蔵書目録

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「東京音楽学校 オーケストラ」 写真・絵葉書 (1905ー)

2021年01月20日 | 音楽学校、音楽教育家

   

 上左:「東京音楽學校管絃合奏」
     この写真は、明治三十八年二月三日發行の雑誌 『教育界』 第四卷 第四號 の口絵写真にあるもの。
     
 上中:「管絃合奏 Orchestra & Chorus of the Tokyo Academy of Music. 合資会社共益商社楽器店発行」
     この絵葉書には、「三九、四、二四 〔明治三十九年四月二十四日〕於 東京」との書き込みがある。
     なお、この写真については、『明治音楽史考』(遠藤宏、1948年)に以下の詳しい説明がある。

  明治三十八年頃の東京音楽学校管絃楽と合唱

 明治三十八年頃の東京音樂學校の管絃樂合唱の全員である。同團は當時敎官と卒業生、生徒からなり、宮内省樂部から管樂器、コントラバス、ティムパーニが参加してゐた。
 中央立ってゐるのがアウグスト・ユンケル教師、その右第一ヴァイオリン 幸田延安藤幸、その後賴母木こま、高折周一、その後チェロ岡野貞一、その左幸田(チェロ)、その左ヴァイオリン鎗田倉之助(尺八の名手)、その左鈴木保羅、その左前ヴァイオリン林テフ、安藤幸の右第二ヴァイオリン多久寅、山井基淸、多の後吉澤重夫、その後西村、山井の後永井、鳥居つな、その後東儀哲三郎(ファゴット)、高津環(クラリネット)、渡部康三〔コメントにより訂正。原文は「渡邊康三」〕(トラムペート)、原田潤(コントラバス右端)他の管樂器大部分は宮内省の伶人達。
 合唱右手前列中央吉川ヤマ、その右鈴木乃婦子。
 (右は川上淳氏學生時代の能憶による) 

 上右:「東京音楽学校 オーケストラ」「東京音楽学校、鳥居教授廿五週年記念、6th.10.、1907 〔明治四十年〕、園遊会」下は、この絵葉書の通信文である。
 Ⅰ.
 今日の園遊会雨天の為め室遊会となりました。しかし色々の余興や売店接待処などがあつて非常な愉快な一日を過ごしました。
 上図は学校の正面、下図は奏楽堂で管絃合奏、合唱の写真です。これは演奏台の方から聴者の居る方へ向つて写したのですからいつもとは位置が反対です。ピアノによりかゝつて居るのはユルケル師その右のヴァイオリンヲ持つて居る二人は幸田先生姉妹です左は姉さんで右は妹の安藤教授です。幸田先生はピアノ、安藤先生 

  

 上左の写真:ユンケル(左下の椅子の人物)、安藤幸子・幸田延子姉妹(ユンケルの右)、頼母木駒子(中央二列目右)が写っている。
 上右の写真:印刷物。指揮台の右に、ユンケル、左にウェルクマイステル・安藤幸子・幸田延子、さらに頼母木駒子などが写っている。

