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「敦煌石室中の典籍」 救堂生 (1909.11)

2021年01月13日 | 清国日本人 燕塵、津門

      

敦煌石室中の典籍
            救堂生

 佛國西東方考古學校(在東京河内 トンキンハノイ )教授 Paul  Pelliot  (伯希和)氏が、甘肅省敦煌縣石室中に藏せられて居つた經卷古文書類を得て、本國への歸途北京に滯在して居られるとのことを聞いたので、早速氏を八寶胡同の假寓に訪うて刺を通じた、實は氏とは未知の間柄であるから會つて呉れるかどうかと思つたが、「請」とボーイが案内をするから客廳へ通つた、氏は年齒三十位の青年紳士で如何にも學者的氣象の有る人である、此方が西洋語が出來ぬから氏は流暢なる北京語で會話を始められた、語つて見ると同氏の友人シヤバンヌ氏メートル氏等を通じて己に自分の姓名職業を知つて居られたから非常に好都合で、遠慮なく語ることが出來た。
 氏は淸國西陲の地理古蹟等を研究の目的で一昨年本國を出發し、露領中央亞細亞を經て新彊省に入り、庫車に八個月、烏魯木齊に二個月、吐魯番に數週間滯在して研究を續けられて居る中、烏魯木齊で長將軍に會つて敦煌石室の話を聞き、巴里坤哈密を經て安西に出て知州の某から一卷の古寫本を贈られたのが、どうしても唐寫本に違ひない、で去年の冬敦煌縣へ出掛け三個月餘滯在して、同地三危山下石室の中に藏して居つた寫經其他のものを入手せられたのである、
 大部分は已に本國へ送つたと言つて、手荷物中の數十品を示された、盡く驚心駭目の貴重品で、唐寫本、唐字經、唐刻及五代刻經文、唐拓本等のみで、紙質は黄麻白麻の楮紙の三種を出ない樣に見受た、老子化胡經等は天平經中の最良なるものに劣らない、尚書顧命殘頁は文字雄勁、適確として唐人の書である、西夏兵革の時に石室を封じたまゝで近年に到つたものであるから、在室のものは不殘五代以上のもので、宋以下のものは一つもない、殊に西夏文字のあるものは半片もないのが確な證據で、學術上大した發見であると思つた、自分は内容を役に立てる知識は皆無であるが、趣味眼から見ても物々傍を去ることの出來ぬ珍品のみである、氏が奇籍を齎したと云ふので北京の士大夫中學者は勿論、古典籍に趣味を持て居る人達は續々氏の寓を訪問し、將來の珍品を見て誰も驚かぬ者はない、自分の手控によつて記錄しようと思つたが、我々と前後して見た人の中で、羅叔言氏が書き留められたものがある、其方が我々の見るよりも確であるから左に之を錄することにした、
    敦煌石室書目及發見之原始
敦煌石室、在敦煌縣東南三十里、三危山之下、前臨小川、有三寺、曰上寺、中寺、上寺、下中兩寺皆道觀、下寺乃僧刹也、寺之左近有石室數百、唐人謂之莫高窟、俗名千佛洞、各洞中皆有壁畵、上截爲佛象下截爲造象人畵象、並記其人之姓氏籍里、惟一洞藏書滿中、乃西夏兵革時所藏、壁外加以象飾、故不能知爲藏書之所、逮光緒庚子、掃治石洞、鑿壁而書見、由是稍稍流落人間、丁未冰、法人伯君希和、游歷迪化、謁長將軍、將軍曾藏石室書一卷、語其事、繼謁瀾公、曁安西州牧某、各贈以一卷、伯君審知爲唐寫本、亟詣其處、購得十餘箱、然僅居石室中全書三分之一、所有四部各書、及經卷之精好者、則均嚢括而去矣、大半寄囘法國、尚餘數束未攜歸、昨往觀、將所見及已寄囘之書目、略記于左
 顔師古玄言新記明老部五卷
  案舊唐書經籍志、有玄言新記道徳二卷王弼注、新志又有王肅注二卷、隋志有梁澡玄言新記明莊部二卷、而此書則諸書均不之及、
 二十五等人圖
  此書名、非圖畵、
 太公家敎
 辨才家敎
 孔子修問書一冊
 開蒙要訓
 天地開闢以來帝王記一卷
 百行草一卷
 何晏論語集解存卷一卷二卷六
 毛詩卷九✕柏舟故訓傳 鄭注
 范寗穀梁集解存閔公至莊公
 孟説秦語中晋二
 莊子第一卷
 文子第五卷
 郁知言記室修要
  案郁疑郭之訛、日本舊鈔卷子本五行大義、背記所引古韻書、有郭知言其人、
 文選李善注存卷二十五卷二十七
 冥報記
 新集文詞九經鈔
 新集文詞敎林
 秦人吟
 燕子賦
 李若立略出籝金
 老子道徳經義疏第五卷
 唐均 切均小板五代刻本均殘
 唐禮圖數頁
 輔篇義記存第二巻
