蔵書目録

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『粛軍問題の経緯』 3 (1935.10.17)

2021年01月27日 | 二・二六事件 2 怪文書

     

     永田中將殺害事件

 相澤中佐は粗暴純朴全く寡黙直情の男である、彼は十月事件頃から既に國家改造の実行者の一旗頭に推された人である事は前述の通りである、永田中將も最初は同様の思想の持主であった事は三月事件の際の起案者と目されて居る事に依って推察が出来る。
 此の永田中將が軍務局長となるや此の思想実行者として僅かに殘って居る村中、磯部一味を圧迫し之を處分したのであるから相澤中佐は之に対し非常なる不快を抱く様になった、それに勤務して居った聯隊が適當でなかった某上官であった、福山歩兵聯隊長樋口大佐は彼等の一幹部であっただけに、此問題に関し純眞なる相澤中佐に間接直接油を注いだ事は爭はれない事実である、それに例の怪人物西田税の家に宿泊して居る、尚ほ永田中將は  天皇機関説には頗る微温的であり政界巨頭と近接し某時期に陸相たらんことを計畫してゐるなどと言ふ噂も誤り傳へられた、是等の事情は悉く相澤中佐を憤激せしめたに相違ない、結局永田中將は昭和維新を計畫実施する彼等の為には恰も明治維新當時の井伊掃部守である、彼を排撃せざれば到底理想の実現は覺束なきのみならず却って一味は彼の為に破滅の運命に陷らしめらるゝならんと考へる様になった、是に於て一方の旗頭を以って任じ彼等青年將校の崇拝を受けて居った彼としては一身を犠牲にして彼等一党の危急を救ふべしとなし幸に腕に覺えのある剣道を信賴し彼を一刀の下に殺害し是非の理曲直を天下に公表し天下に其の判決を仰がんとすと言う様な浅薄であるが雄々しい決心覺悟の下に此の事件を断行したのではないかと想像される。
 されば彼は軍法会議に於いて恐らく過去の三月や十月事件を堂々と発表し永田中將等の主義一貫せざる態度を攻撃するの策に出て國士を以って天下を論じ社会の腐敗を述べ之に対する矯正論を呼ぶだらうと思ふ。
 此の如くして獲るものは何か、
 結局陸軍内部の暗鬪を天下に暴露すること昭和の今日恐る可き陰謀の存在を発表して世人を驚かし國民の陸軍に対する信望を失ふに至らしむるのみである、軽擧妄動も甚しい哉と言はざるを得ない、從って陸軍當局は相澤中佐の軍法会議の内容眞相を公然世間に発表したら三月十月事件の社会改造の恐るべき陸軍の策動も暴露する事になるし陸軍内部の不統制も隠す事が出来なくなる、嚇々たる歷史のある我陸軍の名を汚し國民に対しても外國に対しても全く赤恥を曝す事になる。
 一方之を隠蔽することになると國民は陸軍を伏魔殿の如く疑ひ今迄の信望は薄らぐ様になるのは當然の帰着だ、國民戰爭國家總動員などと軍民一致を高調する御膝元が後ろ暗い事があっては相済まぬ次第である。
陸軍當局は如何に此問題を善處するだらうか。

     怪文書

 眞崎將軍勇退後第一に現はれたものは村中、磯部両將校の名に依る『肅軍に関する意見書』である、その内容は三月事件十月事件を詳細に暴露し間接に陸相及永田局長を攻撃したものである。
 之は彼等一派が士官學校十一月事件で處分されたのを豫め計劃通り暴露戰法を採用し當局を困らしてやらうと言ふ復讐の手段に出たことに過ぎないが印刷配布前に眞崎將軍若しくは他の巨頭に意見を聽取し或は督勵を受けたものではないかと思考せられる、これは想像に過ぎないが此の文書は結局眞崎秦將軍の辨護になるからかく疑はれても仕方がないと思ふ。
 續いて現はれた異動に関する經緯の詳細の如きは何と辨解しても三長官会議に出席した誰かの口から洩れなければ出来ない、資料のみでゝっち上げてある、即ち三長官会議や軍事参議官会議の内容の記錄があって一々月日を追って具体的に詳細に記述されてある、而も其の大部は眞実であると言はれてゐる事に吾人は驚かされる、一般的に見て眞崎大將の主張の堂々として條理整然たるに反し林陸相は唖然として一言も答ふる事が出来なかったと言ふ様な一方的な記錄である。
 極秘の会議の内容中には人事の内規迄引張り出されてゐる、この内容は其の席に居った人でなければ到底知る事の出来ない事実である、從って鈍感の人間をも此の怪文書が何れから出たかと言ふ事が推量し得るに足るものである。
 永田中將死去の三日前彼と面会した友人の話によれば中將は極力怪文書の出所を明かにする為め努力中であると明言したそうである全く怪文書である、一体陸軍特に憲兵の強力整備せる捜査能力を以ってして其の出所を確め得ないのであるから洵に時代の大不思議である。
 其後怪文書は次から次へと発表され永田中將殺害事件などは『永田中將伏誅の真相』と言ふ様な逆臣平將門に使ふやうな不敬不謹慎の文句が使用される様になった、まさかこんなこと迄指導されたのではないだろうと思ふが怪文書の出所をつき止めたら面白い新聞種が山の様に出て来るだらうと思ふ、聞くところによれば憲兵隊の中には尚ほ眞崎殊に秦中將の残党が尠からず存在して居るそうだ、田代憲兵司令官が如何に公平無私でも出身が佐賀出身である、其所に言はず語らずの間に憲兵隊それ自身の此問題に対する捜査研究の意気込が一貫徹底して居ないのは當然であると説く者がある、或はこれが寄った実際の眞相でないかと思ふ、それでなければ其の眞相をつき止め得ない理屈がないと思ふ、それとも林陸相のお人好は之が嚴令する事を躊躇したのかも知れない、元来林將軍は眞崎將軍の為に首になる所を救はれたる恩人であるので大恩人を勇退せしめた事は既に林の精一杯の仕事であったらうからそれ以上彼に望のは無理かも知れない。
 かくして永田中將死去するや形式的師団長会議を開催し数日ならずして陸相は川島大將と交代してしまった、正に統制派の敗北と言ふ形である、飽く迄肅軍の後始末をし然る後に辞職すると新聞紙に発表した舌の根も乾かぬ裡に辞職した林將軍の態度に対しては邦家の為甚だ遺憾に堪へない次第である。

