蔵書目録

明治・大正・昭和:楽器・音譜目録、来日音楽家、音楽教育家、来日舞踊家、留学生教育、軍内対立、医学教育、林彪、北京之春 

「音楽を学ばうとする婦人へ」 久野ひさ (1916.10)

2017年04月06日 | 久野久子 1
  

 音楽を学ぼうとする婦人へ
       東京音楽学校教授 久野ひさ

 何事に従事する上にも然 さ うでせうが、殊に最も高い又最も深い所のものなる音楽を修業しやうとなさるには、何よりも先づ真面目な努力がなければなるまいと思ひます。軽薄なほんの一時の気迷れな覚悟で行 や るやうでは、何年経つても満足な音の出て来る筈は御座いません。一体ポンと弾く一つの音にも、音を出す人の性質は恐ろしい程不思議に能く現はれるもので御座います。永年錬 きた えた人の出す音でも又は始めて楽器に向ふ人の音でも其の音によつて其人の性質は能く分るので御座います。要するに何処までも真面目に耐忍して、根気よく行り続けてゆくと云ふ事が、第一の要件で御座います
 然し唯耐忍して真面目に努力すれば、それで好いと云ふのではありません。それに伴つて熱と云ふものが無くては駄目だと思ひます。一つの曲を始終一貫して、同一の力で押し進んで行くやうな熱がなければ駄目で御座います。尤も音楽は組立ての定まつた、土台の据はつたもので御座いますから、唯熱許 ばか りあつても、徒 いたづ らに形を破り、組み立てを乱す許りで、迚 とて も整調した音は出ません。ですから炎のやうに燃え立つ熱を、正当に、順序正しく導く真面し目な努力が必要です。従つて真面目な努力と熱とは相俟つて離れる事の出来ない関係に立つてゐます。
 それから音を出す機械の好い事も一つの条件で御座います。機械と申しますのは腕とか指とかを云ふのです。此 この 上肢などの筋肉が均斉に充分に発達して居りませんと、どうも思ふやうな音は出ないやうです。恰度 ちやうど 声音の方で、カスレ声であつたり、嗄 しわ がれ声であつたりしては、十分なる肉声の出ないのと同様で御座います。ですから音楽を修めやうとするには、真面目な努力と熱と機械と、この三つが皆充分に具備 そなはつ てゐて、此中 このうち どれか一つでも欠けてゐては行けないのです。音楽を志望する方に対して、其他申し述べれば種々 いろゝ 細かい要求もありますけれども、私は先づ大体右の三つの条件さへ充分ならば宜しからうと存じます。

 上の写真と文は、『婦人公論』 秋季特別号 (第十号)現代女ぞろひ号 第一年 第十号 大正五年十月号 の 婦人の一芸一能 に掲載されたものである。
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「久野久子嬢告別演奏会」(京都)(1923.3.6)

2017年02月10日 | 久野久子 1
 

 ベートーヱ゛ン後期作品研究発表
 久野久子嬢告別演奏会
   主催 東京音楽学校京都在住卒業生
   賛助 日本女子大学桜楓会京都支部
       京都音楽奨励会

           会場 岡崎公園、京都市公会堂 〔下の写真は、絵葉書のもの〕

                

           時日 大正十二年 〔一九二三年〕 三月六日 火曜日午後七時

      ルードウヰ〔小文字〕ッヒ ワ〔濁点あり〕ン ベートーヱ゛ン            
              (1770-1827)

  一、告別奏鳴曲、作品八十一の甲、變ホ調
      緩徐調              (千八百九年五月四日作)
       快速調
        表現的併歩調
          最疾速調
  ニ、ハムマーグラ井〔濁点あり〕ーア奏鳴曲、作品百六
      快速調              (千八百十八年作)
       諧謔調
        緩徐調(音を支持して)
         遁走曲

      休憩 (十五分間)

  三、奏鳴曲、作品百十、變イ調
      唱謡中庸調            (千八百二十一年十二月二十五日作)
       最快速調
        哀歌調
         遁走曲
  四、最終奏鳴曲、作品百十一、ハ短調
      壮厳調              (千八百二十二年一月十三日作)
       快速調
        小歌調

 
 

 表紙には、「ベートーヱ゛ン後期作品研究演奏会曲目梗概 演奏者 久野久」とある。最終頁の終わりには、「(大正十二年 〔一九二三年〕 一月)」とある。18.5センチ、12頁。
 下は、その冒頭である。

 ルードヰツヒ ワ゛ン ベートーヱ゛ン(一七七〇 - 一八二八)は古来世界が出した最大の巨人中に数へらる。『独逸は滅びてもベートーヱ゛ンは滅びない。』とは独逸人の天下に傲語する言葉である。フレデリツク大王、ウヰルヘルム二世の鴻業も、ビスマークやモルトケの雄図も今は空しい夢となつた。併しベートーヱ゛ンは燦として、天日と共に光を改めない。全世界の音楽界は最大の礼を此巨匠が在天の霊に捧げることを永久に続けるであらう。
  ベートーヱ゛ンは奏鳴曲に於て古今独歩の大家である。ハンス フオン ビユーローはバツハの『平均率洋琴曲 ウヲールテムペリールテクラフイーア』を評して、洋琴曲の旧約聖書となし、ベートーヱ゛ンの洋琴奏鳴曲はその新約聖書であると云つた。蓋し至言である。彼が此形式を特に愛し、之に不朽の生命を與へたことは何人も否むことは出来ないであらう。〔以下省略〕

 〔以下、各曲目の梗概は省略〕

 

 復活の久野女史

 先年『月光の曲』其他の名曲を演奏して以来五年間、鳴かず蜚 と ばず専念研究中であつた東京音楽学校教授ピアニスト久野久子女史は一月下旬ヴエトウベン第三期の作品中大曲四曲を選んで之れを公演することに決定し、目下すべての来客をさけて猛烈な練習をしてゐらつしやいます。それを傳へ聞く音楽ずきは演奏の日を指折りかぞへつて待てゐます。

 上の写真と解説は、大正十二年一月一日発行の『淑女画報』一月号 第十二巻 第一号 に掲載されたものである。

     

 上左:『国際写真情報』 第二巻 第四号 〔大正十二年:一九二三年 四月号〕 「春の婦人界」の写真六枚中の一枚〔その一部〕。

  近く音楽研究の為渡欧する久野ひさ子 〔久野久子〕女史の、送別演奏会に於ける同女史の演奏ぶり。
  Miss Hisako Kuno, a talent pianist and professor of the Tokyo Academy of Music, held a farewell recital on Feb. 17. 〔17日は誤り?〕 

 上中:四月一日発行の『淑女画報』 四月号 第拾貳巻 第四号 の口絵「花環を受けて」にあるのもの。

  今回渡欧することになつたピアニスト久野久子女史は久しぶりに東京音楽学校で送別演奏会を開きました。

 上右:四月一日発行の『写真通信』 四月号 一百拾号 の「大正写真日誌」にある。

  二月廿五日 久野女史告別演奏

  欧洲留学を命ぜられた音楽学校教授久野久子女史は同校講堂で告別の演奏会を催した 

 下は、大正十二年三月廿五日号の『サンデー毎日』二巻十四号に掲載された「◇婦人の世紀◇今泉静江◇  独身の淋しさも覚えず たゞ 芸術に精進する久野久子女史 不具の身の煩悩は今日の地位を占める基石 ベートーヴエンを弾き得る日本での第一人者」中の、女史の発言と思われる部分全てと訪問した記者の記述などである。

