頗る不快な異動を余儀なくさせられた、陸相就任當時尚ほ眞崎、荒木の力が偉大であると言ふ事を物語るに十分な好例である。
 次いで昭和十年三月今井中將を人事局長にし杉浦中將を歩兵學校長に榮転せしめた、前述の如く林大將陸相就任以来定期異動は三囘もあったのに肅軍の為の人事異動は全く微温的であり不徹底であるので林陸相も漸く世人から期待せられない様になり平凡お人好の彼最早賴むに足らぬと言ふ小聲が到る處識者の間に起る様になったのは當然である。
 林陸相は此聲を屡々耳にしたるは明瞭である、又白上事件で陸相の辞職を陽に奬めて陰に眞崎が其後をねっらって居った眞相は承知する様になった。
 是等の事情は八月異動では少くとも彼等巨頭の目ぼしき一二名は尠くとも何とか處置しなければならぬ、殊に眞崎大將は何と言っても總監を退職せしめねばならぬと言ふやうな心境になって来た、少くとも四囲の環境は之を陸相に強要した。
 當時永田局長は徹底的に人事の刷新を行った彼等一味を一掃する如く計劃したけれ共御人好の將軍は之を断行するを得ず半殺しの人事をやったので遂に永田中將事件の様な大事を惹起する結果とも成ったのは遺憾である。
 併し本年八月異動には恩人である眞崎大將をして總監の位置を退かしめ秦第二師団長を退職せしめた事は彼としては思ひ切った人事と言ふべきであらう。
 以下之が曲折を述べて見よう。
 大臣は意を決して七月十二日の三長官会議に於いて眞崎大將及秦第二師団長の勇退の件を切り出した、之に対し眞崎大將は先づ秦師団長の退職の件に関し異議を申出たと言ふことである。
 陸相は秦中將の政治的運動を指摘し眞崎將軍は小磯、建川、永田の行動を擧げて之を反駁して双方譲らず遂に決定せずして解散したが、更に七月十五日の會議に於て愈々両者は勇退することになった。
 此間眞崎に好感を持ってゐる軍事参議官荒木、菱刈大將などの骨折りで軍事参議官会議を菱刈大將邸に催し眞崎將軍の進退に干し眞崎援助の意見を一致せしめた、併しこんな策動も陸相の決意殊に總長宮殿下の御意見なりと大勢抗し難く遂に老獪極まる眞崎もその位置を退き其代りに林陸相と同期であり肝膽照す渡辺大將を以て敎育總監に任ぜしむる事になった、蓋し林陸相としては渡辺大將と相談して將来大いに肅軍をやる積りであったらうと思はれる、此間の消息は怪文書に詳細である、唯怪文書には眞崎の非を削除し却って眞崎の答辨の條理一貫せる如く記述し陸相の之に対する反言はシドロモドロとなって居る、之が怪文書の怪文書たる所以で、林陸相非難攻撃の目的で書かれたものである、事は推察し難くない。  (『軍閥重臣閥の大逆不逞』といふ怪文書を指す 編者)

     昭和九年十一月士官學校事件

 昭和九年初、議会開催に先立ち民間に再び五・一五事件の様な企圖があると噂され議員を戰慄せしめた事がある、こんな噂を外出した士官學校生徒が先輩青年將校の宅に遊びに行って之を耳にし驚いて區隊長に報告した事が発端となって遂に此事件が軍法会議に審議せらるゝ事になった、之を十一月事件と称して居る。
 内容は荒木眞崎將軍を仰ぐ一党が抱懐しある國家改造の主張が洩れた事であって其の實現は兎も角之を其機会に生徒に話した事は事実らしい、敎育總監、憲兵隊は軽視して居ったが陸軍省殊に永田局長は之を重視し、徹底的に調査し此の機会に此種思想や策動を根底より清掃せんと企てた所が関係將校の村中、磯部主計等は何ら語りたる事なしと主張し生徒は耳にしたと述べ水掛論となったが軍法会議の判決は是等將校を處分してしまった、この事件は相當彼等一派の反感を起さしめたらしい、此問題の起った時村中大尉一味の某中尉に面会した時の談話に依れば軍法会議の取調に於て如何に調べられても證據がないから處分することが出来ないだらう、若し萬一せらるゝ様なことがあれば三月事件や十月事件其他今迄隠蔽された事件の内容を発表し過去に於いてより以上の問題を起し何等の處分を受けざる者が澤山あるのに何故今囘に限りかゝる小問題の為仰々しく軍法会議開催し吾等を處分するか其の意を解するに苦しむと言ふ様な暴露戰法を採る、これは最も當局の痛い所であるから恐らく村中大尉一味は處分されまいと語り極力永田軍務局長の處断に対し反抗の意思を表はして居った。
 永田局長としては恐らく此問題を捕へて彼等一味を懲戒し一掃し様と計劃したのではないかと思はれる。


『粛軍問題の経緯』 1 (1935.10.17)

2021年01月26日 | 二・二六事件 2 怪文書

 

 統制派ノ文書 “肅軍問題の經緯”

 統制派の文書『肅軍問題の經緯』

   本篇輯錄に就いて一言

  村中大尉の『肅軍に関する意見書』は一世を驚倒させたが就中故永田中將を總帥とする統制派をはじめ所謂本部派と目される軍中央部加ふるに建川、小磯派の愕きは想像の外にある。殊に間もなく発生した永田中將事件、川島新陸相の登場等は、所謂本部派としても緘黙しないだらうと豫期してゐたが、突然十月十七日前後本篇が極少部数軍関係へ配布された。本篇は村中大尉の意見書と背馳するものであることはもとより言を俟たぬ。両者を味讀することは國軍動向の眞諦を獲るには好個のものと思料するので、敢て本篇をも輯錄することゝした。

     肅軍問題の經緯

         序文

近時我陸軍は内部の統制大いに紊乱派閥抗争に寧日なく人事は適確を缼き思想は動搖しつゝあり。その暗闘抗争の赴く所遂に陸軍始つて以来の不祥事件たる永田中將殺害事件を惹起するに至りたりしとなし、陸軍内部の非常時を高唱するものがある。併し一般世人の見る如く陸軍内部一般の統制は決して紊れて居るとは思はれない。
 此の陰鬱不快の現象は実は單に陸軍上層部及びこれに直接関係しある地方勤務將校の一小範囲に局限せられたことであって、之に関係なき一般多数の將校は依然として一糸紊れざる軍紀軍律のもとに各自の勤務に格別精勵してゐると見るのが至當であらう、永田中將事件勃発後急遽軍司令官師団長會議の召集された大部の軍司令官師団長は肅軍に関する陸相の仰々しい御訓示を御土産に頂戴して寧ろ不思議の感に打たれたらうと思はれる位である。
 さは言へ翻って考へて見ると此問題に関係しある將校は陸軍最上層の名譽ある將軍を含む陸軍中層級の有為優秀の佐官並に活躍雄飛の泉源たる年壯尉官であるので其の数は極めて僅少であるけれども其の影響する所相當甚大なるものがある、又年少気鋭の所謂西田税の主義を崇拝する彼等一派の思想は極めて過激であって其の主義の貫徹の為には上官の命令に反抗するも恬として顧みず寧ろ高所から見て忠節を盡す所以でありと言ふ様な信念を以て行動するので此思想が一般將校に傳染したら軍の統率や軍紀の確立とは當然成立しないことになるから見方によっては決して軽視等閑視すべき問題ではない事は勿論である、以下少くとも此問題を系統的に年月を追って順序に記述して見ようと思ふ

     昭和六年三月事件

 満洲事變直前即ち昭和五六年頃の我國の情勢は実に消極的沈滯の時代であった即ち外部に対しては所謂幣原外交の方針に基き極端なる消極平和主義が採用され内部に対しては隨所不況の影響を受け國民は緊縮萎縮の生活を強要されて事業衰へ失業者續出と言ふ有樣であった、之が爲各方面に非難不平の聲が起ったが就中気概ある志士先達をして慷慨悲憤措く能はざらしめた事は日本外交の軟弱を見縫った隣國支那の排日抗日の態度であって日露戰争の結果獲得したる満洲の利権迄も将に張學良一派の爲に奪取せられんとしつゝあったこと、政党財閥が腐敗の極私利私慾の為には國を賣っても恬として恥ぢざる破廉恥行為の頻出であった。
 昭和七年三月事件は此の情勢に憤慨し我帝國を危機より救はんとする軍部一部愛國の志士が赤誠の余り現内閣を倒し政党財閥を清掃せんとした一計劃である。この計劃案は當時陸軍省課長たりし故永田中將が上長の命を受け作案したる試案だと言はれてゐるが其の真偽明かでない。兎に角此案実施の為には軍隊の一部も参劃出勤し民間の有志も加はる事になって居って、相當大袈裟なものであった、軍部では宇垣大將を筆頭に二宮、小磯、建川將軍は勿論陸軍大學出身の佐官級よりなる有力者をもって組織された所謂櫻會の會員の大部分は關係して居る事になって居た。
 併し何と言っても此案は非常なる過激性を帶び帝都の安寧秩序を一時的にもせよ紊乱する虞れ頗る大なる計劃であるので單に試案たるに止まり実現するに至らなかった。
 こんな思想は誠に極端な思想であり危険な計劃であったが極端なる消極退嬰の時勢を挽囘改革する為には矢張り當然起るべき反映であり趨勢であったのではないかと思はせられる、何となれば此計劃は実現されなかったが爾後これが動機の様左形となって昭和六年十月事件昭和七年五・一五事件民間では昭和七年一月血盟団事件昭和八年七月神兵隊事件等々が次から次へと恰も雨後の筍の様に頻出したのはこれを裏書するに足りると思ふ。
 幸に何れも計劃が未然に発見せられ或は実現されても半途にして中折されて居るので大事に至らなかった、之が計劃通り実現され帝都に戒嚴令でも布かれる樣な事があったら恰も佛国の革命當時の恐怖時代の樣な現象を呈したかも知れないと思はれる、併し一方こんな思想が外に溢れて満洲事変の樣な世界を驚かす大事件を惹起せしむる間接の原因をなしたかも知れないと想像せられる。