     所見

 渺たる我陸軍の内部に派閥や勢力抗争などの有り得べきものと想像されないが事実は絶えずこの抗争暗鬪を繰返されつゝあるは洵に痛恨の至りである。
 日露戰争頃迄は薩長の勢力は驚くべきものであって陸軍の要職は殆んど大部彼等の出身に依って占領されて居った、從って他藩出身の偉才が所を得ずして恨を呑んで退いた例も尠くない、併し一方考へて見ると維新の大業の立役者は何と言っても薩長の武士である、其の余勢が残って要職に澤山の將軍が蟠居して居ったのは自然の趨勢でなかったらうか、果然是等の老將軍が世を去るに及んで薩長の勢力は蠟燭の火の様に次第に減少して行った、然るに復讐心に燃ゆる被圧迫者は薩長の勢力の漸減するに反し江戸の讐を長崎で見事に取ってしまった、其目標となったのは罪も怨みもない陸軍大學校を目指す青年將校であった、登竜門である陸軍大學入校者に薩長特に長州出身の青年將校を約八年の長年月に亘り全く入校せしめなかったそれである。
 此長洲出身の青年將校に秀才なしと言へばそれ迄だが統計學上多数の初審合格者あるに拘らず再審試験に八年間も合格者なしと言ふ常識上あり得べからざる現象である、明かに大學教官の採點に於いて感情の入ったものと推察せられる、當時大學教官には一、二名しか長洲出身者を採用して居なかった事は益々此間の消息を裏書するものと信ずる。
 公平無私を誇る陸軍は特に試験の採點に於てこんなことがあるとは驚かざるを得ない。
 次いて上層階級の目ぼしい薩長出身の將軍を何のかのと理由をつけて首斬りしたのは勿論であった。
 續いて抬頭したのは宇垣閥であった、之に代ったのが荒木、眞崎閥である。
 それ許りではない、學閥がる、兵科閥がある、更に不快なのは一部動員で出征する兵団に対する羨望嫉妬から来る凱旋將軍の早期首である、凡百の事戰爭を以って基準とする陸軍であり乍ら人事と戰功は別途なりと公言して如何に戰功があっても普通の人事の順序通り整理する、果然近時渡満する上層階級の將校は帰ったら首だと覺悟して出征する様になった、戰爭に行くのは彈丸に命中して戰死するか然らざれば帰國後首の何れかである、こんな空気を醸成せしめたのは、若かき、勢力ある中央部の主として机上論者や実戰の味を知らぬ小才子天保組の醜悪なる専横に起因する。
 かくして現時陸軍は甚だ明朗性を缼く陸軍となってしまった、御勅諭の所謂上下相信倚し邦家に勤勞せよとの御主旨は次第に疎ぜられつゝある狀態である。川島陸相は大臣就任後國体明徴論には頗る力瘤を入れ力強く首相に迫る様である。それも勿論大いにやる可し、併し陸軍内部の肅軍は如何にする積か、外に當る為には先づ内を治めるのが當然の順序ではないだらうか。
 大動員大規模の外征か或は前科者の一網打盡の徹底的處分か、何れにせよ陸軍は多事多難である。吾人は刮目して近き將来の成行を監視しなければならない。
         (畢)



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