 一天才ピアニストと親しく語り得るといふ歓 よろこ びを胸に包んで、久野久子女史のお宅を訪れたのは、音楽学校に職員会議のあつた午後でした。〔以下省略〕

 女史の音楽談

 「私は作曲が出来ませんから、作られたものを弾きこなす丈 だ けなのですが、それさへ只 ただ 、無暗 むやみ に練習して弾くに過ぎませんでした。和声学によつて、一小節づゝの音譜を分解し、研究するやうになつたのは、極 ご く最近の事で、二三年前まではほんとうに幼稚なものでした。この前大正七年に、ベートーヴエンの前期作品を発表いたしました時などは、矢張り、その幼稚な考へで練習してゐたのです。丁度身体の組織を知らない医者が、腫物 しゆもつ を治療するのにその下にどういう腺があるかを研究しないで、単に出来た腫物を切り取るのと同じやうなものでした。一昨年の夏頃それがはつきりと分りましたので、本式に勉強し直して今度の告別演奏会で、ベートーヴエン後期の作品を弾きました。演奏には気分といふ事も非常に大切な事で、曲がしつかりと自分のものになつてをりましても、その時の気分で思ふやうに参りません。この間の会も、自分では失敗だと思つてゐます。ベートーヴエンの物を弾く方がお聴きになつて、嘸 さぞ あはれに思はれた事だらうと恥 はず かしくなります。欧洲へ行けば私位の弾手 ひきて はざらにある、いやざらにゐる方 かた でも私よりずつと優れた腕を持つてをられるでせう。いつでも会の後には恥 はぢ を残します。けれども、以前の時より今度の方が失敗が大きかつたといふものゝ、自分の考へが一歩進み、練習の方法も深い処へ手が伸びたのですから、それだけ、進歩したといふ事が出来るでせう。そして私が全く二心 ごゝろ ない真剣さでピアノに向ふといふ事は、誰れの前にも誇り得ると思ひます。二心を持たぬと云ふことは何でもないやうでありながらなかゝ六ヶしい事で、上手下手は別として、芸術に対する純真な心持ちにおいては、私のやうな小さい一女性でも、ベートーヴエンやゲーテ、ミレーにしろ、ロダンにしろ、どんな大聖人大芸術家とでも伍し得るものだと信じます。どうしても音楽に一生を捧げねばならぬとか、何でも彼でもピアノに全身を委 ゆだ ねゝばならぬものだと、自分を励ました時代もありましたけれど、今ではさういふ消極的な考へはなくなつて、心の全部が音楽に向ひ、真剣に研究する事によつて幸福を感じ、歓 よろこ びが湧いて来て、独身の淋しさも思はねば、世俗の辛さも一向感じられません。私はまだゝ学ばねばならぬ事がたくさん残つてゐますから、これから独逸へ行つて満二年間勉強する積 つも りです。〔以下は、記者の記述と思われ、省略〕

 邦楽から洋楽へ 〔下は、その一部〕

  来 きた る四月十二日に故国を後にして、渡欧せられますが、途中満州方面で演奏会に臨み、上海に出て独逸に向はれるのでの、渡欧は往復を除いて満二ケ年の予定ださうです。出発迄には長崎へ演奏旅行せられるのですが、腕を少し損 いた められたので、しばらく磯部温泉で静養する事になり、私の伺つた時には、既にトランクが二つ玄関先で女史待つてをりました。四時に上野を発 た つといふので、如何にもお忙しさうでありましたが、不自由な足で廊下を走りながら、先客の去つた応接室へ招じて下さいました。
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慈善音楽会 東京音楽学校 (1919.11)

2015年12月24日 | 久野久子 1
 

      会場 於上野公園 東京音楽学校
      開演 大正八年十一月八日(土曜日)九日(日曜日) 午後一時
  慈善音楽会入場券  (参円)

           櫻楓会東京支部  取扱者 二回生

  桜楓会東京支部主催慈善音楽会趣意書

 顧れば、吾が櫻楓会が畏くも、代々木葬場殿一部下賜の光栄に浴し、江湖諸賢賛同の下に府下巣鴨宮下町に託児所を建設致しましてから、既に四年の年月を閲 けみ し其間多少の成績を挙げ得たことを感謝して止まない次第で御座います。
 託児事業は、一つは労働者の子供を預つて保育し彼等の母親達に神聖な働きを続けさせようとする労働奨励の意味と、一つは彼等子弟を教養して堅実なる国民たらしめんことを目的とするものでありまして、目下労働問題を以て紛糾を極めて居りまする我国の社会状態を顧みますれば、益々此の事業を発展させて積極的にそれ等の人々を精神上と物質上との両方面より救済指導することの誠に急務であることを切実に感ずるので御座います。
 以上の趣旨から吾が櫻楓会では更に本事業の第二拡張として昨年来府下日暮里町に常設第二託児所建設の義が起りました所、幸ひにも有志諸氏の御同情によりまして愈々本年十月中旬右託児所は竣工を告げ近々開所するの予定となつて居ります。
 今回更に右新築託児所の設備費並びに経常費募集の目的を以て、来る十一月八、九日(土曜日、日曜日)の両日、東京音楽学校(上野公園内)に於て慈善音楽会を開催致します。
 希 こひねがは くば有志諸賢が此の挙に賛同せられて、あまねく御助勢あらむことを偏 ひと へに懇願致す次第で御座います。

    曲目

  第一部八日、九日

 一、絃楽合奏     大塚淳 外十二名
     A、アンダンテ、カタービル、      チヤイコフスキー作曲
     B、トラウム、デヤ、ゼンネリン、    ラビッキー作曲
 二、ヴアヰオリン独奏 末吉雄二
     コール、ニー、ドライ          ブルッフ作曲
 三、ピアノ独奏    久野久子
    (1)A、春に              グリーク作曲
       B、「ノルウエー」の結婚行列    グリーク作曲
    (2)  リゴレツト(ヴエルの歌劇より) リスト作曲
 四、絃楽合奏     大塚淳 外十二名
     メリー、ウイドウ            レハール作曲

  第二部

    (八日)     (九日)

  一、常磐津     一、常磐津        常磐津松尾太夫 常磐津志妻太夫 常磐津彌生太夫(八日) 常磐津歌妻太夫(九日)
     靭猿        戻り橋  三味線 上調子 常磐津文字兵衛 常磐津文字助

  二、三曲合奏    二、三曲合奏  琴    今井慶松
     松風        根引の松 三絃   山室千代子
                    尺八   荒木古堂

  三、長唄      三、長唄     長唄  吉住小三郎 同 吉住小三蔵 同 吉住小四郎
     綱館の段      時雨西行  三味線 杵屋六四郎 同 杵屋和三郎 同 杵屋六次
                     笛   住田又兵衛 小鼓 望月太左吉 太鼓 望月左吉 同 望月長四郎

  PROGRAM

     PART Ⅰ.