     昭和六年十月事件

 三月事件は一理想案として作案され同志との間に発表せられたものに過ぎなかった、血の気の多い少壯將校は如何にしても之を其儘軽視して放置することを得ずとなし橋本中佐等が巨頭となり密かに同志を糾合して種々具体的案を計畫し時期の到れるを窺ふことになった、之が十月事件の始めである。
 此の計劃は具体的のものであって其の実施に當っては近衞第一師団より武装せる軍隊が出勤するのみならず立川所澤等より飛行機迄飛来し爆撃を実施し強力を以って内閣を倒し、 大將を總理に推すことになって居った、勿論財界の巨頭や政界の注意人物は襲撃の的になって居った。
 幸に將に実施せんとする直前國家を思ふ先輩や同僚の密告若しくは憲兵自身の偵知に依り其の巨魁たる数名の將校は憲兵司令部に留置されたので大事に至らずに事件は事済みとなり當局の配慮に依り新聞にも其の眞相は記載されなかったので此の事件は天下白日の下に暴露することなく暗から暗に葬らるゝ事になったが実に危機一髪の時に克く甘く始末をつけ得たと思ふ、此の事件には後には大問題を起した相澤中佐も関係して居る、同中佐は當時東北師団の大隊長であったが軍隊の一部を指揮し何れかに行動することになって居った一人である、併し三月事件に名の出た將軍連は一人も関係せず寧ろ極力鎮定の立場にあった事は注目すべきものとして、三月事件の案は單なる計劃案に過ぎなかった事を推量する一の材料となると思ふ。
 此の事件には士官学校第四十三期附近の最年少の少尉連中も可なり参加することになって居ったが此の事件の憲兵隊に報告せらるゝに先立ち彼等は其の巨魁たる橋本中佐以下のが屡々待合に出入豪遊し眞面目ならざる態度に憤慨し共に大事をなすに足らずとなし此の盟団と分離して別に行動を取り邦家の為昭和維新を目指して精進することになった、此の連中が後に問題を起す村中、磯部、栗原一派であって彼等は好んで荒木、眞崎、柳川、秦將軍等を歷訪し将軍も喜んで 見し互に意見を吐露開陳して居るので彼等は以上の將軍を崇拝し將軍等も亦彼等に非常なる強力の後援をなす事になった。
 後に荒木、眞崎派と称するのは西田税の唱ふる主義と同一であって、現時の腐敗せる財閥政党を打破し内閣を彼等の理想とする強力内閣とする為には強力を以っても之を遂行せんとする徒輩であるので、其の危険過激の思想なる事は前者と何等変りはない、而も屡々前記將軍を歷訪し其意見に從ひ其後援を受けありし関係より推測せば荒木、眞崎將軍も亦彼等と大同小異の思想を抱懐し居った事は略洞察するに難くない事である。
 此の事件に某実業家が多額の軍資金を供給したる形勢歷然たるものあるは甚だ不快なる現象である、之が為彼等が維新の志士を気取り待合に於て大事を相談するが如き行為は寧ろ稚気愛すべきも笑止の至りであると謂ふべきである。

     昭和七年五・一五事件

 昭和七年は満洲事変勃発の翌年であり國際聯盟脱退の年である、國民は長年の平和消極生活から目醒めて世界の檜舞台に雄飛せんとする希望に燃えて居った時であるので鬱勃たる現政に対する慷慨は血なまぐさい形となって現はれた、則ち民間に於ては一月末、日召を巨魁とする血盟団事件があって財界の巨星である井上準之助、團琢磨の両氏の暗殺となり軍部に於ては所謂五・一五事件と成って海軍青年將校及陸軍士官候補生の数名に依って遂に犬養首相は殺害されてしまったのである、此の事件は時勢も時勢であったが三月十日事件等によってこんな思想が俄然醸成されて居った所に血盟団事件に依り更に刺戟され上層將校実行力なしと見て決然此擧に出たのではないかと思考せらるゝが純情至誠の奔る所とは言へ軽擧妄動の謗りは免れない。
當局及國民は之に多大の同情を與へたことは無理なく死刑にはならずにすんだが彼等が自発的に従容死を選んだら後世どれだけ世に益したかは知れないと思ふ。
 前の十月事件では金谷参謀総長が罷めて閑院宮殿下御親補されたが五・一五事件では荒木陸相は其儘であって教育總監武藤大將が責を負って林大將は其職を譲り二宮學校々長は交代した。


(怪文書集)「本篇編纂ニ就テ」 (1936.3)

2021年01月25日 | 二・二六事件 2 怪文書

 

絶対門外不出

 本篇編纂ニ就テ
 “ 肅軍ニ関スル意見書  ”    村中大尉、磯部主計
 第二 “ 肅軍ニ関スル意見書  ”    村中大尉
 “ 肅軍問題ノ經緯  ”         統制派ノ文書
 軍閥、重臣閥ノ大逆不逞

 本篇編纂ニ就テ

 一、昭和維新の春の空
     正義に結ぶ丈夫が
   胸裡百万兵足りて
     散るや万朶の櫻花
 二、功名何ぞ夢の跡
     消へざるものは唯誠
   また世の意気に感じては
     成否を誰かあげつらん

昭和十一年二月ニ十六日、暁の夢を破って聞かれた昭和維新断行の歌は “ 尊皇討奸隊 ” 一千五百の將兵によって高唱された国体顕現への蹶起の叫びであった、輦轂の下、遂に戒厳令が施行され、 “ 尊皇討奸隊 ” の蹶起もその雄図空しく、中途に於て抗勅の汚名を冠せられ、戒厳司令官の強硬處置によって事態は漸やく平静に帰するを得た、斯くて未曽有の不祥事変後に於ける重大時局収拾の大任を負って組閣した広田内閣は政治、経済、社会の全面的国策刷新の決意を示した政綱、政策を発表し、今やこれが実現に向って邁進しつ〃ある、即ち “ 尊皇討奸隊 ” の蹶起を楔機として、政治、経済機構、社会政策等には今後逐次改革刷新が行はるヽ、とは瞭であり、その推進力は、広田内閣成立の経緯に徴しても判然たる如く、軍部に原動力があることは云ふまでもない、從って皇軍内動向の眞諦を掴むことなくしては、現下の重大時局に対する認識及び今後に対する見透しも不可能であらう、のみならず未曽有の不祥事変たる “ 尊皇討奸隊 ” の蹶起を理解し、その眞相を把握することは勿論困難である、本篇の編纂は云ふまでもなく、そのための最も貴重な資料であることを信ずる。
肅軍に関する意見書  ”は非常時皇軍振 のさなかに発表されたもので、その大膽な筆調は挙世愕然たらしめ、然も軍部内を完膚なきまでに解剖せる最も貴重な文献である、頒布僅少にして入手困難なため一部五十円と評価され、事実それ以上の価格で売買されてゐたが、現在では数百金を投ずるも尚入手殆んど不可能な有様である。
“ 肅軍の経緯  ”は“ 肅軍に関する意見書  ”及び “ 第二肅軍に関する意見書  ”の対立的関係の側からの反駁的な文書で、軍部内の極一部にのみ頒布されたものである。
皇軍内の党同異閥に関する文書は、右三篇の外十数種も見受けられるが、それ等は極めて一方的で、然も軍に嬌激であると云ふに過ぎない。尤も昭和十年十月末刊行された山科敏著 “ 皇軍一体論  ”等があり、即時発禁となったが、本篇からは省畧することゝした、その代り、永田中將遭難当時陸軍省発表にかヽる相澤中佐の “ 巷説妄信に基く行為  ”云々の謂ゆる “ 巷説 ”とは、昭和十年七月ニ十五日頒布された、“ 軍閥、重臣閥の大逆不逞 ”の文書を意味するものだと云はれてゐるので、本篇中に輯採した。
尚ほ一言附け加へて置かねばならぬことは、 “ 肅軍に関する意見書  ” の執筆者村中孝次大尉及磯部浅一一等主計は、この故を以って昭和十年八月剥官されたのみならず、十一月位階返上を命ぜられたものである、然も今次の “ 尊皇討奸隊  ”蹶起事件に於ても重要な役割を演じて居る、更に同文書中附錄第五 “ 所謂十月事件に関する手記  ”の執筆者✕✕少佐とは、前陸軍省調査員現歩兵第三十九聯隊附田中少佐と云はれて居る、また “ 肅軍の経緯  ”は現中央部幕僚と取沙汰され、執筆者の氏名は詳かにするを得ない。
昨年十月上旬謂ゆる統制派より行動派(荒木、眞崎系)に対し、 “ 対外問題  ”に就ての協議が申込まれ、之は取も直さず統制派対行動派の妥協工作の前提として尠からず注目されたが、其後何等の変化ある事態の展開を見られず、遂に今次 “ 尊皇討奸隊  ”の蹶起事件となった、昨年七月十六日眞崎教育総監の後退を楔機に、総退場を予想された皇道派は、統制派総帥永田中將の遭難により林大將の陸相辞任、川島大將の登場によって情勢は急転し、皇道派は再進出を見つゝ今次の事変では、眞崎、荒木の予備役編入となって皇道派巨頭総退却の急転回を余儀なくされた、尤も統制派としても阿部、林も同様現役を退き巨頭たる南大將の予備役編入となった。陸相寺内大將を始め現役大將として残ってゐる西教育総監、植田関東軍司令官は統制派の系統ー本庄侍從武官長は皇道派系統ーを引くものであるが、 “ 尊皇討奸隊 ”蹶起事変、広田内閣の組閣経緯等によって著しく一体化しつゝあることが観取される、然も国策刷新の上に現はれつゝある一体化はまた既に発表された政綱政策の具体的内容にも及ぼすものであるが、今後の動向はそれだけに最も注目すべきものがある。
之れを要するに現下の情勢は文字通りの重大時局にあり、此の際国家の消長に心を致す同憂の士に、時局認識の資料として頒たんと思ひ、茲に本篇を編纂復製した。

  昭和十一年三月


『皇軍本然の任務に就て』 中堅青年將校團 (1933.8)

2021年01月23日 | 二・二六事件 2 怪文書

 

厳秘(日本將校の外閲覧を禁ず) 

   精神教育資料 
    皇軍本然の任務に就て    

         目次
   緒言
 一、日本軍人軍隊の任務使命
 二、軍人が任務達成の爲平素為すべき事項
 三、武力を行使すべき場合
 四、誰の命により武力を行使すべきか
 五、軍人の任務達成は總て攻撃手段によるを要す
 六、軍人の任務達成史批判
  イ、天皇皇室の御生命皇位大權の守護史批判
  ロ、國民防衞史批判
  ハ、國土國權の防護史批判
  ニ、世界皇化の神聖使命達成史批判
 七、現在の日本軍人は如何にして其本然の任務を果たすべきか  
  結論

   本資料は皇軍中堅將校の作業を蒐錄したるものにして、其内容多少推敲の餘地あるも、服務上参考とすべき點多大なりと認め之れを印刷に附し汎く頒布せしものなり。
      昭和八年八月

         緒言

 實行なき『忠節』は觀念の遊戯に過ぎず、名分なき『行動』は狂者の弄刄に等し。
 皇國三千年、軍人武士雲の如く輩出せしと雖、眞に軍人の任務使命を自覺し、行動と名分と伴ひしものは寥寥暁天の星の如く、皇室の藩屏、天皇の軍隊を以て自ら任じ、世々天皇の統率を受けし我皇軍も其使命を完全に果したるは、僅に神武建国の始、明治維新當時及其後の数十年間に過ぎずして、國史の大部分は単に權力者の私兵走狗たらずんば不逞大逆の徒として存在するのみにして、天皇の御生命も皇位大權も國民の安寧幸福も何等之を守護することなく、殊に況んや皇軍の神聖使命たる世界皇化の聖業翼賛の如きは完全に忘却し去られ、隧に夢想だも及ばざるに至り華かなる者は單に闘牛として登場し、然らざるものは禄を食み位を得るに汲々とし、只サラリーマンとして存在するに過ぎざりき、今や不逞大逆の徒は巷に滿ち厳重なる護衞を以てすら玉体を窺ふ者踵を接し一天万乗の大君は未曾有の危険に曝され給ひ、皇位大權の危機愈逼るも、軍人は只戦争の任に当るを以て全任務と誤認し天皇の御尊体皇位大權の守護は単に一部の警衛者警官等のみの任務責任なりとし、天皇を危険に曝し上りつゝ平然としてた戰鬪技術の練磨にのみ沒頭しつつあり、
 噫、上御一人すら守護し得ず、天皇を未曾有の危険に曝し上りて顧みざるが如くんば、幾百万の皇軍存在の意義果して何処にかあらん。
 是れ戰争方法の研究に急して、任務使命の研究を怠り武力行使法の教育に沒頭して之を行使すべき場合を明確に敎へざりし結果たらずんばあらず。
 抑任務使命の研究及教育は總ての研究、教育の先決問題にして、任務不明瞭にして之が遂行を誤らざらんとするは不可能なり、須く先づ千古不磨の皇軍任務を研究確立して之を現在に果すの道を明示せざるべからず。
 本然の任務使命を解せず、之を現代に果すの道を知らざる軍人武士は山田の案山子、門前の仁王のみ、安んぞ眞個の武人皇軍と云ふべけんや。
 宜しく崇高偉大なる皇國軍人の任務に眼醒むると共に眼前に山積せる未遂行の任務達成に蹶然猛進せざるべからず。