 新集吉凶書儀二卷
 李荃閫外春秋存卷一卷四卷五
  案此書宋志著錄
 唐律一卷
  伯君言、無疏義、彷彿記有新增之例、據所云、疑即顯徳刑統之類也
 故陳子昴集存卷八至卷十
  據伯君言、十巻本係後來分析成卷、非原書之舊、此雖二卷半、然尚多於後來之十卷本、
    以上各書、均已送回法國、
 沙州志四卷乃一卷斷爲四非四卷也
  據伯君言、中有五代地名、然其書法唐人筆也、端制軍已影照、
 慧超五天竺國記一卷
 吐魯番地志殘卷
 末尼經一卷
  首尾斷爛、然至精、末尼敎經、今一字不存、此雖斷爛、仍至寶也、 
 景敎三威蒙度讚一卷
 唐繡佛説齋法淸浄經一卷
  計四十九行、行十七字、藍絹本、先墨書經文、後加繡以白絨爲之、毎行有墨線界格、
 尚書顧命殘頁
  僅尺許、然異文不少、此頁以精經帙後、
 寺歷數卷
  中間雜記施主功徳獻納、及傳記、皆表裏有字、茲記一二如下、
  一 大潙警策
  一 大番故敦煌郡莫高窟處士公修功徳言
  一 曹仁貴獻玉羚羊角磠砂表
     三種在一卷上 中有沙州□印
  一 大唐前河西節度使押衙銀靑光祿大夫檢校太子賓客甘州刪丹鎭遏充涼州西界游奕防採營都知兵馬使兼殿中侍御史唐公通信✕眞讚 僧悟眞撰
    大唐中和元年
  又有文徳二年、中和三年、二✕眞讚、其姓名忘之、
   右另一卷
  一 □□□□世碑 竇夫子撰
  一 隴世李家先代碑記 楊授述
  一 翟家碑 唐僧統述
     右一卷
    又一卷、記本寺収紙發紙數目、皆繋年月日
 受罪懺悔文一卷
  漢文及囘鶻文、両面對書、此外佛經漢囘對書者、有十餘紙、單囘文者有百餘卷、
  又有梵漢對譯、及單梵文者、
 陀羅尼經
 (一)寫本 其形如旋璣圖、中爲佛象、象旁四周皆咒語、欄外皆經文、倶顚倒囘環書之、又有漢梵對譯者十餘紙
   又刻本 共十餘紙
 (一)一切如來大尊勝陀羅尼加句靈驗本二朝灌頂 國師三藏大廣智不空譯、毎行十五六字不等、其字似初唐人寫經、又國師國字、上空一格、其爲唐刻無疑
 (二)大隨永陀羅尼 經末有□楊法彫印施六字、
 (三)大佛頂陀羅尼 經末有開寶四年十月廿八日記十字、
 (四)大隨永陀羅尼 經上面、左有施主李知順一行、右有王文沼彫板一行、經末有太平興國五年六月彫板畢手記十三字、
      此外無年號者甚多
 彫印佛象
  几十餘紙、大半曹元忠忻造、茲錄記文一紙、
   弟子歸義軍節度瓜沙等州觀察處置管内管田押蕃落等使特進檢校太傅譙郡開國侯曹元忠彫此印板奉爲城隍泰闔郡康寧東西之道路開通南北之兇渠順化勵疾消散刁斗藏音隨甞見聞倶□福佑于時時大晋開通四年丁未歳七月十五日記 匠人雷廷美
    共十三行、上畵下記、
 唐拓碑三種
 (一)唐太宗御製溫泉銘 剪表本、前半殘缼、後半完好、紙尾有墨書一行、曰永徽四年八月圍谷府果毅下缼
    案此碑、已載趙氏金石錄、寶刻類編著錄、作溫泉碑、
 (二)化度寺邕禪師碑邕僅存剪裝一紙、字畫如隨蘇孝慈碑與流傅宋拓逈異、
 (三)柳公權楷書金剛經 石刻本、裝成卷子計十二石、毎行十一字、末署長慶四年四月六日翰林侍書學士朝議郎行右補闕上輕車都尉賜緋魚袋柳公權爲右街僧錄準公書強演邵建和刻字、案寳刻類編、載柳公權金剛經、會昌四年書、年月不同、不知即此否、
      以上諸書皆目見
此外有畫板一、畵範一、經板一、均爲罕觀之品、畫板爲印佛象之版、長方形上安木柄、如宋以來之官印、然畫範則以厚紙爲之、上有佛象、不作鈎廓、而當鈎廓處、用細針密刺、以代筆墨、推其意、蓋作畫時、以此紙加于欲畫之紙上、而塗之以粉、則粉必透針孔、而著于下層之紙、便有細點、更就粉點部位作綫、則成佛象矣、經板狀如□    、兩面共書心經、而文未完、左行墨書、上加以油漆、色白而澤、頗似今日之熟漆、室中又有布畫佛象、紙畫象、及虎珀珠、檀香等物、
又寫經中、有絹本三卷、絹質極細、乃六朝人書、
又有經帙、以竹爲之、與日本西京博物館所藏相同、以竹絲爲之、又有以席草爲之者、蓋古人合數卷爲一帙、此即其帙也、帙之裏面、以舊書糊之、有唐人公據一紙、上有印信、其文不及備錄、
伯君言、渠所得有地契無數、皆有唐年月、又有唐歷書二三冊、皆有年號、惜已寄囘國不獲見也、
伯君言、諸窟壁畵、有繪五臺山圖者、記該山梵刹二百餘、皆記其名、已影印、         羅振玉記録