  Ⅰ String Orchestra
     a An dante Cantabile ‥‥ Tschaikowsky.
     b Traum der Sennerin ‥‥ Labitzky.
        Mr.Otsuka and his troups.
  Ⅱ Violin Solo
       kol Nidrei ‥‥ Bruch,
        Mr.Sueyoshi.
  Ⅲ Piano Solo
     1 a An den Fruhling.(op.43) ‥‥ Grieg
         (To Spring)
       b Norwegischer Brautzug im voruberziken.
         (Norwegian Bridal procession)(op.19) ‥‥ Grieg.
     2  Rigoletto
         Oper von Verdi
          Concert-Paraphrase ‥‥ Liszt.
              Miss Kuno.
  Ⅳ String Ochestra
     Merry Widow ‥‥ Lehare.
        Mr.Otsuka and his troups.

     PART Ⅱ.
   (At Ⅰ P.m. 8 Nov.)
  Ⅰ Tokiwazu:-Utsubozaru ‥‥
      Tokiwazu Matsuodayu & his troups.
  Ⅱ Sankyoku Gasso:-Matsukaze
      Koto ‥ Imai Yoshimatsu.
      Sangen ‥ Yamamuro Chiyo.
      Shakuhachi ‥ Araki Kodo.
  Ⅲ Nagauta : - Tsuma yakata no dan ‥‥
      Yoshizumi Kosaburo & his troupus.
     PART Ⅱ.
   (At Ⅰ P.m. 9 Nov.)
  Ⅰ Tokiwazu:- Modoribashi ‥‥
      Tokiwazu Matsuodayu & his troups.
  Ⅱ Sankyoku Gasso:- Nebiki no Mmatsu.
      Koto ‥ Imai Yoshimatsu.
      Sangen ‥ Yamamuro Chiyo.
      Shakuhachi ‥ Araki Kodo.
  Ⅲ Nagauta : - Shigure Saigyo
      Yoshizumi Kosaburo & his troupus.
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「卒業証書授与式順序」 東京音楽学校 (1906.7.7)

2015年11月28日 | 久野久子 1
  
 
 明治三十九年七月七日(土曜日)午後三時
 卒業証書授与式順序    東京音楽学校 

 第一部

  報告
 一 卒業証書授与
 一 校長告辞
 一 文部大臣祝辞
 一 卒業生総代謝辞

 第二部

 一 箏        器楽部卒業生 河野ヒデ
    嵯峨の秋    ‥‥‥‥‥‥ 菊末調
 一 合唱
    甲 玉匣    ‥‥‥‥‥‥ バハ作曲
                   鳥居忱作歌
    乙 霜の旦   ‥‥‥‥‥‥ ボヘミヤ民歌    
                   旗野十一郎作歌
    丙 征途の夢  ‥‥‥‥‥‥ エー、ヨルク作曲  
                   鳥居忱作歌
 一 ピアノ独奏    器楽部卒業生 川久保美須々
    ソナタ  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥ ベートーフェン作曲
 一 ヴァイオリン独奏 器楽部卒業生 鳥居つな
    ベルソイス ‥‥‥‥‥‥‥‥ ゴダール作曲
 一 オルガン独奏   器楽部卒業生 加藤ブン
    アレグロ ‥‥‥‥‥‥‥‥‥ ギルマン作曲
 一 ピアノ独奏    器楽部卒業生 澤田柳吉
    ソナタ  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥ ベートーフェン作曲
 一 ヴァイオリン独奏 器楽部卒業生 吉澤重夫
    甲 サラバンデ ‥‥‥‥‥‥ バハ作曲
    乙 ルール
 一 ピアノ独奏    器楽部卒業生 久野ひさ
    コンセルト ‥‥‥‥‥‥‥‥ ベートーフェン作曲
 一 合唱
    神武東征 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥ ヘンデル作曲
                   鳥居忱作歌

 GRADUATION EXERCISES of the Tokyo Academy of Music.  UENO PARK.
   Saturday july 7th, Meiji 39, (1906) 3. P.M.

   PROGRAMME.

    PART Ⅰ.

 Ⅰ.Report.
 Ⅱ.Presentation of Diplomas.
 Ⅲ.Address to the Graduating Class by the Director.
 Ⅳ.Address by His Ecellency Mr.Makino, Minister of State for Education.
 V.Response by the Representative of the Graduating Class.

    PART Ⅱ.

 Ⅰ.Koto :
    Saganoaki.
       Miss Kono.(Graduate.)
 Ⅱ.Chorus :
    a. If I shall e❜er forsake Thee ‥‥‥ Bach.
    b. Bohemian folks song ‥‥‥‥‥‥‥‥ 
    c. Heimweh : ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ E.Jork.
 Ⅲ.Piano Solo :
    Sonata in A Major  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ Beethoven.
       Miss Kawakubo. (Graduate.)
 Ⅳ.Violin Solo :
    Bercuese ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ Godard.
       Miss Torii.(Graduate.)
 Ⅴ.Organ Solo :
    Allegro Maestoso ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ Guilmant.
       Miss Kato.(Graduate.)
 Ⅵ.Piano Solo :
    Sonata in E major op. 14. ‥‥‥‥‥‥ Beethoven.
       Mr. Sawada.(Graduate.)
 Ⅶ.Violin Solo :
     a. Sarabande ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ Bach.
     b. Loure
       Mr. Yoshizawa.(Graduate.)
 Ⅷ.Piano Solo :
    Concerto in C. Major ‥‥‥‥‥‥‥‥‥ Beethoven.
    (Cadenz by Kullak.)
        Miss Kuno.(Graduate.) 
 Ⅸ.Chorus :
    Halleluja from the Messiah ‥‥‥‥‥‥ H●ndel. 

 

 上の写真は、「東京音楽学校」とある絵葉書のものである。
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「舞台のピヤニストから聴衆へ」 久野久子 (1922)

2012年11月23日 | 久野久子 1
 舞台のピヤニストから聴衆へ 
      西洋音楽を聴く時の心持
              東京音楽学校教授 久野久子

  

  (ピアノに向かふ久野久子嬢)

  演奏者の名を聞く人

 西洋音楽を聴く人に対して私が望むことは、第一に音楽家を聴かずして音楽そのものを聴くといふ風であつて欲しいと思ひます。
 近頃では西洋音楽に趣味を持つ人が大分多くなりましたが、まだ一般には本当の趣味は更に普及してをりません。大抵の人は、あの人のピアノだから聴きに行かうとか、大家だから名人だから聴いてみようとかいふ風に、人を標準に考へてをります。これでは真に音楽といふものを理解して聴きに行くものとは申されません。勿論人も大切ではありますが、真に音楽に対して感興を持つのでなければ、音楽を聴いたといふことはできないと思ひます。音楽の価値は弾く人によつて決定するのでなく、音曲そのものによつて決定するのであります。勿論弾く人の熱心と技巧にもよりますけれどもー。