      一、日本軍人軍隊の任務使命

 『天壌無窮の皇軍を扶翼し世界に冠絶せる崇高偉大なる国體を擁護し、大業を恢弘し万民を安らかにす』是れ日本軍人軍隊の崇高偉大なる神聖使命なり、具体的に之を述ぶれば國家は天皇國民國土より成り、特殊國家たる日本は天皇即ち國民國土にして天皇を離れて日本國の存在なし、故に天皇守護は國家守護の最大任務なり。
 以下次を別けて述べん。
  一、天皇御生命又皇位大權の守護。
  二、國民の守護。
  三、國土國體の守護。
  四、人類救濟世界皇化の聖業翼賛。
 以上は最小限を示す、進んで天皇の御生命を安らけくし奉り、皇位益々搖ぎなく、大權益々伸張せられ、國内國外に益々皇威伸張、擴大せられ、國民の安寧幸福伸張し、國土國體益々海外に伸張し、皇道を世界に宣布し、世界人類を救濟するの大聖業を果さざるべからず。
 抑々我君臣の分は大地開闢以来、嚴として定まる所、神の國日本は万世一系の皇統と共に永遠に亡ふべからざるものにして、道徳を本として發達せる精神的文化たる皇道は、惱める世界人類を救濟すべき最高無二のものなり、この崇高なる國體を擁護し、文化を永遠に發達せしめて、大宏に布施するは國軍の崇高偉大なる使命なり。
 以上は日本國民全部の任務使命なれ共、軍人軍隊は專門的にこれに專任し、全責任を負ひ、殊に武力に訴ふるも、飽くまでこれを果すべく徹底せるを異なりとす。

      二、任務達成の爲平素爲すべき事項

一、軍人軍隊に其本然の任務使命又武力を行使すべき場合を明かに理解納得せしむ。
二、任務達成に充分なる精鋭軍隊の練成(精神的又物質的)。
三、天祖の理想達成を翼賛し國家を保護するに必要なる軍備を備へしむ。
四、國民全般の保護、皇威發揚的能力を充實せしむ、卽ち國民に大和民族の使命を自覺せしめ、任務を明かにして進むべき目標を示し、尊皇愛國心を熾烈ならしめ、精神及肉體力の強健を增進し富國強兵の基を築かしむ。
五、軍人任務使命を國民全般に充實理解納得せしむ。
  説明
一、古今東西の軍人軍隊皆其任務抽象不明確にして、具體的ならざるが爲、凡人の頭に明確に刻まれず、爲に世々天皇の統帥し給ひし皇軍も、何時しか權力者の走狗、或は上級軍人の私兵となり、三千年の大部は非皇軍として存在するに至れり、明治以後『皇威を發揚し國家を保護す』等の抽象的任務を附せられしと雖、尚甚だ不充分なり、任務を的確に理解せしむるは、敎育の先決問題にして、之を完全に理解せしめたる後、始めて學術の敎育卽ち戰爭の方法を敎へざるべからず。
二、從來此の事のみを以て軍人の任務と解せるもの多し。
三、軍に與へられたる兵力を以て、戰爭に從事し敗るると否とは我の關する所に非ず、責任に非ずと思惟するは無責任極るものなり、軍人は專門的智識を以て、必勝軍備量を備へしめざるべからず。
四、國民腐敗堕落し、日本國民の任務使命を忘却し、惰弱遊惰に耽り、國家を亡滅に導かんか、百萬の精鋭軍隊ありとも、國内よりの亡國に對しては、何等の價値もなかるべし、亦軍人は國民中より選ばるるものなり、國民腐敗堕落して、軍人のみ強かるべき理なし、故に國家守護の責任者として、國民を指導せざるべからず。
五、軍人の任務使命を明瞭に國民に理解せしめざれば、擧國一致國家を守護するを得す。
 
      三、武力を行使すべき場合

 右の任務達成の目的の爲、及軍人軍隊自身の自衞の為(正当防衞)に之を用ふ。

      四、誰の命令により武力を行使すべきか

 天皇の軍隊なるを以て、大元帥陛下の命によるを本則とす、然れども大命は常に下るものに非ず、神意は天の命なり、殊に兵は拙速を必要とするを以て、各級指揮官及個人は、全責任を以て任務達成の爲には、獨斷武力を行使し、積極的に任務を達成するの覺悟なかるべからず、要は任務なり、任務を基礎として獨斷決心すれば、決して服從と反するものに非ざるは戦鬪綱要の明示せる所なり。
   説明
  東郷元帥の日淸戦争に於ける獨斷開戦、關東軍の滿洲事變に於ける獨斷不逞誅戮、明治維新志士の獨斷不逞者討滅、大権擁護等、皆勅令によることなく、神意を圖り、神の御意圖を心として獨斷任務に基きて決心せられたるものにして、積極的に任務を解決し積極的に大元帥陛下に服從したるなり、吾等は神意の閃く所により任務の命する所に從ひ、大元帥陛下及上級指揮官の命令の有無に關せず、あらゆるものを犠牲として、任務を敢行するの覺悟なかるべからず。
  
      五、軍人の任務達成は攻撃を主眼とせざるべからず

 防禦は絶對的のものに非ず、攻撃は最後の勝利を博す、軍人の任務は絶對的なるものなり、故に武力行使卽ち直接行動さへも許されざるなり、苟くも武力を行使し、直接行動をなすまでに徹底せば、其方法も攻撃に徹底せざるべからず、而して絶對的にその任務を完うせざるべからず。
   説明
  攻撃の絶對必要なるは、戰鬪綱要の強調する所なり、而して獨り戰爭に必要のみならず、軍人の任務範圍に於ては、總て攻撃ならざるべからず、然るに軍隊は天皇が他より攻撃せられ、數回の危險に遭遇せられ、今尚危險に曝させ給ふに拘らず、敵の攻撃力を粉碎せんともせず、攻撃力發生の根源を絶やさんともせず、全く拱手傍觀、自己の任務外なりと言はんばかりの態度をなせり、攻撃せざるのみならず、防禦も完全にせざる狀態なり、防禦絶對的のものにあらず、攻撃は最後の勝利を博す、彈丸の命中すると否とは、單に公算の問題なり、如何に護衞を嚴重にし、鋼鐵の中に陛下を奉安し奉るも、敵攻撃力を撃滅せざる以上、永久天皇は安全ならず。
  百の防禦は一の攻撃に如ず、久しく軍人の愛國の至誠が非國民等の宣傳攻撃に壓倒せられ、祖國を危殆ならしめたるも、攻撃を知らざりしが爲なり、滿洲事變前後より始めて軍人が攻撃に轉じ、祖國の危機を興隆へ轉換するに至れり。

      六、軍人の任務達成史批判 〔以下、見出しのみ掲載〕

       イ、天皇皇室の御生命皇位大權の守護史批判
       ロ、國民防衞史批判
       ハ、國土國権の防護史批判
       ニ、世界皇化の神聖使命達成史批判

      七、現在の軍人は如何にして其本然の任務を果すべきか 

       結論

 之を要するに、總てが其本然の任務使命の研究を怠り、只その手段方法の末節にのみ沒頭しつつあるは、現代の最大弱點にして、すべての欠陷急機こゝより生ぜしなり。
 例へば、日本國民の進むべき天職使命理想を知れる日本人、又之を示したる爲政者幾人ありや、二千年間無自覺、無理想に漫然として經過し來りしため、日本人にして日本の使命を正して認識せず、目標無くして進むは、羅針盤なき航海なり、滿足なる發達を遂げる理由なし、若しあらば紛當なり、宜なる哉、日本の神聖使命が常に忘れられ日暮れて道甚だ遠しの感ありや、敎育者も亦然り、敎育手段方法の研究は進歩したるも敎育の目標を怠り、爲に國体觀念の養成徳育を怠り、今日の思想的危機頽廢を招來し、此等頽廢せる者が爲政者となり、實業家となるに及び、政黨、財閥、經濟、思想、國防の國難を招來するに至れり、軍人亦斯くの如く三千年間完全に軍人任務を理確したる者は殆んど稀なり。
 抑々軍人任務の研究はあらゆる軍事の研究の根本なるに拘らず、戰鬪及び敎育の手段方法は微に入り細を穿ち、殆んど研究し盡されしに拘らず、軍人の任務の研究せられたるもの殆んどなく爲に山積せる我等の任務、我等の權力(任務達成に從事し得る)を前にして小範囲の任務に自ら局限し、自己陶酔に滿足しつゝあり嗚呼興廢の十字街頭に立てる祖國は果して誰の手によりて救はれんとするか。
 國内國外に滿つる皇位大權の侵害者、國民の安寧幸福を食物とする國民賊奸臣及神国日本の國土國権を侵害せんとする白奴、黄奴を撃滅し國を完全に皇化すると共に、進んで特質文明の残骸に喘ぐ世界全人類を日本の精神文明により、融合統一し皇道に蘇生せしむるは一に我皇國軍人の雙肩に批せられたる神聖使命天職に非ずや、『國破れて忠臣現はれ、家貧にして孝子出づ』鎌足出でよ、楠公出でよ、松蔭出でよ、眞個の軍人蹶起せよ。
  出でゝ内外の國難を打開し、落日を卽墜に回し、神武の理想を現代に實現せよ、最早議論の時に非ず、只本然の任務を基礎とし完全なる天皇信仰に生き齋戒沐浴して神意を體し斷の一途あるのみ。  

   厳秘

 八月二十五日附中堅青年將校共編にかゝる(皇軍本然に就て)と題するパンフレット内容に対する各青年將校の率直なる意見卽ち左の如し。
 (イ) 上略、特に皇道發起の獨斷論はしかく簡單に行かぬと思ふ、卽個々具體的に獨斷の適否か決定せらるへし、固より大乗的見地より今や大義上何時改造の爲獨斷奮起するも少しの妨けなきも、しかも小乗的によく動機を吟味せされは名分立ち難し。
其の動機の一例を擧くれば、
 (1)萬々一、聖上再ひ兇漢の不敬に逢はせられた時機。
 (2)射撃演習の爲街上行進中偶々暴動事件あり之を制せむとせるに警官と衝突し終に獨斷警官を攻撃し乃至聯隊長軍旗を擁して警視廳を占領し要所を護衞するか如きは適當なる動機の一例。
 (3)政民聯合に依り政權を把握し政黨獨裁決行を表現したる時直に憤激の一隊を平然として行進せしめたるに、軍隊に對し重大なる侮辱を政黨員か加ふ卽ち立ちて之を占領す。
 要するに大義は己に立つも名分は其の動機の選定を愼重にするを要す、特に軍隊の動機はやはり中隊長聯隊長等實兵を統帥して責任ある獨斷力あるものを獲得すへく、特に軍旗なれは之か堂々たる進出を最も重大意義ありとす、而して十月事件失敗の工作なるを以て同一筆法を繰り返すは愚にして、之か爲めには在京の一個聯隊を徹底的に思想訓練し一人事を整理し置き待機するを必要とす。
 更に今後青年將校の指導精神とも称すへき方針一般要領等次の如し。