專門家なる羅氏の記錄に對して彼是言ふ點はないが、其中で畵範は同説の如き用途もあらうが、石へ佛象を刻する時に使つたものだらうとの疑を抱くので、針を刺した痕のあるのは石へ紙を押付けて置いて錐の樣なもので石へ當りを付けて彫刻したものだらうと思ふ、畫板は柄の付いた大形の印判で是を見ても我邦百萬塔中の陀羅尼經の如きも、恐くは鑄物印判の大形のものであつたらうと想像される、羅氏記錄以外に蠟紙に記した印度文字の經文、西漢金山國皇帝勅文書の斷片等を見た、更に石室中に在つたもので筆が一本ある、毛は硬きものらしく穂先は非常に短く軸も現代の筆に比して短い、我邦の天下筆と號するものに似寄つて居る、
北京讀書人の主催で九月四日グランドホテルに同氏の歡迎會が開かれた、當日の出席者は寶侍郎、劉少卿、徐祭酒、柯經科監督、惲學士、江參事、呉寅臣、蔣伯斧、董比部其他十數名で、一時の名流盡く集まる底の盛會であつたが、羅叔言氏が微恙の爲め欠席せられたのは遺憾であつた、惲學士は立ちて伯希和氏に盃を擧げ、斯學に熱心なる伯氏に天の嘉惠如斯厚きを羨奘し、伯氏は謙遜の辭を以て自己は國家によりて研究の爲派遣せられ只偶然寶物を獲得したる迄の事にして、現品は佛國政府の有に歸すと雖も、學問は世界共通たるべきもの故、撮影謄寫等の希望には努めて應ずべしと答へられた、かくて氏は北京の士大夫と應酬して、九月十一日夕前門發の列車で西比利亞經由歸國の途に就いた、定めて向後種々な報告が發表される事であらう、       (完)

 上の文と写真は、明治四十一年十一月一日發行の雑誌 『燕塵』 第二年第十一號(第二十三號) 北京燕塵會發行 に掲載されたものである。

 なお、文中の✕印は、このブログでは表記出来ない漢字で、写真参照のこと。