  作曲者の前に立つて

 第二に、音楽を聴く時の態度は、たとへてみると、ベエトオヴエンの作曲であれば、聴き手は全くベエトオヴエン自身の前に立つた態度であつて欲しいと思ひます。ややもすれば演奏者の技巧について彼是と批評することばかり考へて、曲に対する敬意と申しませうか、これを厳粛な気持で受入れるといふ気持が少ないやうです。これではどんな名人の作曲でも本当のことは到底諒解されまいと思ひます。
 第三は、ただピアノを弾く人でなく、作曲家自身の前に立つてゐるといふ心持ができたならば、今度は曲そのものに全く同化し得る態度があつて欲しいと思ひます。ただ楽観的に音楽を聞いてゐるといふだけでは、折角の名曲も十分その価値を味はふことができずにしまひます。ですから、シヨパンを聴く時には、私どもがシヨパンの心持になつて初めてシヨパンの曲が理解されるのであります。即ち、シヨパンになつて初めてシヨパンがわかり、ベエトオヴエンになつて初めてベエトオヴエンがわかるのです。
 音楽を聴く人は、その小さい先入主をすつかり捨てて、全く虚心坦懐の気持にならなければなりません。それでこそ人間の魂の奥底から湧き出る悲壮な神秘をキイの響きから聴取ることができるのであります。
 第四に、これから推して考へると、演奏者は全く作曲者の仲介者であるべき筈であります。さすれば聴く人は演奏者の音楽を聴くのでなくて、演奏者に仲介して貰つて作曲者の名作を聴くのでありますから、私はピアノにむかつて演奏する時には、楽聖に対して非常に重大な責任を感じます。この厳粛な心持を聴衆が感じて聴いて下されば幸ひであると思ひます。
 私がピアノにむかふ時は、真にわれもなく人もなく、夢中に曲に同化してキイを打ちます。その時の曲そのものは私の生命の表現であります。そして、それを聴衆がいかに聴くか、如何に感ずるかといふことは少しも考へてをりません。しかし、音楽を聴く人の心得をとのお尋ねに対しては、前に申上げた通りお答する外はありません。
 私の前に美しい花束が飾られるのは取りもなほさず、これを楽聖に取次いだに過ぎません。また聴衆もその意味で楽聖に捧げる態度でゐて欲しいといふことを切望いたします。

 上の文と写真は、大正十一年 〔一九二二年〕 一月一日発行の『婦人世界』 一月 第十七巻 第一号 に掲載されたものである。

  

  忠実に演奏し終つた時 久野久子
      
      ○
 人と相対した時、又人の芸術に触れた時、何とはなしに一種の引付けられる感を抱かせられ、永く自分の印象に残る強さが強いほど、其相手の人が偉いのです。例へば其人が学者であらうと、又事務家であらうと芸術家であらうと、又男であらうと、女であらうと何人たるを問はず、其人の一言一句、又其人の腕から手から、指から沸く芸術は、其人の生まれながらの性格の根底に横たはる真実と、努力から迸(ほとばし)り出たものであるならば、他人を引付け様として意識的に技術をつかうのでも何でもなくとも、真実の波は相手の真実性に電波の様に伝はつて感動させるものです。この様な力ある人は確に偉い人です。
 この真理は音楽に於ても同じ事であつて、人を感動せしむる音楽は、音楽家自身の真実の発露でなければなりません。楽壇に立つて多くの聴衆を相手に演奏しましても、主観的には其の聴衆は相手ではありません。演奏者は自分に向つて集まる何千何万の眼と、耳を超越して、唯ひたすらに自分の内心に動く芸術の波を、忠実に演奏し終つた時が、人を最も感動せしめた時です。それは丁度兵士が戦場での命懸けの戦に等しいものです。
      ○
 此状態は芸術家のエクスターシーであつて、目に見えない偉大な力と、芸術家の力と、不可思議な合一の様に思へます。かうした芸術を生み出す人、又生み出さうとする人は、何時も自分の芸術の根本性の律動に耳を傾けて、より深い、より充実した芸術を生み出さうと努力します。かういふ人にとつて芸術は人と競争すべきものでもなく、聴衆の賛美を目的とするものでもないことは明らかです。
 私は常にピアノと健康さへあれば、それで足れりとします。名誉も、讃美も他のどの様な幸福も敢へて求めません。ピアノのキーに自分の情熱を吹き込む時にも、又練習の何回と数しれぬくりかへしの時にも、私には世界に何ものもありません。唯云ふに云はれない法悦の心に充されます。
      ○
 芸術は人格の発露ですから、真の芸術は善に強い人格から生れ出ます。悪人からは如何に技術や、才能があつても、真の芸術は生み出し得られません。かうした善に強い立派な性格の持主の情熱が、努力によつて理性に結び附けられて、よりよいものを生み出さうとして励み行くところに、真の貴い芸術が生み出されます。
 天才を気取つた放縦な芸術は、真の芸術ではありません。天與(てんよ)の才はより多く所有して居りながら、性格の破産の為に十分其才を育て得ずして終る人が多くあります。又一方に始めは、それ程才が無くとも、性格の立派さが其れを打ち破つて、立派な芸術を生み出す人もあります。私共人間の才も、宝石と同じ様に、磨いて始めて燦然たる光を放つ様になります。一度音楽に志しても、自分の才能が足りないと悲しんで、中途で止めてしまう人がありますが、其様な人も、もつとゝ努力して、自分の才の泉を掘りあててみなければ分りません。或は思ひ懸けない力が潜在して居るかも知れませんから。何しろ根強く自己の才能を開拓して行かなければなりません。その内には自分の性格もよりよく教養され、本当の芸術家に、又人間にもなれます。
      ○
 真の芸術家…云ひかへれば音楽家は、本当に芸術を理解しようとする熱心な人も、又無理解な人をも其芸術の力で陶冶して、つまり修身の教にもあたり無言の内に他の人各を教育して居るのです。どうか私共はかうした関係に於て、お互に自分達の芸術をよりよいものに磨き上げて行きたいものです。此所迄来ると修身の教も音楽も一に帰します。
 音楽は人を情熱的な気高いものに作り、そして其楽音は人の力で生作されます。

 上の一文は、大正十一年二月一日発行の『婦人画報』二月の巻(第百九十四号)に掲載されたものである。

 