         記
  方針
 内外非常重大の形勢に鑑み擧國一致天壌無窮の皇運を扶翼し奉り擧國和榮宇内の皇化の根基を確立せん爲め皇軍一体速に皇道維新の必要を奏請し奉る。
  一般要領
 一、皇軍一體の強化
   之が爲め先つ中堅有爲の結束を堅くし、認識を深厚にして皇道維新斷行の公論を確立し浄化統制を普遍強化す。
 一、政治的運行の漸進
   之れか爲軍部政黨対立の形勢を激化し終に一部の騒擾を惹起せしむ。
 一、維新奏請
   皇軍一部の獨斷發動(暴徒にあらす)を端緒とし形勢重大化未然防止の爲め戒嚴令を敷き維新斷行の癌たる政黨財閥の妄動を制し以て聖斷を待ち奉る。
     皇紀二千五百九十三年八月

                    中堅青年將校團


「東京音楽学校 オーケストラ」 写真・絵葉書 (1905ー)

2021年01月20日 | 音楽学校、音楽教育家

   

 上左:「東京音楽學校管絃合奏」
     この写真は、明治三十八年二月三日發行の雑誌 『教育界』 第四卷 第四號 の口絵写真にあるもの。
     
 上中:「管絃合奏 Orchestra & Chorus of the Tokyo Academy of Music. 合資会社共益商社楽器店発行」
     この絵葉書には、「三九、四、二四 〔明治三十九年四月二十四日〕於 東京」との書き込みがある。
     なお、この写真については、『明治音楽史考』(遠藤宏、1948年)に以下の詳しい説明がある。

  明治三十八年頃の東京音楽学校管絃楽と合唱

 明治三十八年頃の東京音樂學校の管絃樂合唱の全員である。同團は當時敎官と卒業生、生徒からなり、宮内省樂部から管樂器、コントラバス、ティムパーニが参加してゐた。
 中央立ってゐるのがアウグスト・ユンケル教師、その右第一ヴァイオリン 幸田延安藤幸、その後賴母木こま、高折周一、その後チェロ岡野貞一、その左幸田(チェロ)、その左ヴァイオリン鎗田倉之助(尺八の名手)、その左鈴木保羅、その左前ヴァイオリン林テフ、安藤幸の右第二ヴァイオリン多久寅、山井基淸、多の後吉澤重夫、その後西村、山井の後永井、鳥居つな、その後東儀哲三郎(ファゴット)、高津環(クラリネット)、渡部康三〔コメントにより訂正。原文は「渡邊康三」〕(トラムペート)、原田潤(コントラバス右端)他の管樂器大部分は宮内省の伶人達。
 合唱右手前列中央吉川ヤマ、その右鈴木乃婦子。
 (右は川上淳氏學生時代の能憶による) 

 上右:「東京音楽学校 オーケストラ」「東京音楽学校、鳥居教授廿五週年記念、6th.10.、1907 〔明治四十年〕、園遊会」下は、この絵葉書の通信文である。
 Ⅰ.
 今日の園遊会雨天の為め室遊会となりました。しかし色々の余興や売店接待処などがあつて非常な愉快な一日を過ごしました。
 上図は学校の正面、下図は奏楽堂で管絃合奏、合唱の写真です。これは演奏台の方から聴者の居る方へ向つて写したのですからいつもとは位置が反対です。ピアノによりかゝつて居るのはユルケル師その右のヴァイオリンヲ持つて居る二人は幸田先生姉妹です左は姉さんで右は妹の安藤教授です。幸田先生はピアノ、安藤先生 

  

 上左の写真:ユンケル(左下の椅子の人物)、安藤幸子・幸田延子姉妹(ユンケルの右)、頼母木駒子(中央二列目右)が写っている。
 上右の写真:印刷物。指揮台の右に、ユンケル、左にウェルクマイステル・安藤幸子・幸田延子、さらに頼母木駒子などが写っている。

 なお、昭和二十七年四月二十日発行の『音楽の花ひらく頃 ーわが思い出の楽団ー』小松耕輔著 音楽文庫38 音楽之友社 の 音楽学校時代 に次の記述がある。

 アウグスト・ユンケル先生は明治三十二年四月から東京音楽学校教師として招聘された。私の入学した頃は同校の指揮者兼ヴァイオリン及び声楽の教師をしておられた。私は同氏から声楽の教授を受けた。先生の教室は、今の校長室であった。我々は部屋の真中にすえられたグランド・ピアノを、ぐるりと取巻いて授業をうけた。その頃の先生は仲々おしやれで、いつも立派な背広に、キチンとおリ目のついたズボンをはいていた。稽古がきびしくて、みんなは恐れをなしていたものである。よく葉巻をくわえたままで部屋にはいつて来て、その葉巻を窓の横木の上においた。時にはそれを先生が忘れていくことがある。すると生徒がそつと持出していつてしまう。
 その頃のオーケストラは極めて貧弱で人員も尠なかつた。管楽器の多くは雅楽部の人達が来て手伝つていた。その後海軍の委托生が来るようになつてから雅楽部の人達は来なくなつた。そのようなわけで、生徒は専攻以外に何か一つ管楽器を兼修しなければならなかつた。私もフルートを受持たされた。その時の先生は雅楽部の大村恕三郎氏であつた。
 そのうちオーケストラの陣容もおいおい整備し明治三十八年頃には相当の人員となり、本格的の演奏が出来るようになつた。しかしそれまでにするのに、先生はどれほど苦心されたか知れない。我が国に管弦楽の土台が出来たのは全くユンケル先生のお陰である。
 先生のオーケストラの稽古は全く猛烈だつた。間違いでもしようもんなら忽ち雷がおちる。大きな声でしかりとばす、指揮棒をたたきつける。そして汗をふきふき次の稽古にかかるのであつた。口は相当悪い方で、「豚の頭」だとか、「つんぼ」だとか言つてどなりつける。しかしどなりつけられながら皆は感謝し心服し、そして彼を愛していた。少しのかざりけもない、正直な良い先生であつた。先生は一旦ドイツに帰つたが再び来朝し、七十余歳で東京で亡くなつた。先生は晩年、日本の土となることを望んでいられたようであつた。 

     

 左:「PRPF.A.JUNKER,」 中:「T.A.M.Orchestra under Prof.Junker.」 右:「Farewell then, wife and child at home!」
   これらの写真は、いずれも「送別演奏会記念 11.30.1912 〔大正元年十一月三十日〕」とある絵葉書のものである。

 なお、前述の『音楽の花ひらく頃 ーわが思い出の楽団ー』小松耕輔著 の 大正元年 に次の記述がある。

 ユンケル先生は十三年間の東京音楽学校教師を辞して帰国することになつた。そしてその送別の演奏会が十一月三十日と十二月一日の両日同校奏楽堂で催された。曲目のおもなものは、管弦楽「フェードル」の序曲(マスネー)ガーデの第四交響曲、ブルックの「美くしきエレン」合唱附独唱は園部ふさと船橋榮吉が歌つた。その他ペッオードは短イ調独奏曲(グリーグ)、安藤幸子はシュポーアの第九協奏曲を演奏した。
 又十二月十一日には同じくユンケル氏の送別音楽会が帝国劇場で催されて盛会であつた。

  

 「東京音楽学校学友会合唱団(グルック二百年祭記念)」 大正三年 〔一九一四年〕 七月四日

  上の写真も絵葉書のものである。

 なお、前述の『音楽の花ひらく頃 ーわが思い出の楽団ー』小松耕輔著 の 大正三年 に次の記述がある。

 七月四日に東京音楽学校学友会の主催でグルック二百年記念音楽会が催され、グルックの「オルフォイス」その他の曲が演奏され、水野康孝、花島秀子、渡邊某、柴田知常、高折宮次、山下テイの諸君が出演した。これからそろそろ以上の諸君が楽壇に活躍するようになるのである。



 左:「東京音楽学校合唱団」     三木楽器店 大阪市東区久宝寺町四丁目
 右:「東京音楽学校オーケストラ団」 三木楽器店 大阪市東区久宝寺町四丁目

 上の写真二枚も、絵葉書のものである。

 

 東京音楽学校奏楽堂(其一) BAND-STAND IN THE TOKYO MUSIC SCHOOL.
 この写真は、年代不明の絵葉書のものである。


「長岡名物大煙火」「長生橋河畔の大煙火」 (絵葉書)

2021年01月18日 | 煙火 目錄、絵葉書他

   

・長岡名物大煙火(一尺玉早打ノ壯覽)

・長岡名物大煙火
・長岡名物大煙火
  (三尺玉) 打揚筒 重量一千貫目 長サ十二尺 厚サ八分
・長岡名物大煙火
  (三尺玉) 重量九十八貫目 純和紙二萬二千枚 米糊一俵 火藥五十五貫目
   製造延人員二百五十人 打揚火藥四貫八百目 打揚高サ二千六百尺 開キ廣サ四千八百尺

    

見よ見よ空に水に
 彩花繚乱
  (長岡市長生橋畔大煙火美觀)
     發行所 長岡三柏會

・長生橋河畔の大煙火
・長生橋河畔の大煙火
・長生橋河畔の大煙火
・長生橋河畔の大煙火

 

・長岡長生橋大煙火
・長岡長生橋大煙火


「ポールペリオの新疆探撿略記」 長城生 2 (1911.8)