 なお、昭和二十七年四月二十日発行の『音楽の花ひらく頃 ーわが思い出の楽団ー』小松耕輔著 音楽文庫38 音楽之友社 の 音楽学校時代 に次の記述がある。

 アウグスト・ユンケル先生は明治三十二年四月から東京音楽学校教師として招聘された。私の入学した頃は同校の指揮者兼ヴァイオリン及び声楽の教師をしておられた。私は同氏から声楽の教授を受けた。先生の教室は、今の校長室であった。我々は部屋の真中にすえられたグランド・ピアノを、ぐるりと取巻いて授業をうけた。その頃の先生は仲々おしやれで、いつも立派な背広に、キチンとおリ目のついたズボンをはいていた。稽古がきびしくて、みんなは恐れをなしていたものである。よく葉巻をくわえたままで部屋にはいつて来て、その葉巻を窓の横木の上においた。時にはそれを先生が忘れていくことがある。すると生徒がそつと持出していつてしまう。
 その頃のオーケストラは極めて貧弱で人員も尠なかつた。管楽器の多くは雅楽部の人達が来て手伝つていた。その後海軍の委托生が来るようになつてから雅楽部の人達は来なくなつた。そのようなわけで、生徒は専攻以外に何か一つ管楽器を兼修しなければならなかつた。私もフルートを受持たされた。その時の先生は雅楽部の大村恕三郎氏であつた。
 そのうちオーケストラの陣容もおいおい整備し明治三十八年頃には相当の人員となり、本格的の演奏が出来るようになつた。しかしそれまでにするのに、先生はどれほど苦心されたか知れない。我が国に管弦楽の土台が出来たのは全くユンケル先生のお陰である。
 先生のオーケストラの稽古は全く猛烈だつた。間違いでもしようもんなら忽ち雷がおちる。大きな声でしかりとばす、指揮棒をたたきつける。そして汗をふきふき次の稽古にかかるのであつた。口は相当悪い方で、「豚の頭」だとか、「つんぼ」だとか言つてどなりつける。しかしどなりつけられながら皆は感謝し心服し、そして彼を愛していた。少しのかざりけもない、正直な良い先生であつた。先生は一旦ドイツに帰つたが再び来朝し、七十余歳で東京で亡くなつた。先生は晩年、日本の土となることを望んでいられたようであつた。 

     

 左:「PRPF.A.JUNKER,」 中:「T.A.M.Orchestra under Prof.Junker.」 右:「Farewell then, wife and child at home!」
   これらの写真は、いずれも「送別演奏会記念 11.30.1912 〔大正元年十一月三十日〕」とある絵葉書のものである。

 なお、前述の『音楽の花ひらく頃 ーわが思い出の楽団ー』小松耕輔著 の 大正元年 に次の記述がある。

 ユンケル先生は十三年間の東京音楽学校教師を辞して帰国することになつた。そしてその送別の演奏会が十一月三十日と十二月一日の両日同校奏楽堂で催された。曲目のおもなものは、管弦楽「フェードル」の序曲(マスネー)ガーデの第四交響曲、ブルックの「美くしきエレン」合唱附独唱は園部ふさと船橋榮吉が歌つた。その他ペッオードは短イ調独奏曲(グリーグ)、安藤幸子はシュポーアの第九協奏曲を演奏した。
 又十二月十一日には同じくユンケル氏の送別音楽会が帝国劇場で催されて盛会であつた。

  

 「東京音楽学校学友会合唱団(グルック二百年祭記念)」 大正三年 〔一九一四年〕 七月四日

  上の写真も絵葉書のものである。

 なお、前述の『音楽の花ひらく頃 ーわが思い出の楽団ー』小松耕輔著 の 大正三年 に次の記述がある。

 七月四日に東京音楽学校学友会の主催でグルック二百年記念音楽会が催され、グルックの「オルフォイス」その他の曲が演奏され、水野康孝、花島秀子、渡邊某、柴田知常、高折宮次、山下テイの諸君が出演した。これからそろそろ以上の諸君が楽壇に活躍するようになるのである。



 左:「東京音楽学校合唱団」     三木楽器店 大阪市東区久宝寺町四丁目
 右:「東京音楽学校オーケストラ団」 三木楽器店 大阪市東区久宝寺町四丁目

 上の写真二枚も、絵葉書のものである。

 

 東京音楽学校奏楽堂(其一) BAND-STAND IN THE TOKYO MUSIC SCHOOL.
 この写真は、年代不明の絵葉書のものである。



1 コメント

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Unknown (蔵書目録)
2017-07-29 11:25:48
ご指摘のコメントありがとうおいます。
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ユンケル指揮のオーケストラでトランペットを吹いている渡邊康三の従兄の孫です。
「渡邊」と記される事が多いのですが、正しくは「渡部」です。なお、ウィキペディアに「渡部康三」及びその親族に関する項目があります。

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