 ◇私は何故に結婚しないか 

 ○ピアノが私の生命 東京音楽学校教授 久野久子

 何故に独身生活を、それから今までの心持をまた感想を、とのおたづねに、何とお答へがいたされませう!たゞざつと私の摑み得たことだけを申してお答へといたしたく存じます。
 私は明治十八年十二月二十四日、滋賀県大津市松本の石場と申す(私の家の裏手が琵琶湖でございます)ところで生れました。家から約一丁ほど離れたところにある松本神社が、産神様でございましたが、私が生れて半年目、梅といふ女中が、神社の石段から過つて私を落し、丁度器械体操などをして腕をはづしたときのやうに、私の足のつけ根をはづしてしまひました。まだ赤坊のことゝて、その夜から一週間ばかりは痛さに泣きつゞけました。幸か不幸か外面には傷を受けませんでしたので、家人には私の泣く訳がわからなかつたのでございます。やつと泣き止みはいたしましたが、三歳四歳と年をとつても、一向に歩きませんので家人は初めて不思議に思ふやうになりました。その歩き方が変なので、皆が寄つては心配いたしました。
 私の両親は不具者になつた私を、琴や三味線の師匠にしようといふので、六歳のときから私に琴の稽古をいたさせました。丁度尋常三年生のとき、兄が中学へ入りましたのと、それに京都は古くから生田流の本場でございますので、かつまた母が私を立派な師匠に仕込みたい一念からとで、たうとう私を京都へまで連れてゆき、生田流の名人古川龍斎先生について稽古をいたさせ、遂に奥許しを受けるまでになりました。それは私の十三歳のときのことでした。奥許しには誓書(誓いの証書です)には血判を捺(つ)くことになつてゐましたので、この時私は古川先生のお杯(さかづき)を受けまして母が針で私の人差指を突き、血を出して血判を捺させてくれたものでした。そのときのことを、私は今もはつきりと覚えてをります。そして私は、学校は尋常四年を卒業したきりで、それからといふものは、一年に三四度遊びますだけで、毎日く朝から晩まで、琴と三味線を仕込まれてをりました。私の十五歳の十二月二十一日、母は永らく病気をした上、この世を去つてしまひました。
 けれども兄は京都の高等学校にをり、私はやはり琴三味線を古川先生に就いて学んでをりましたが、兄が友人から、東京に音楽学校のあることを聞いて、そこへ私を入れようと、そのことを父に申しました。そこで私は明治三十四年九月、辛(から)。うじて入学することができました。このやうな訳でございますから、独身でゆく決心などをいたしてゐた訳では決してございませんでしたけれど、自然にさういふ風になつてきてしまつたのでございます。 
 現在の私の感想や心持などは、いろゝありまして、到底も書き尽されません。西洋人と同じやうに年を数へますと、私は今日で三十六年と五日この世に生きてきました。音楽学校は入学して一年後、病気でまる一ヶ年間を休学しまして、明治三十九年七月卒業いたしましたが、それから後十年余りの間にには、私のやうなものにでも結婚の話がないこともありませんでした。心の動揺もいろゝありましたが、それをやつと通り越してきた現在の私には、ピアノのキイを弾つほかに何の興味も希望もありません。どのやうな愛も宮殿も決していやとは思ひませんが、少しもそれらを望まうとは思ひません。しかし現在切に望ましく思ふものはたゞ一つあります。それは時間であります。二三年でもよろしいと思ひますが、専心勉強し得る時間が欲しうございます。それにはいろいろと理由があるのです。
 一昨九年夏、私がピアノの上に長い間の一つの疑問がありましたのが、(それは私のどうしても絶望するより外いたし方ないものと断念めてゐながら、しかもそれを思ひ切れずになほ研究を続けてゐたものでございましたが)それがやつと解決されたのでございます。そのために私は非常に力を得る様になりました。この上は、幸ひ私は身体も丈夫であり、精力さへ続けば、現在の哀れさも、十年のうちには屹度破つてゆかれよう、屹度ゆけると、激しい心に奮ひ立つたのでございます。
 しかし私の現在は、一週間の七日のうち、二日間も勉強のために時間をとることもできないくらゐの忙しい身でございます。といつて自ら身を退いてしまふことはなかゝ困難なことです。さりとてこの切なる望みを捨てゝしまふことは、尚更できないことでございます。是非にも何とかして、心ゆくばかり勉強したいと希つて止みません。
 とは、申せ、私も心の底からの深い幸福をも豊かに持つてをります。それと申すのもピアノのお蔭で、私はオールドミスの寂しさなど感じたことはありません。善と真実なるものゝほか、何ものをもまざらしむべきではない私の心には、世の中の人と人との関係の、余りにもうそ寂しい例の、多くあるのを見せられるたびに、何となく情けない気持をさせられ、自分の独身でゐることを、却て仕合せにさへ思ふほどでございます。そして自分の仕事に、身も心も打込んでゆくことのできる幸福さを、しみじみ有難く思ひます。さうは申上げますけれど、私が大正四年一月、自動車に轢かれましたとき、皆様から受けました深い御同情を、今もなほ感謝してをります。ゴッホが『恨みも愛に云々(うんぬん)』と申してをられましたが、私は如何なる人に対しても、何時(いつ)も喜びの心を持つてお対(むか)ひいたしたう存じます。ましてこのやうなお情けを受けます私は感謝と共に、力の限り勉強して、お礼をいたしたいと燃ゆるやうな心持でをります。

 ○音楽の研究に 東京音楽学校教授 小倉末子

 貴社は私が独身生活を決心したものとしてその感想を聞かせよとの御依頼状を下さいましたが、現在私はまだ音楽研究中の一学生に過ぎないのでございますから、独身生活とか、結婚とか申すやうなことにつきまして、少しも考へましたこともございませんのですから、お尋ね下さいましたことに、お答へいたす何ものをも持つてはをりませぬ。

 上の二つの文は、大正十一年二月十五日発行の 『主婦之友』 二月十五日号 第六巻 第四号 に掲載された四人〔他の二人は、小説家 田中純、小説家 三津木貞子〕の回答中のものである。
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「久野久子女史」 三木楽器店 (大正)

2012年11月23日 | 久野久子 1
  

 左の写真: Miss. H. Kuno Stainway Piano スタインウエーピアノ総代理店 大阪 三木楽器店 神戸
 右の写真: 久野女史 山葉ピアノ発売元 三木楽器点 大阪市東区北久寶寺町四丁目  

 ○久野久子愛用のピアノ

 新潟県村上市の村上歴史文化館で展示されている。ドイツ・ベルリンのキャロル・オットー〔CARROL OTTO〕のピアノである。

 

 ○久野久子女史恢復祝賀演奏会

 

     曩に自働車で大負傷の東京音楽学校教授久野久子女史全快後十二月三日同校に一大祝賀会が開かれた中央は同女史也

   上の写真と説明は、大正六年 〔一九一七年〕 一月一日発行の『写真通信』 壹月号 第三十三号 にあるもの。

  久野久子女史恢復祝賀演奏会曲目梗概   乙骨三郎

 一、ベートーヴヱン作ヘ短調ソナータ(作品五七)

   一八〇七年に出た此のソナータは作者の成熟期の作品中異彩あるものと評せられて居る。『激情的 アパショナータ 』といふ通称は作者自身の命名でないので、不当又は無用との説がある。曲趣は暗澹たる嵐の夜の様で、ベートーヴェンの作中にも、これ程物凄いものは前後にないとマルクスは言つて居る。この恐ろしさの中で第二の緩徐調は敬虔な祈祷の如くに聞える。

 二、グリーヒ作
  (イ)春に
  (ロ)諾威 〔ノルウェー〕の婚礼行列

   作者は諾威の国民的楽家、本曲は其の秀実なるピアノ小曲の中なり。

 三、ショパンのホ短調コンセルト(作品一一)