2021年01月16日 | 清国日本人 燕塵、津門

 一行は暮れ行く歳を送らん爲庫車より烏魯木齊に向へり、烏魯木斉は支那土耳斯坦(新疆省)の主府なり、一行はこヽにて地方官吏と尤も欵切なる交際を結び、且つ有名なる流罪者にして、故光緒皇帝の從兄弟、一九〇〇年團匪の大首領端親王の弟たる瀾公とも接洽を得たり、同しく拳匪亂に與したる爲爵位を削られ、永久の追放に處せられたる瀾公は寫眞道樂に其身を委ね、纔かに罪所の閒日月を消しつヽあり
 庫車に次きて久駐し、且つ尤も重要なりしは即ち燉皇の小村落にして、甘肅省の極東境に在るの地なり、是れ實に一行が佛國出發以來目的とせる處にして、最大の獲得を發見せるも亦た此地に外ならず、予等は支那書又欧洲旅行家の所説によりて、豫め庫車城外の千佛洞に類似し、而かも未だ曾て回敎の殘害を蒙らざる千佛洞の存在するは、即ち燉皇の地なることを知り居り、實際に該村落より約十五キロメートルの距離に於て、五百の洞窟を發見することを得たり、其中多數は繪畵を以て掩はれ、或は單に方二メートルの壁龕より成るあり、或は各邊十五メートル以上の大に達するあり、何人も從來是等の浮屠窟につきまじめなる研究を企てたることなきも、其中に蓋藏せられたる秘什珍寶は實に無量數なり、但たその収藏に殘缼あるは痛惜に餘りあり、予等は多少の實驗を積みて裝飾の各時代を分別するを得るに至り、幾部分後人の加へたる不調和なる修復を除くの外、略ぼ十一世紀の前四分の一より後のものならざるを知り、更に同一墻壁を積み上げたる瓦磚の承接次第に依り、各々その樣式及年次を區別し、是に由りて就中その最古なる製作は、紀元五百年頃のものたることを明らかにせり、殊に發見物中の一佛像は其樣式極めて平常の作たりしも、之に附屬せる二箇の小像は印度及支那の一般形式より遙かに懸絶せるものなりき、凡そこの類の繪畵及傳彩せる佛像は、支那に於ける複彩的製作物中最古の部に數ふべきものなると共に、鄙見を以てすれば同時に千佛洞美術の最優時代を代表せるものなりとす、予等は別に魏朝に屬する美術を發見したるが、這は五、六世紀頃北方支那に盛行せるものなるも、近く三四年前までは全く世に知られず、今回燉皇發見の繪畵及壁飾によりて始めて之を明かにするを得たるものにして、彼のシヤヴアン氏が極めて最近に、山西及河南地方に於て研究し得たる彫刻物と同樣なるものに屬す、尚ほ此の洞中の繪畵にして、七世紀及九世紀に屬するものあり、要するに凡ての裝飾的結果は、いたく偉麗の觀あるが中に、最も莊嚴を極めし靈壇と稱すべきは、蓋し九、十世紀に屬するものに在らん歟
 但し當時と雖も猶ほ其の技術は、一種の神韻を少ぎ居たるものヽ如く、技工の手は漸く笨重に、輪郭は鋪張過當にして、面貌は肥大となれるを見る、蓋し唐末に及びて文明の退歩が技術方面に於て其跡を示めせしは、猶ほその政治方面に於けるに同しく、即ち一工藝製作の上猶ほ能く之を徴するに足るものあり、十一世紀以後に及び、千佛洞は巡禮者の來り拜する所となりしも、神靈の呵護之をして然らしめたるによるか、靈塲修繕の名に籍りて之を敗壊するに至りしは、遙かに下りて十八世紀の末に於てす、且つその所謂修復を加へられたる部分も、既に最古のもにあらず、又た最美のものにあらざるは何等の幸ひぞや
 左あれ一行の使命は、固と此の修繕に負ふこと少からざれば、予は妄りに無益の言を之れに加ふるを喜ばず、抑も燉皇の一道士が、偶然にも古文書及繪畵に充ちたる壁龕を發見せしは、實に一九〇〇年一佛窟の修理を加へんとしたる際に在り、予は此の發見のことを烏魯木齊に於て耳にせる所あり、現に瀾公はその龕中より得たる一卷を予に示めされたるが、是れ公が遣流の途上甘肅に於て贈與を受けたるものなりといふ、かかれば予は只管に如何なる秘寶をこヽに見出たし得べきやとの念に軀られ、燉皇に着するや直ちに右の道士を訪ね、商議の末洞中に入るの許可を得たるに、人頭より稍や高き二三の棚上に幾束の卷軸の堆積せられ在るを見、把りて之を檢せしに是等の古書は収藏の最後の年代、正に十一世紀末に當れるを審かにし得たり、一見の下早く既に支那語西藏語サンスクリット、又は亞細亞高原未知の方言を用ゐて書せられたる古籍を發見し得たる予が、更に進んで所藏の全部を獲得せんことを夢想したるは蓋し無理ならず、左れど道士は居民の恚りを恐れて、固より之を許るすべくもあらじ、幸ひに彼れは寺塔を營み佛窟を修する爲に、いたく金錢の必要を感ぜし折なりしかば、やがて予に告ぐるに、所藏中より予の撰定する所のものを、自由に持ち去り得べきことを以てしたりければ、予今はいかでか猶豫すべき、直ちに身を洞中に進めて引續き二十五日間激度の勉勞に由り、洞中一萬五千の文書は委く予の手を經るに至り、是に於て既に知れ渡りたる佛教の經卷は之を差置き、婆羅門及畏兀兒 ウヰーゲル ( 回紇)語にて書したるものヽ内部、及西藏語のもの大部分と、加ふるに支那語の大部分とを併せて之を携へ歸ることヽしたり、凡そ是等の古文書は其の文書及年代よりして、吾人に與ふるに無上の興味を以てするに足るものなり、予はかくの如く先づ洞中藏書の三分の一、即ち五六千卷の古書を手に入れ得たることヽなり、其中重要なる佛教寫經の外、已知の道敎寫本及歴史地理文學哲學に關する最古の手寫本、其他景敎 子ストリアン の寫經一部摩尼敎 マニズム に屬する零本より、曆書古統計會計冊官私の記錄書等に至るまで、實に紀元一千年頃に於ける支那日常生活を構成せる各種のものを包括し、凡そ是れ皆な支那大帝国に古來の官文庫 アーカイヴス なきが爲に、已むを得ず吾人をして今日までその研究を等閑に附せしめたるものなり、尚ほ絹地の繪畵にして、ルーヴル博物館に現存せるものヽ何れよりも古く、同時に支那に於て知られたるものの内にても、其の古き點に於て第一に算すべきもの、並びに十世紀若くば更に溯りて八世紀に屬する木板彫刻物の如きは、特に此に附記し置くの必要あるものなり
 燉皇の地が、徃來の孔道より四日程を要し、千佛洞は更に燉皇より二時間を要するの事實は、流石博識好古の支那學者をして、極東の史上絶えて其比を覩ざる偉大なる古籍の發見に對し、何等の疑を起さずして今日に至らしめたる所以なるへき歟    (終り)


「ポールペリオの新疆探撿略記」 長城生 1 (1911.8)

2021年01月16日 | 清国日本人 燕塵、津門

 

 下の文は、明治四十四年八月三十一日發行の雑誌 『燕塵』 第四年 第八號 (第四十四號) 北京 燕塵會 に掲載されたものである。

ポールペリオの新疆探撿略記 

 支那新疆地方の沙中に堙沒せる史蹟の探撿に就ては、數年以來歐洲學者の注意を攢め、數次の探撿旅行により至大の發見を遂げ、地下千年の秘奥を發し、東西交通の史上に光明を投したるその功、誠に韙とするに堪へたるものあり、予は幸ひに英國滯在中獨逸のグリュンヱーデル氏、瑞典のスウヱンヘツヂン氏、英國のスタイン氏等、各其探撿の結果につき與へられたる講演を聽くの機を得、私かに以て至幸としたり、獨りポールペリオ氏最後の探撿、殊に著大なる燉皇發掘の結果に關しては、氏の歸歐は會ま予が東歸と前後し、再び孤陋寡聞の昔に回へれる予は、今に至るまでその詳細を知るを得ざるを遺憾とし、但た昨年淸國學部の拾集したる燉皇古籍研究の爲來京せられたる、京大教授諸氏に依りてその一端を聞き得たることあるのみ、然るに本年八月十五十六日の北京デーリーニユースに、偶ま「亞細亞高原に於て」と題し、ペリオ氏が親しく佛國一繪入雑誌に寄稿したる探撿旅行記原文の英譯を轉載したるを見、少からぬ興味を感したり、固より繪入雑誌の寄稿なるを以て、其所説は大躰の紀行に止まり、發見物そのものにつき詳細の批評を下すに及ばざれば、專門學者に取りては大なる利益なきものなるべきも、予と同しき程度の素人の爲には興味偏へに淺からざるものあり、殊に是等の探撿旅行に對し、我が日本の學界がインタレストを取りたると同じく、吾が燕塵雑誌も亦た曾て探撿の歸途、北京に立寄りたるペリオ氏の發見につき記載せる所ありたれば、讀者の多くはその興味を分ち有するものなるを疑はず、由りて長夏無事の日に乗じ、試みに之を重譯して該誌に投ずることヽしたるが、但だその時候後れの誚りは予が北京デーリーニユースと共に甘受する所にして、「燕塵」編者の與かり知る所にあらざるなり        長城生
 支那土耳基斯坦が、地球最高峯中の諸山に圍まれたる四塞の盆地たることは、地圖を一瞥して直ちに之を知らるべく、沙漠を以て國を成せるその地は、幾多肥沃のオーシス處々に散在す、面積は佛國に二倍するも、その保有する人口は極多なほ二百萬を越えず、この沒却されたる世界の一隅は、從來僅かに純乎たる地學上の探撿家シユラヂントウァイツ、プレヴオルキス、ポエトソヴスの徒をして、其力を致さしめたるに過ぎず、彼等はここに土耳古語を操れる人民を發見せり、是等の人民は溫和にして接し易く、柔弱にして婦女子の風あり、蓋しマホメット敎の力と雖も、猶ほ之を化して狂言悍驇の民となすこと能はざりしものヽ如し、爾來歷史家考古學者は別段の思慮なく、この地を通過しつヽありしに、偶然の發見は大なる希望を此の地方より發せしむるに至れり、即ち一八八九年英國の陸軍大尉ボワー、佛敎より出てたる醫學上の古文書にして、寫すにサンスクリットを以てしたるものを、庫車より齎らし歸りたること是れなり、抑も佛敎は印度に起りて、今やその地に亡び、サンスクリット佛敎經典の大部は隨つて泯滅に歸し、但だその敎理は西藏人支那人の傳述に依り、幸ひに今に存するあるのみ、然るに今や歐洲學者は歳月の消磨と破壊的回敎の侵入とを以てせず、印度に亡佚したる原寫經の幾部分なりとも、之れを土耳基斯坦の沙中より發見し得んことの望みを抱くに至れり、蓋し是等の經文は我が紀元一千年の當時に於ては、土耳基斯坦に於て虔信誦習せられ居たるものなるを以てなり、其後グルームギシカイロ、及スウヱンヘッヂンの如き、數々該地方の廢市より貴重なる發見の證示に關する報告を賚らせり、その所謂廢市とは其實古昔佛敎の靈塲たりしものなり、降りて一九九七年以來英獨二国人を始め、日本人に至るまで各々探撿旅行を企て、湮沒せる地方の遺跡を發見せんことを力めて成功する所あり、予の探撿旅行を始むるに至りたるも、亦た全くこの目的を以てしたるに外ならず
 一行はモスコー、オレンブルグ、及タシケンドを後にし、アンヂシヤンに出て、それより二年の後靑嶋に達せるまで、再び見ることなかりし鐡道列車を辞したり、右の行程は驛馬により駛走せば、もと六ヶ月を出でざる筈なれ共、一行が古物に對する探索は幾度となき方向の變換に加ふるに、おのづから到る處の淹留を必要としたるにより、かくは長日月を費したるなり、予等は馬背にて進行し、カシュガルに達するに及びて旅具一切を馬車に附し、隊商の行路に随ひ進むを得るに至れり、一行は何等の危險に遭遇したることなし、尤も肉類は時々酸敗し飲水も惡臭を放ち、或は暗黒色を帶びたることあれ共、何人も饑渇の爲に死に瀕するには至らず、強度の低溫は馬匹の爲には甚しき苦痛なりしも予等は毛皮の力によりて三十五度の寒氣を防ぐに足りたり、穏和なる土耳基斯坦の人民は一行を歡迎し、支那官吏も予等に與ふるに十分の助力を以てしたり
 噶什噶爾に於て、予は一たひ下手の地點を選定するに困却したり、庫車は勿論佛國出發以前より多くの望みを繋ぎたる地なれ共、尚ほこれより遙かなる東方に在り、殊に何より不利益なりしは、何人か我れに先んじて該地に赴きたりと聞きたることなりき、兎角して一ヶ月餘を噶什噶爾の探撿に費ししも、何等感服すべき結果をも得ずして已み、庫車に向つて出發せしが、その能くこのオーシスに達せるまでには相當の時日を要したり、抑も噶什噶爾庫車兩地の中間多木什克の小村落に近く廢趾の一簇あり、是れスウヱンヘッヂン氏が十二年以前に於て、あまり古るからぬ回敎の故蹟なりと斷せしものにして、其他の旅行家もこヽを過ぎて、ヘッヂン氏の假定説に對し、別段の變更を加ふるところなかりしが、一行は予も亦た試みに之を捜査し得んが爲に、此に止まることヽなり、馬より下りて足を地上に着くるや、予は全く器械的に乗馬用の樹條を以て、地面を爬起せるに圖らずも一小偶像を發見し、而かも明かに佛教的特徴を帶ぶるを知るに足るものなりしかば、予の驚喜は果して如何なりしぞ、茲に記臆の要あるは、回敎殊にその土耳基斯坦地方に行はれたる、ソンナイト派に於ては人身の模像を嚴禁したる一事なり、左ればこの些少なる天與の賜は、その証左と共に結局前述假定的回敎の廢趾は、其實佛敎寺院の遺跡なるに、我が同志の何人も我れに先立ちて其手を下したるものなく、全く一行をして第一に之が發見をなさしめん爲に、備へられたるものなることを明かにせるものなりき、該寺院の發掘は三十人の人夫を使役して六週間を費し、其結果古寫本に就きては何等の得る所なかりしも、數多の木刻及古錢と幾箇の陶器と、其内一は精緻なる水壺に、加ふるに殊に幾多の小佛像と、人身大なるガンダリヱン頭部中の多くは精巧なる彫刻を施したるもの等を發見し得たり、是等の發見物は苟くも多少の經驗を有せる具眼者には、一見直ちに古希臘風 ヘレニツグ の感化其中に存するに驚かしむるに足るものなり、而かも是れ決して膚淺なる誣妄の言にあらず、抑も亞歷山多大王の死後、希臘の王統はバクトリア地方パミール高原の東に連なる地方に散在して、その衰祚を保ちたりしに、我が紀元少許以前に方り、是等の君主は亞細亞高原より下り來りたる、匈奴 ハンス 及突厥 タークス の同族に入寇せられて、その亡ぼす所となりたるが、彼等戎狄は却てその戦勝攻取せる文明の殘勢を擁護し、多少自ら爲に希臘化さるヽに至り、進んで南方印度に向ふに及び、印度河上流に於て更に佛敎に遭遇し、終に復た其敎を奉ずるに至れり、かくて印度佛敎とバクトリア希臘風との觸着に依りて、ガンダリヱン即チ希臘佛敎的 グリーコプヂスティック とも謂ふべき工藝の特種形式を産するに至りたるなり、尋いで我が紀元第一世紀に當り、佛敎は印度以外弘敎の大事業を開始し、延きて東方亞細亞の極偶に達せしむるに至りたるが、尚ほ之を約言すれば、佛敎は古昔のガンダハラ、バクトリア、カラコーラム、及パミール高原に傳播して支那土耳基斯坦を包括し、工藝は宗敎に伴うて進み、かくて瑣尾流離せる希臘文明の流風餘韻をして、一綫の微猶ほ能く遠く支那或は更に遼絶せる日本の地に加ふるに至らしめたるもの、職として佛敎の惠澤に是れ由る、吾人が多木什克の一彫像に依りて、地中海の文化が極東の文化と觸接抱合するに至りたる經路を指點するを得るは蓋亦た是が爲なり
 多木什克より庫車に達せしは一九〇八年の一月初旬なりき、庫車の城外山麓に幾多貴重なる人工洞窟の點在するあり、沙丘沙嵓又は沖積層等を穿ちて之を營みたるものにして、一千年前回敎の到來以前に於ては、佛敎寺院によりて管せられたるものなり、彼の千佛洞の處在地は即ち此處にして、洞の墻壁は掩ふに壁畫を以てし何れも七世紀より九世紀に亘るものなり、是等の洞窟に於て ヒンヅー、イレーニアン(古波斯)、希臘及支那各文化の滙流會同せる結果を、その繪畵につき覃究するは最も興味多し、幸ひに是等の繪畵は、その歳月の消磨によりて損蝕せられたること、彼の征戰の餘威に乗せる回敎徒の加へたる、古昔ヴアンダル人が羅馬文藝に對せるに等しき兇殘の所為の如く甚しきに至らず、但たこの千佛洞發掘の業は、既に先着の獨逸人の手によりて成されたるを以て、一行は單にその寫眞を撮影するに止め、同時に千佛洞以外の古佛寺を探撿し、數月間その發掘に從事し、多くの木刻陶器古錢等を發見し、殊に多木什克に於て得ること能はざりし古書を發見したり、是等の古書は長く大氣中に存したる爲損敗を來たし、中には塵土に化したるもの多く、且つその大部分は書するに婆羅門字を以てしたるも、其文は中央亞細亞の方言を用ゐ、今や既に廢語に歸したるものに屬するを以て、之が譯解は至難の業たるを免れず


「敦煌石室中の典籍」 救堂生 (1909.11)

2021年01月13日 | 清国日本人 燕塵、津門

      

敦煌石室中の典籍
            救堂生

 佛國西東方考古學校(在東京河内 トンキンハノイ )教授 Paul  Pelliot  (伯希和)氏が、甘肅省敦煌縣石室中に藏せられて居つた經卷古文書類を得て、本國への歸途北京に滯在して居られるとのことを聞いたので、早速氏を八寶胡同の假寓に訪うて刺を通じた、實は氏とは未知の間柄であるから會つて呉れるかどうかと思つたが、「請」とボーイが案内をするから客廳へ通つた、氏は年齒三十位の青年紳士で如何にも學者的氣象の有る人である、此方が西洋語が出來ぬから氏は流暢なる北京語で會話を始められた、語つて見ると同氏の友人シヤバンヌ氏メートル氏等を通じて己に自分の姓名職業を知つて居られたから非常に好都合で、遠慮なく語ることが出來た。
 氏は淸國西陲の地理古蹟等を研究の目的で一昨年本國を出發し、露領中央亞細亞を經て新彊省に入り、庫車に八個月、烏魯木齊に二個月、吐魯番に數週間滯在して研究を續けられて居る中、烏魯木齊で長將軍に會つて敦煌石室の話を聞き、巴里坤哈密を經て安西に出て知州の某から一卷の古寫本を贈られたのが、どうしても唐寫本に違ひない、で去年の冬敦煌縣へ出掛け三個月餘滯在して、同地三危山下石室の中に藏して居つた寫經其他のものを入手せられたのである、
 大部分は已に本國へ送つたと言つて、手荷物中の數十品を示された、盡く驚心駭目の貴重品で、唐寫本、唐字經、唐刻及五代刻經文、唐拓本等のみで、紙質は黄麻白麻の楮紙の三種を出ない樣に見受た、老子化胡經等は天平經中の最良なるものに劣らない、尚書顧命殘頁は文字雄勁、適確として唐人の書である、西夏兵革の時に石室を封じたまゝで近年に到つたものであるから、在室のものは不殘五代以上のもので、宋以下のものは一つもない、殊に西夏文字のあるものは半片もないのが確な證據で、學術上大した發見であると思つた、自分は内容を役に立てる知識は皆無であるが、趣味眼から見ても物々傍を去ることの出來ぬ珍品のみである、氏が奇籍を齎したと云ふので北京の士大夫中學者は勿論、古典籍に趣味を持て居る人達は續々氏の寓を訪問し、將來の珍品を見て誰も驚かぬ者はない、自分の手控によつて記錄しようと思つたが、我々と前後して見た人の中で、羅叔言氏が書き留められたものがある、其方が我々の見るよりも確であるから左に之を錄することにした、
    敦煌石室書目及發見之原始
敦煌石室、在敦煌縣東南三十里、三危山之下、前臨小川、有三寺、曰上寺、中寺、上寺、下中兩寺皆道觀、下寺乃僧刹也、寺之左近有石室數百、唐人謂之莫高窟、俗名千佛洞、各洞中皆有壁畵、上截爲佛象下截爲造象人畵象、並記其人之姓氏籍里、惟一洞藏書滿中、乃西夏兵革時所藏、壁外加以象飾、故不能知爲藏書之所、逮光緒庚子、掃治石洞、鑿壁而書見、由是稍稍流落人間、丁未冰、法人伯君希和、游歷迪化、謁長將軍、將軍曾藏石室書一卷、語其事、繼謁瀾公、曁安西州牧某、各贈以一卷、伯君審知爲唐寫本、亟詣其處、購得十餘箱、然僅居石室中全書三分之一、所有四部各書、及經卷之精好者、則均嚢括而去矣、大半寄囘法國、尚餘數束未攜歸、昨往觀、將所見及已寄囘之書目、略記于左
 顔師古玄言新記明老部五卷
  案舊唐書經籍志、有玄言新記道徳二卷王弼注、新志又有王肅注二卷、隋志有梁澡玄言新記明莊部二卷、而此書則諸書均不之及、
 二十五等人圖
  此書名、非圖畵、
 太公家敎
 辨才家敎
 孔子修問書一冊
 開蒙要訓
 天地開闢以來帝王記一卷
 百行草一卷
 何晏論語集解存卷一卷二卷六
 毛詩卷九✕柏舟故訓傳 鄭注
 范寗穀梁集解存閔公至莊公
 孟説秦語中晋二
 莊子第一卷
 文子第五卷
 郁知言記室修要
  案郁疑郭之訛、日本舊鈔卷子本五行大義、背記所引古韻書、有郭知言其人、
 文選李善注存卷二十五卷二十七
 冥報記
 新集文詞九經鈔
 新集文詞敎林
 秦人吟
 燕子賦
 李若立略出籝金
 老子道徳經義疏第五卷
 唐均 切均小板五代刻本均殘
 唐禮圖數頁
 輔篇義記存第二巻
 新集吉凶書儀二卷
 李荃閫外春秋存卷一卷四卷五
  案此書宋志著錄
 唐律一卷
  伯君言、無疏義、彷彿記有新增之例、據所云、疑即顯徳刑統之類也
 故陳子昴集存卷八至卷十
  據伯君言、十巻本係後來分析成卷、非原書之舊、此雖二卷半、然尚多於後來之十卷本、
    以上各書、均已送回法國、
 沙州志四卷乃一卷斷爲四非四卷也
  據伯君言、中有五代地名、然其書法唐人筆也、端制軍已影照、
 慧超五天竺國記一卷
 吐魯番地志殘卷
 末尼經一卷
  首尾斷爛、然至精、末尼敎經、今一字不存、此雖斷爛、仍至寶也、 
 景敎三威蒙度讚一卷
 唐繡佛説齋法淸浄經一卷
  計四十九行、行十七字、藍絹本、先墨書經文、後加繡以白絨爲之、毎行有墨線界格、
 尚書顧命殘頁
  僅尺許、然異文不少、此頁以精經帙後、
 寺歷數卷
  中間雜記施主功徳獻納、及傳記、皆表裏有字、茲記一二如下、
  一 大潙警策
  一 大番故敦煌郡莫高窟處士公修功徳言
  一 曹仁貴獻玉羚羊角磠砂表
     三種在一卷上 中有沙州□印
  一 大唐前河西節度使押衙銀靑光祿大夫檢校太子賓客甘州刪丹鎭遏充涼州西界游奕防採營都知兵馬使兼殿中侍御史唐公通信✕眞讚 僧悟眞撰
    大唐中和元年
  又有文徳二年、中和三年、二✕眞讚、其姓名忘之、
   右另一卷
  一 □□□□世碑 竇夫子撰
  一 隴世李家先代碑記 楊授述
  一 翟家碑 唐僧統述
     右一卷
    又一卷、記本寺収紙發紙數目、皆繋年月日
 受罪懺悔文一卷
  漢文及囘鶻文、両面對書、此外佛經漢囘對書者、有十餘紙、單囘文者有百餘卷、
  又有梵漢對譯、及單梵文者、
 陀羅尼經
 (一)寫本 其形如旋璣圖、中爲佛象、象旁四周皆咒語、欄外皆經文、倶顚倒囘環書之、又有漢梵對譯者十餘紙
   又刻本 共十餘紙
 (一)一切如來大尊勝陀羅尼加句靈驗本二朝灌頂 國師三藏大廣智不空譯、毎行十五六字不等、其字似初唐人寫經、又國師國字、上空一格、其爲唐刻無疑
 (二)大隨永陀羅尼 經末有□楊法彫印施六字、
 (三)大佛頂陀羅尼 經末有開寶四年十月廿八日記十字、
 (四)大隨永陀羅尼 經上面、左有施主李知順一行、右有王文沼彫板一行、經末有太平興國五年六月彫板畢手記十三字、
      此外無年號者甚多
 彫印佛象
  几十餘紙、大半曹元忠忻造、茲錄記文一紙、
   弟子歸義軍節度瓜沙等州觀察處置管内管田押蕃落等使特進檢校太傅譙郡開國侯曹元忠彫此印板奉爲城隍泰闔郡康寧東西之道路開通南北之兇渠順化勵疾消散刁斗藏音隨甞見聞倶□福佑于時時大晋開通四年丁未歳七月十五日記 匠人雷廷美
    共十三行、上畵下記、
 唐拓碑三種
 (一)唐太宗御製溫泉銘 剪表本、前半殘缼、後半完好、紙尾有墨書一行、曰永徽四年八月圍谷府果毅下缼
    案此碑、已載趙氏金石錄、寶刻類編著錄、作溫泉碑、
 (二)化度寺邕禪師碑邕僅存剪裝一紙、字畫如隨蘇孝慈碑與流傅宋拓逈異、
 (三)柳公權楷書金剛經 石刻本、裝成卷子計十二石、毎行十一字、末署長慶四年四月六日翰林侍書學士朝議郎行右補闕上輕車都尉賜緋魚袋柳公權爲右街僧錄準公書強演邵建和刻字、案寳刻類編、載柳公權金剛經、會昌四年書、年月不同、不知即此否、
      以上諸書皆目見
此外有畫板一、畵範一、經板一、均爲罕觀之品、畫板爲印佛象之版、長方形上安木柄、如宋以來之官印、然畫範則以厚紙爲之、上有佛象、不作鈎廓、而當鈎廓處、用細針密刺、以代筆墨、推其意、蓋作畫時、以此紙加于欲畫之紙上、而塗之以粉、則粉必透針孔、而著于下層之紙、便有細點、更就粉點部位作綫、則成佛象矣、經板狀如□    、兩面共書心經、而文未完、左行墨書、上加以油漆、色白而澤、頗似今日之熟漆、室中又有布畫佛象、紙畫象、及虎珀珠、檀香等物、
又寫經中、有絹本三卷、絹質極細、乃六朝人書、
又有經帙、以竹爲之、與日本西京博物館所藏相同、以竹絲爲之、又有以席草爲之者、蓋古人合數卷爲一帙、此即其帙也、帙之裏面、以舊書糊之、有唐人公據一紙、上有印信、其文不及備錄、
伯君言、渠所得有地契無數、皆有唐年月、又有唐歷書二三冊、皆有年號、惜已寄囘國不獲見也、
伯君言、諸窟壁畵、有繪五臺山圖者、記該山梵刹二百餘、皆記其名、已影印、         羅振玉記録