   波蘭 〔ポーランド〕 の天才が遺せるコンセルト二二中の一、一八三〇年の作で、最初ワルソー 〔ワルシャワ〕 で演奏せられた今度は第一楽章快速調 アレグロ のみに止む。
   リストはショパンのコンセルトやソナタの作に『神様よりも寧ろ多くの意思』を認むるに難からず為したが、而も『ショパンの古典的企図は稀に見る精美の作風によりて異彩を放ち、非常に興味ある通過句、意外い壮大なる部分を含む』と言うて居る。
   ショパン研究者ニークスはショパンのコンセルトの全体の構造に就て批評し且つ管絃部(殊にピアノと連合せる場合)の独奏部に比して聴き劣りすること等を説いた後、語を改めていふ。『しかも細部の嬌絶可憐纎麗優雅絢爛なるは能く人をして其の全体上の欠点を忘れしむ』と。
   作者は創作当時の書簡に於て自ら此の快速調を、『活溌』なるものと評せり。

 四、リスト作リゴレット改作曲

   ヴェルディ(Verdi)の歌劇『リゴレット』の第三幕に出る美しい歌詞をピアノに移して華美な装飾を加へたもので、一八五九年ビューローの為に作つたといふ。

 五、(イ)ブラームス作ト短調ラプソディー(作品七九ノ二)

   近代器楽のラプソディーといふは普通に若干の民謡調を接ぎ合せたファンタジーの様な曲を指すが、ブラームスのこれは作者自身の考へたバラッド風のピアノ曲で、全体陰鬱の情趣に充ちて居る。旋律 メロデイ が時々停つて考へ込む様なのも此の曲の一特性である。

   (ロ)ショパン作曲短ハ調練習曲 エチュード (作品一〇ノ一二)

   一八三一年ワルソーが露国に占領せられた時、之に檄して(スツットガルト滞在中に)作つたものといふ。ショパンのエチュード中の秀逸に属し、又た全作中の最も壮大なものである。左手が性急に走過する間に右手は激烈な怒声の如き音を打ち込む凡て作者の憤怒に堪えぬ気分を表はすものと見られる。ショパンの作曲上の特性も遺憾なく此の曲に現はれて居る。

 六、リスト作フンガリア 〔ハンガリー〕 (ニ短調)

   所謂『管絃楽の詩』(symphonische Dichtung)を二箇のピアノ曲に改作したるものゝ一である。管絃楽詩はリストの大成した曲体で、詩的内容を器楽にて表出せんとするものである。全篇は三部に分れ、其の第一は圧制を脱せんとして武装するフンガリア、第二は自由の為の戦闘、最後は勝利せるフンガリアを表はすものだといふ。即ちリストが祖国の歴史を概括的に描いたもので、フンガリア風の調に充ちて居る。曲の中頃の戦闘を描いた部分に勢よき国民的軍歌に次で現はるゝ葬送進行曲 フユネラルマーチ (緩徐調)は名誉の戦死を遂げた勇士の弔ひ歌に聞かれる。(十月廿七日)

 上の曲目梗概は、大正五年 〔一九一六年〕 十一月発行の『音楽』七巻十一号に掲載されたものである。

 なお、翌十二月発行の『音楽』七巻十二号 の楽人動静に次の記載がある。

 ■同日〔十一月十六日〕御前演奏を承つた光栄あるピアニストの久野久子女史は予報の如く十二月三日に音楽学校で学友会の女子大学桜楓会主催の大独奏会を終つた後京阪在住同窓及び有志の熱心な需めに応じて十二月九日及び十日の両日同地に於て、盛大な独奏会を開かれるとの事である。

 

 名誉の久野女史

 昨年十一月十六日、皇后陛下が上野の音楽学校に行啓あらせられた時、御前にてピアノを奏して名誉を博したる楽壇の天才久野久子女史です

 上の写真と説明は、大正六年一月発行の『婦人世界』第十二巻第一号の口絵にあるもの。

 

 指から血の出るのも知らずに 東京音楽学校教授 久野久子

  京都で琴と三味線を習ふ

 私は滋賀県の生れで、小さい時は身体が弱うございましたから、学校は尋常四年を終へただけで、上の学校にはまゐりませんでした。母は芸事が好きでしたから、学校に通ふ代 かはり に京都に出て琴と三味線とを習ひました。三味線はさほどでもありませんが、琴は生田流で、古川といふ名人の先生について三百曲以上も修め、奥許 おくゆるし を取りました。
 十八歳の時、兄が東京の大学に入学することになりました。当時、東京へまゐるのは、世界を廻るよりも偉いことのやうに思つてをりましたが、兄は、母も亡くなつてゐましたし、私の末のためを思つてくれまして、一緒に上京して音楽学校に入学させてくれると申しました。
 兄は別に詳しい話はいたしませんでしたが、友人は、『西洋音楽は学校の教師になることができてよい』と申します。その頃、音楽学校出身の人が高等女学校の教師になつてをられるのを見て、『私もああいふ人になりたい』などと思ひました。

  師範科には入学ができぬ

 ところが、中学校や高等女学校の教師になるには、師範科に入学しなければなりません。さうするには中学校なり高等女学校なりを卒業してゐなければなりませんが、私は前にも申します通り、尋常四年を修業したばかりですから、師範科に入学する資格がありません。そこで、『教師は偉いものだ』と思つてゐても、学力がなくてはどうすることもできませんから、技芸教育を主とする本科を選びました。
 本科ならば、高等女学校二年の学力さへあればよいといふので、その入学試験を受けることにしました。普通の人は英語と唱歌さへできればよいといふのですが、私は、国語、漢文、作文、その他いろいろの試験を受けなければなりませんので、半年ばかりいろいろの学科を勉強しました。

  ピアノの音を琴かと思ふ

 明治三十四年 〔一九〇一年〕 の夏に 入学試験を受けました。その時、予科に本入学を許可された人が四十人あまりと仮入学を許可された人が四五人あつて、私は仮入学者の一人でした。九月から通学することになつて、生れて初めて海老茶の袴を穿くやうになりましたが、西洋音楽の素養は少しもありません。国にゐる時分に、オルガンは見たこともあり、その音を聞いたこともありますが、ピアノは見たことがないので、初めてその音を聞いた時、琴かと思ひました。
 しかし、学校といふことを知らないだけに呑気なもので、入学後七八ヶ月も経つのにピアノも買はず、音譜の見方もピアノの弾き方も知らずに過してをりました。それに、先生の講義の筆記ができないで困りました。幸ひに、深切な方があつて、筆記帳を貸して下さいましたので、それを見て勉強して、末から二番目の成績で本科に移りました。

  肋膜を煩つて一年間休学

 それでも及第したといつて、大きな顔をして帰郷しましたが、直ぐに肋膜を煩つて、一年間休学しなければならぬことになりました。慣れぬ学校生活をしたために、そのやうになつたのでせう。皆さんは、『気の毒だ。折角本科になつたのにー。』と同情して下さいましたが、私はそれほどにも思はず、故郷で呑気に暮して、一ヶ年間にすつかり癒(なほ)してしまひました。その時、父や親戚の人たちは、『また病気になつては困るから。』と申しましたが、本科になつたまま退学するのも残念ですから、『身体を大切にする』といふ条件で上京いたしました。そして、何といふ理由もなく、ただ『ピアノがよいから』と、ピアノを選んで選考することにしたのです。