專門家なる羅氏の記錄に對して彼是言ふ點はないが、其中で畵範は同説の如き用途もあらうが、石へ佛象を刻する時に使つたものだらうとの疑を抱くので、針を刺した痕のあるのは石へ紙を押付けて置いて錐の樣なもので石へ當りを付けて彫刻したものだらうと思ふ、畫板は柄の付いた大形の印判で是を見ても我邦百萬塔中の陀羅尼經の如きも、恐くは鑄物印判の大形のものであつたらうと想像される、羅氏記錄以外に蠟紙に記した印度文字の經文、西漢金山國皇帝勅文書の斷片等を見た、更に石室中に在つたもので筆が一本ある、毛は硬きものらしく穂先は非常に短く軸も現代の筆に比して短い、我邦の天下筆と號するものに似寄つて居る、
北京讀書人の主催で九月四日グランドホテルに同氏の歡迎會が開かれた、當日の出席者は寶侍郎、劉少卿、徐祭酒、柯經科監督、惲學士、江參事、呉寅臣、蔣伯斧、董比部其他十數名で、一時の名流盡く集まる底の盛會であつたが、羅叔言氏が微恙の爲め欠席せられたのは遺憾であつた、惲學士は立ちて伯希和氏に盃を擧げ、斯學に熱心なる伯氏に天の嘉惠如斯厚きを羨奘し、伯氏は謙遜の辭を以て自己は國家によりて研究の爲派遣せられ只偶然寶物を獲得したる迄の事にして、現品は佛國政府の有に歸すと雖も、學問は世界共通たるべきもの故、撮影謄寫等の希望には努めて應ずべしと答へられた、かくて氏は北京の士大夫と應酬して、九月十一日夕前門發の列車で西比利亞經由歸國の途に就いた、定めて向後種々な報告が發表される事であらう、       (完)

 上の文と写真は、明治四十一年十一月一日發行の雑誌 『燕塵』 第二年第十一號(第二十三號) 北京燕塵會發行 に掲載されたものである。

 なお、文中の✕印は、このブログでは表記出来ない漢字で、写真参照のこと。


『記念絵葉書総目録』 2 (進水式1) (1931.8)

2021年01月09日 | 趣味 2 絵葉書、鉄道、料理、関東大震災他

   〇進水式ニ關スルモノ

                         一組枚数 包装 賣否別 標準價格

  明治三八、 七、 四 香取 三越呉服店   一枚 ー  非  一、ニ〇
  明治三八、一〇、二八 朝風 川崎造船所   一枚 袋  非  一、〇〇
  明治三八、一二、二六 筑波 呉工廠     一枚 ー  非  一、〇〇
 ✕ 明治三九、 四、 九 生駒 呉工廠     一枚 ー  非  一、二〇
  明治三九、 九、二〇 卯月 川崎造船所   一枚 ー  非  一、〇〇      
 ◎明治三九、一一、一五 薩摩 横須賀工廠   三枚 袋  非  一、八〇
                    内一枚印刷地色、赤色黄色アリ
             同  海軍工廠所屬  三枚 袋  賣  二、〇〇
             同  三越呉服店   一枚 袋  非   八〇
             同  春陽堂     二枚 袋  賣   五〇
             同  角屋      二枚 袋  賣   五〇
  明治三九、一二、一五 長月 浦賀船渠    二枚 袋  非  二、〇〇
 ✕ 明治四〇、 四、一五 安藝 呉工廠     三枚 袋  非  二、八〇
             同  近藤商店寄贈  一枚 袋  非  一、ニ〇
 ✕ 明治四〇、一〇、二一 鞍馬 横須賀工廠   二枚 袋  非 二、五〇 
             同  相模新聞    一枚 袋  非  一、〇〇
 ◎明治四〇、一〇、二四 利根 佐世保工廠共勵會 四枚 横袋 非 三、五〇
             同  同       一枚 横袋 非  三、五〇
              並製ノ物アリ、中身一枚軍艦金色(特)銀色(並)アリ
  明治四〇、一一、一九 淀  川崎造船所   一枚 ー  非  一、〇〇
 ✕ 明治四〇、一一、二一 伊吹 呉工廠     三枚 袋  非  三、〇〇
             同  呉工廠倶樂部  二枚 袋  非  二、〇〇
  明治四一、 三、二五 最上 三菱造船所   二枚 横袋 非  二、五〇
  明治四一、 五、 二 文月 竹敷修理工場  一枚 ー  非  一、五〇
  明治四一、 六、 六 櫻丸 三菱造船所   一枚 袋  非  一、五〇
             同  同       二枚 袋  非  一、八〇
  明治四二、 三、二七 梅香丸 三菱造船所  一枚 袋  非  一、五〇
  明治四三、一〇、一〇 海風 舞鶴工廠    三枚 包  非  一、五〇
 ◎明治四三、一〇、一五 河内 横須賀職工共濟會 二枚 袋  非 二、〇〇
             同  相模中央新聞  二枚 袋  賣  一、五〇
  明治四四、 一、二一 山風 三菱造船所   二枚 袋  非  一、五〇
 ◎明治四四、 三、三〇 攝津 呉共濟會    三枚 袋  非  二、〇〇
             同  海事協會    二枚 袋  賣  一、五〇
             同  呉記念會    二枚 袋  賣  一、五〇
             同  帝國海事記念會 三枚 袋  賣  一、三〇
 ✕ 明治四四、 四、 一 筑摩 佐世保工廠   一枚 袋  非  一、〇〇
 ✕ 明治四四、 六、二九 平戸 川崎造船所   三枚 横袋 非  一、五〇
             同  同       一枚 ー  非  一、〇〇
  明治四四、一〇、 三 矢矧 三菱造船所   三枚 袋  非  一、〇〇
 ◎大正 元、一一、二一 比叡 横須賀工廠   三枚 袋  非  一、五〇
             同  相模中央新聞  三枚 袋  賣  一、二〇
             同  横浜貿易新聞  四枚 袋  賣  一、二〇
             同  横須賀海友會  二枚 袋  賣   八〇
             同  記念會     三枚 袋  賣   八〇
  大正 二、 三、 三 榊  川崎造船所   三枚 袋  非  一、二〇
 ◎大正 二、一二、 一 霧島 三菱造船所   二枚 袋  非  一、六〇
 ◎大正 二、一二、一四 榛名 川崎造船所   二枚 袋  非  二、〇〇
                同  海事時事社   三枚 套  賣 一、八〇
 ◎大正 三、 三、二八 扶桑 呉海軍共濟會  二枚 套  非  一、二〇
             同  呉公論社    三枚 套  賣  一、五〇
  大正 四、 二、一六 江風 横須賀工廠   二枚 套  非  一、〇〇
  大正 四、 二、一六 杉  大阪鐵工所   三枚 袋  非  一、〇〇
  大正 四、 二、二〇 楓  舞鶴工廠    二枚 ー  非  一、〇〇
  大正 四、 三、 五 楠  川崎造船所   一枚 袋  非  一、〇〇
  大正 四、 三、二六 梅  同       一枚 袋  非  一、〇〇
  大正 四、 三、三一 桐  浦賀船渠會社  一枚 ー  非  一、〇〇
 ◎大正 四、一一、 三 山城 横須賀工廠   三枚 包  非  一、八〇
                                   同  同 プロマイド 三枚    非  一、ニ〇
 ✕ 大正 五、一〇、 五 天津風、磯風 呉工廠造船部不老會 二枚 袋 非 一、三〇
  大正 四、一〇、三〇 濵風 三菱造船所   二枚 包  非    八〇
 ◎大正 五、一一、一二 伊勢 川崎造船所 二枚、三枚 袋  非  一、ニ〇
            同  雑誌「海軍」  二枚 袋  賣  一、八〇
  大正 五、一一、一二 樫  舞鶴工廠    一枚 ー  非    八〇
  大正 五、一二、二七 時津風 川崎造船所  二枚 袋  非    八〇
 ◎大正 六、 一、二七 日向 三菱造船所   二枚 包  非  一、三〇 
  大正 六、 六、二一 三番、四番 呉工廠  三枚 袋  非    八〇
  大正 七、 三、 五 榎  舞鶴工廠    二枚 袋  非    八〇
 ✕ 大正 七、 三、一一 天龍 横須賀工廠   二枚 套  非  一、ニ〇
 ✕ 大正 七、 五、二九 龍田 佐世保工廠   二枚 横袋 非  一、ニ〇
 ✕ 大正 七、 七、二〇 谷風 舞鶴工廠    二枚 袋  非  一、〇〇
  大正 八、 一、 七 澤風 三菱造船所   二枚 横包 非    八〇
  大正 八、 二、 八 峯風 舞鶴工廠    一枚 袋  非    八〇
  大正 八、 六、一〇 樅、榧 横須賀工廠  二枚 套  非    七〇
  大正 八、 七、一四 球摩  佐世保工廠  二枚 套  非    七〇
  大正 八、 八、二六 梨、竹 川崎造船所  二枚 袋  非    七〇
  大正 八、一〇、 三 沖風  舞鶴工廠   一枚 袋  非    六〇
  大正 八、一〇、二〇 柿   浦賀船渠   二枚 套  非    八〇
 ◎大正 八、一一、 九 長門  呉工廠倶樂部 二枚 袋  非 一、〇〇
            同   呉日日新聞  三枚 套  賣   六〇
  大正 九、 二、一〇 多摩  三菱造船所  二枚 横包 非   八〇 
  大正 九、 三、三一 島風  舞鶴工廠   二枚 袋  非   六〇 
  大正 九、 四、一〇 矢風  三菱造船所  二枚 横包 非    六〇
  大正 九、 四、一七 栂   石川島造船所 二枚 套  非    八〇
 ◎大正 九、 五、三一 陸奥  横須賀工廠 各二枚 套  非  一、ニ〇
                  第一第二ノ二種アリ 
 ✕ 大正 九、 六、二六 灘風  舞鶴工廠   二枚 袋  非 一、〇〇 
 ✕ 大正 九、 七、 三 北上  佐世保工廠  二枚 套  非  一、〇〇
  大正 九、 七、一五 大井  川崎造船所  二枚 横袋 非    七〇
  大正 九、 七、一七 知床  同      二枚 横包 非    六〇
  大正 九、 八、一五 能登呂 同      二枚 横包 非   六〇 
  大正 九、一〇、二二 汐風  舞鶴工廠   二枚 袋  非    六〇
  大正 九、一〇、二五 襟裳  川崎造船所  二枚 横包 非    六〇
  大正 九、一〇、ニ七 菊   同      三枚 同  非    六〇
  大正 九、一〇、二八 佐多  横須賀工廠  二枚 折  非    六〇
  大正 九、一一、 九 葵   川崎造船所  三枚 横包 非    六〇
  大正 九、一一、二七 藤   藤永田造船所 五枚 横袋 非   六〇 
  大正 九、一二、一四 木曾・秋風 三菱造船所 二枚 横包 非   七〇 
           〔以下省略〕