  音譜が読めないで困る

 前に申しましたやうに、予科の時はさう勉強もいたしませず、おまけに一年間休学したので、何が何やら少しも分りません。幸ひに幸田延子先生に就くことになつて、深切に指導して頂きましたが、思ふやうに音譜を読むことができません。仕方がないから手を動かす練習をしましたが、音譜が満足に読めないくらゐですから、自由に手の利かう筈はありません。漸(やうや)くボツンボツンと弾くことができるくらゐのものです。
 しかし、ピアノに向ひますと、次第に身体が引締つて、何ともいへぬ感じがして来るやうになりました。心の奥に潜んでゐる或るものが現はれて、それが自分の手を伝てピアノに移つて行くやうに思はれてー今の言葉でいへば、芸術的感興とでも申すのでせう、知らず識らずピアノに引寄せられて行くといふ風でございます。

  卒業式の演奏で認めらる

 自分ながら拙いと思つて練習してゐるうちに、幾らかづつ上達したのでせう。一年より二年、二年より三年と、次第に成績がよくなつて、明治三十九年に首席で卒業しました。そして、卒業式の時、首席だといふので、貴顕紳士の面前でベエトベンのコンセルトを演奏しました。
 その時の文部大臣は、今度講和会議の委員として巴里にまゐられた牧野男爵で、卒業式に列席してをられました。私はその時は夢中で、お目にかかりませんでしたが、人の話に依れば、男爵は大層立派な方だといひます。大使として外国ににをられて、自然に音楽にも趣味を持たれるやうになつたのでせう、私の演奏に対して、有難いお言葉を下さいましたさうです。また理学博士田中正平先生もおいでになつて、やはり御厚意に満ちた、有難いお言葉を頂きました。

  助手になつて研究する

 私は卒業してから半年経つて、オオケストラ伴奏で音楽学校春季大演奏会に出ました。その時、ユンケル先生は熱心にタクトをして下さいました。これは、私の『門出の演奏』でございます。
 その後、左の人差指に●疽 ひょうそ ができて、骨がボロボロになるところを、当時赤十字病院の部長をしてをられた難波先生に治療して頂きました。指が癒つてから、『補助』として音楽学校にまゐいることになりました。補助といふのは教授の助手をするのですが、私は、『もう少し研究させて貰ひたい。』と申して、研究ばかりしてをりました。それから二年経つて助教授に任命され、一昨年(大正六年 〔一九一七年〕 )教授に任命されました。

  苦しいのは芸術的の煩悶

 音楽家といへば派手な生活をしてゐるもののやうに思はれますが、真の芸術に生きようとすれば、そのやうなことはできません。学校にゐる時にどのような苦しい思ひをしても、卒業してからの苦しみー芸術的煩悶よりは楽なやうに思ひます。私も、次第に自分の貧弱さが分つて来て、自ら進んで演奏会をするやうなことはありません。大抵外の人に勧められて出るのでございます。四年前に自働車で怪我をして、それが全快した時、田中先生を始め皆さんが、『全快祝に「独奏会」でもしたらよからう。』と申されて、初めて個人の演奏会をいたしました。その時、世間から好評を得まして、引続き諸方から『演奏会に出てくれ。』と頼まれます。どうしてもお断りができないで出席することも少なくありませんが、『もつと自分の技術を進歩させなければ申訳がない。』と、自分に寄せて下さる世間の同情を思ふにつけ、自分自身を責めて、苦しみながら生きてをります。

  三時間近くもかかつた曲

 最近に演奏会をいたしましたのは昨年 〔大正七年:一九一八年〕 の十二月七日でした。主催者は音楽学校の学友会で、場所はやはり音楽学校でございました。曲はベエトベンのソナタで、一期の終から二期までの作曲を五曲演奏しましたが、長いものばかりで、他の曲の十六曲分もあります。間に少しづつ休みましたが、全部で三時間足らずかかりました。
 これをいたします時、『少し多過ぎはしないか。』と思いひましたが、『私の力のかなふ限り弾いて見よう。』 と決心したのでした。その時においでになつた方は、『よく弾かれたものだ。』といつて、感心してをられました。

  十一回も演奏会を催す

 それが評判になつて、女子大学の『桜楓会』から演奏を依頼されました。女子大学は一週間に一度づつ、長い間勤めてをります上に、日頃から深い同情を寄せて下さいますので、まゐりましたやうな次第でございます。その音楽会は、寄附するためにも催されたのだといふことでございました。
 続いて、白樺同人の音楽会が催されて、やはり演奏いたしました。それから、名古屋、京都、神戸、広島、奈良、呉、福岡と、各所に熱心な音楽会が催されて、招聘されました。そのために、前後十一回も演奏いたしました。

  鍵盤を血だらけにする

 私は外のことにはさうでもありませんが、ピアノに向ひますと、自分の演奏する曲以外のことは何にも考へません。『どうすれば自分の思ふやうな音を出すことができるか』とか、『どうすれば、この曲を私の心の要求のままに生かすことができるか』とかいふことに夢中になつて、自分の身体のことなど考へてゐる暇はありません。
 ピアノを弾くには随分力が入りますので、感興に任せて一生懸命に叩いてをりますと、指に傷ができて血が流れ出ることがあります。しかし、自分ではさほど痛いとも思はず、終つてから鍵盤に血が着いてゐるのを見て驚くことがあります。

  変つた進みやうをしたい

 私は、まだ成功者と申されるどころか、月日が経つと共に技芸の未熟な点が眼について、自分自身を苦しめてをります。
 『どうしたら音楽の真髄を確実に摑み得るか。』
と、そればかりが気がかりでなりません。
 それて、今後どこまで、形の上にも生命の上にも、摑み得るか分りませんが、できるだけ勉強したいと思つてをります。私どもの到達すべきところは、ズツと遠い、限(かぎり)知れぬ深さと広さがあるので、うツかりしてゐることはできません。
 できるならば、グツと変つた進みやうをしたいと思つてをります。自分の哀れな力を磨き尽(つく)して、行きつけるところまで行き尽すより外に、よい方法はないと思ひます。

 上の文は、大正八年 〔一九一九年〕 三月五日発行の『婦人世界』 第拾四巻 第四号 婦人世界春季増刊 婦人成功号 に掲載されたものである。
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「悦楽安靖の道程」 久野久子 (1922.8)

2011年11月18日 | 久野久子 1
 「悦楽安靖の道程 久野久子」は、大正十一年 〔一九二二年〕 八月壹日発行の『改造』 八月号 第四巻 第八号 に掲載されたものである。
 それは、「名人「入神」の感想」の十二人〔久野久子、陶土師 眞清水藏六、新派俳優 井上正夫、落語家 柳家小さん、囲碁名人 本因坊秀哉、官休庵 千宗守、庭球選手 熊谷一彌、撞球選手 山田浩二、剣道師範 中山博道、帝劇俳優 守田勘彌〕のひとつである。