   〇陸軍特別大演習記念ノ部

   〇行啓記念ノ部


『处理“文革”遗留问题、清理“三种人”文件汇编』1-3(1986.8ー1986.12)

2021年01月08日 | 文化大革命 6 全般、処理、其他

 


机密文件 妥善保存
处理“文革”遗留问题、清理“三种人”文件汇编 中共广西壮族自治区党委整党办公室

(第一册) 一九八六年八月

一、党中央关于清理“三种人”的有关文件及中央领导同志有关讲话和指示

中共中央关于清理领导班子中“三种人”问题的通知

中发〔1982〕55号
(一九八二年十二月三十日)

(一)

  粉碎“四人帮”后,全国开展了对林彪、江青两个反革命集团的揭批查运动,基本上查清了同两个反革命集团篡党夺权阴谋活动有牵连的人和事,摧毁了他们的帮派体系,逐步调整,整顿和加强了各级领导班子。在中央提出对追随林彪、江青反革命集团造反起家的人、帮派思想严重的人、打砸抢分子这“三种人”不可重用的方针以后,各地进一步加强了对干部在“文化大革命”中表现的考察,对“三种人”进行了初步清理。现在,从总体上看,党政军各级组织的领导权已经基本上掌握在可靠的干部手中。由于多方面的原因,在少数地方和部门,仍有一些“三种人”留在领导班子中或要害岗位上,有的被逐级下放,但仍在各级领导岗位上继续受到重用,有的还被作为接班人已经提拔或准备提拔。这些人数量不多,活动能力很强,活动范围很广,是一种不安定的因素和不可忽视的潜在危险,如有事宜的机会,他们就会出来兴风作浪,再次为害党,为害国家,为害人民。党的十二大进一步提出,要实现干部队伍的革命化、年轻化、知识化、专业化,解决好各级领导班子中新老干部的合作和交替问题,在成千上万选拨优秀中青年干部的同时,必须坚决把“三种人”从领导班子中清理出去,必须防止把“三种人作为接班人选进领导班子。这是关系我们在新的历史时期能不能把党建设成为领导社会主义现代化事业的坚强核心,能不能保持党的马克思主义领导的连续性的一个极其重大的问题,各级党委对这个问题必须具有足够的清醒的认识。如果不提高警惕,让他们占据领导岗位,隐蔽下来,即使是少数人,也可能给我们带来无法预料的祸害。当前影响清理“三种人”工作进行的,主要是有些领导同志对认真解决好这一问题的重要性和迫切性认识不足,至今还停留在一般议论上,缺乏调查研究,心中无数,对已经暴露出来的问题未能及时核查处理,或因为对“三种人”的界限不清,迫接触和处理这些问题。也有一些领导同志看人不注重政治品德,用人不讲党性原则,对在“文化大革命”中保过自己或者同是一派观点的,虽有严重问题也不清理。这种状况,必须迅速改变。

邓小平同志关于如何划分清理“三种人”的谈话

(一九八三年九月二十日) 

    按: 这是一九八三年九月二十日邓小平同志和胡耀邦、赵紫阳、邓力群、胡启立等同志谈话的一部分。经中央领导同志同意,按照邓力群同志的笔记整理刊登如下。 

     关于“三种人”,很多地方都提出,“文化大革命”中间反复很多,情况很复杂,对于跟着林彪、“四人帮”造反起家的人,帮派思想严重的人,打砸抢分子,各有各的理解。这个问题,话已经写的很清楚了,实际上办起来也很好办。这里面是讲了造反起家嘛,是跟着林彪、又跟着“四人帮”嘛!在“文化大革命”中造过一段反,后来变成逍遥派了,他没有起家嘛!关于帮派思想严重,有的人在“文化大革命”初期可能思想“左”得不得了,后来他观察一下,觉得这样不行,思想变了,这怎么叫帮派思想严重啊?紫阳同志有个意见:十年中间各种人都有变化,有的是越变越坏,有的是时好时坏,要进行历史的分析。一直坏到底的,和中间有变化大的,政策上要有所区别。我同意这个意见。
  “三种人”中间,大多数是“文化大革命”期间的年轻人,也有老干部,是少数。老干部中间,谢富治是我过去最信任的一个,如果不死,还不是“五人帮”?耀邦、紫阳同志都讲过,康生还不是造反起家!他原来是政治局候补委员,后来是政治局委员、政治局常委、中央副主席。各地还有些老干部都可以说是“三种人”中是少数。
  老干部在“文化大革命”中间说了违心的话,做了违心的事,不能叫“三种人”。那个时候,不说违心的话行吗?有些事明明自己不赞成,不违心地去做行吗?不能把那时在特殊情况下说过一些违心的话,做过一些违心·的是的,也说成是“三种人”。在那种情况下,不能不随声附和说几句违心的话的人,是大量的。
  “三种人”容易辨别,实际上,其中大多数人的政治面貌,我们也都清楚。其中多数是年轻人。那个时候二十多岁,现在呢,大概是三十八、九岁,或者四十多岁。这些人的能量很大,善于拉帮结派,吹棒迎合,改头换面,在“文化大革命”期间,把旧社会里面那一套全学会了。林彪提倡那一套,“四人帮”也提倡那一套。这些人中间有的确实有点本事,能写能说,有相当的文化水平,会讨人喜欢,也会办事,容易取得人们的同情。他们的基本状况是潜伏下来,隐蔽下来。这些人可厉害呀,手段多的很。他们改换面孔后,就欺骗了一些人,包括群众,包括我们一些领导干部。恐怕是一年以前吧,上海有个材料,反映上海一些造反派头头,表现很坏的人,现在有的成了我们高级干部的女婿或者媳妇,有的还成为高级干部的秘书。我们有些老干部喜欢这种人,欣赏这种人,甚至重用这样的人。他们中间,有的得到了提升。有的还在打华国锋的旗帜,在这旗帜下面聚集他们的力量。有的从当年搞极“左”跳到另一个极端,搞资产阶级自由化起劲得很。对这些人,只要我们稍一疏忽,他们就会爬上来。等到将来土壤、气候对他们有利,他们就会兴风作浪,乘机上台。所以对这些人的能量,对这些人对于我们党的危险性,危害性,千万不能低估。对这些人绝对不能信任。

    (此件原载中整办≪整党通报≫〔文件〕4,一九八三年十一月十六日)

二、党中央关于广西处遗、清理“三种人”工作的的有关文件及中央领导同志有关讲话和指示 

  (第二册) 一九八六年十二月

三、广西区党委及中央工作组、联络组领导同志关于广西处遗、清理“三种人”工作的的有关讲话和指示

 处理“文革”遗留问题十个月工作初步小结
一韦纯束同志在区党委工作会议上的讲话

(一九八四年元月二十一日)

  我区由于在十年内乱中所遭受的灾难特别深重,“文革”遗留问题又长期得不到妥善解决,组织不纯和“三种人”占据领导岗位的情况十分严重。据不完全统计,全区“文革”期间参与杀人的党员有两万人,打死人后入党的一万人。区党委召开四月会议后,各地采取了停、免、撤职审查或回避、调离等组织措施,其中停职的一千九百一十二人,免职的二千四百九十九人,撤职的三百五十五人,回避的五百七十五人,调离的二百六十二人。在这些干部中,有厅(局)级七十五人,处级一百五十五人,县(科)级一千一百六十三人,公社(区)级三千零一十四人,一般干部(多是国家基层单位领导,不是领导的是极少数)一千一百三十八人。

 

   经过将近十个月的工作,基本弄清了我区在十年动乱中四人情况,据现在的统计,全国死人八万六千多人,其中七万多人又是在非武斗的情况下以残酷手段打死、杀死以及迫害致死的(包括杀俘虏),后果十分严重,加上长期没有得到严肃认真地处理,遗属与凶手之间复杂而尖锐的矛盾冲突,一直是我去不安定的因素。不少遗属不断上访上告,有的甚至直接找凶手“算帐”。全区去年五、六月间发生类似现象就有六千多起。

(此件原载桂办文件〔1984〕2号)

(第三册) 一九八六年十二月

三、广西区党委及中央工作组、联络组领导同志关于广西处遗、清理“三种人”工作的的有关讲话和指示(续)