  悦楽安靖の道程 久野久子

 私の音楽に於ける感興は、私がこれまでピアノを奏でて来た中から自然に湧いて来たものです。私がピアノに対してゐる時は、それは絶対無意識の境で、私は只、自分のならしつゝあるピアノの音の中に恍惚の世界を築くことが出来るのです。それは世の中にはいろゝいゝものがあります。私は、人の愛も好きです。宮殿もすきです。併しそれは、好きではあるけれど、決して欲しいとは思ひません。私にとつて、無くてはならぬもの、それは只一つ、ピアノがあるのみです。私はピアノさへあつたら、此の世の中から、ありとあらゆるものを取除いて了つてもいゝ位に思つてをります。決して淋しいこともなければ、微塵の焦燥も感じは致しません。私にとつてピアノは、絶対自由の美しい世界を造つて呉れるのです。私はその世界で思ふさま、自分の生命を研ぎ進めて行くことが出来るのです。そしてそれは、ピアノから離れてゐる時でも私は同じです。只、自分にはピアノがあるといふこと丈けで、私のあらゆる心は満足しそして幸福なのです。ピアノに努力するお蔭によつて人世の悟りが開けるー何だか左うした境地に達したといふ気さへするのです。
 併し、私の今の芸術上の実力は、只思ふさへ、哀れさを感じないわけには行きません。
 私は只今まで三十六年半をこの世に生きて過しました。私は、私のこの哀れさを、私の死する日までに何れ程位の立派さに築き上げることが出来るかと、あわたゞしい心が迫ります。併し、いささか思ひ返したことには、私は仕事の上の若さを充分持つてゐると自信があることです。それは、私は先づ健康な体で居ります。而して心はいつも生きゝして努力に生きて行かれます。私は五十才、六十才まではキツト進歩して行かねば止まぬ決心を堅くもつてをります。私のこれから進み行く道は、わたしの頭にハツキリ鏡の様に映つてをります。私はすこしでも早く望みの進歩を得たいとは思ひ乍ら、一方には、丁度、眼前に美しい山を眺めながら、その山麓に到る道を行くやうな工合で、いさゝかじれつたい中にも今に得たいゝと思う、その道程を楽しみ安ずることが出来るのです。
 私は私の哀れさを感じながらも、其処には何の疑問もなく、不安もありません。私は愉快な気持で、おぼつかない足どりでその道程を歩いて行きます。
 私は健康のつゞく限り、一生懸命ピアノをひいて死にたいと思ひます。健康とピアノーこれは実に私にとつて無上の賜なのです。
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「ワグネルソサイエテイー春季大演奏会」 (1919.5)

2011年05月18日 | 久野久子 1
 

 「ワグネルソサイエテイー春季大演奏会 大正八年 〔一九一九年〕 五月二十四日(土)午後六時半 於芝区三田慶應義塾大講堂」とある。18.2センチ、片面刷り。

 曲目

 一、管絃楽 会員
     祭典進行曲‥‥ 大塚淳氏作 
 二、男声二部合唱  岡田壽 渥美鷹夫
     月夜   ‥‥ デイームス
 三、絃楽四部合奏  第一ヴアイオリン 早川義郎 
              第二ヴアイオリン 若杉盛治 
              ヴイオラ       三橋幾之助 
              セロ         山根憲一
     マドリガール ‥‥ シモネツテイ
 四、男声四部合唱  会員
     (イ)ウンテル アルレン ヴヰツフエルン イスト ルー ‥‥ クーラウ
     (ロ)セレナード ‥‥ ウヱツテルリンク
 五、ヴァイオリン独奏 加藤嘉一
     ハンガリアンダンス ‥‥ ドウルドラ
 六、管絃楽  会員
     パイザ リヴワー(ローマンス) ‥‥ モース
      休憩 十五分
 七、男声四部合唱 会員
     フローテイングミツド ザ リリース ‥‥ アトキンソン
 八、中音独唱  柳兼子夫人
     未定 ‥‥ 
 九、ヴァイオリン独奏  杉山長谷夫氏
     (イ)メデイテーシヨン作品八 ‥‥ ネメロフスキー
     (ロ)ガボツト、ロココ ‥‥ ヘッシエー
 十、低音独唱  樋口信平氏
     (イ)歌劇『ラボエーム』中のコートソング ‥‥ プツチニ
     (ロ)歌劇『ロメオとジユリエツト』中の一節 ‥‥ グノー
 十一、管絃楽  会員
      とかげと蛙 ‥‥ モールス
 十二、高音独唱  高折壽美子夫人
      『プロフエツト』の一節 ‥‥ マイヤベーア
 十三、ピアノ独奏  久野久子女史
      ワルドシュタインソナータ ハ短調作品五十三番 ‥‥ ベートーフエン
 十四、中音独唱  柳兼子夫人
      未定 ‥‥
      合唱、管絃楽指揮者 大塚淳氏
       ピアノ伴奏者     ゼームスダン氏 
                    高折宮次氏

      会費 貳圓 壹圓 学生 五十銭
      切符は市内各楽器店及当日会場入口にあり

 なお、この演奏プログラムは、大正八年六月一日発行の『音楽界』 拾九年 貳百拾貳号 にも同様のものが掲載されている。ただし、このチラシと同じく、演奏予定のものと思われる。
 下の写真は、その『音楽界』の口絵にある写真。

 慶應義塾ワグネル、ソサイエチイの会員合奏(五月廿四日夜)

 
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「芸術家の苦しみ」  久野久 (1925.6)

2011年04月20日 | 久野久子 1
 

 芸術家の苦しみ ドイツで 久野久

 ・あせり苦しんでゐる私

 なつかしき故郷!に居られる方々、わけて私が外国へ来ることが出来るやうになるために数々のあつき御同情をうけました方々から、又ベルリンに居られる同胞の方々から、私へ「ドイツ音楽界の感想を話せ」といふ御言葉をたびくうけました。しかし自分をかへりみる必要のないほど、このやうなあはれさでどうならう?!と絶えずあせり苦しみ通す私が何とお答へ申してよいかと逡巡しました。けれどその御親切に対して何か申し上げます勇気をヤツト出しましたので御座います。その私が今一度申し訳を致したいので御座います。それはかうで御座います。前にも述べました通り自分のあはれに苦しむ私でありながら私の心に湧き出づる自然の感想をそのまゝに申さぬ訳にも参りませんので、私の行き届きませぬ言葉のために私の本心と違つたやうなことを申すやも知れませんから。そして皆々様に御誤解をうけはせぬか?に就いての心配が御座います。どうかへ私のこの心配の意味を御同情を以て御了解下されまして、申すまでもありませんが、私自身なぞは全然とり除き、たゝへ皆様の御親切なる御言葉に接しお答へ申さぬことは申し訳がないとて廻らぬ筆を無理に走らせたので御座います、随つてせめて御一読を賜はらば誠に有難う存じます。

 ・ヴィーンへ参ります

 皆様も御存じの如く、二百年の昔から今日に至るまでーーその間に十年前に起つた大戦争でメチャくになつたにも拘らずーー尚ほ依然として世界一の音楽国の誉(ほまれ)を保つてゐるのは独墺で御座います。その独都ベルリンに一年間を過ごしました私は、どうやら「音楽のベルリン」の見当もついたやうな気も致しますので近々も一つ奮発して大楽聖ベトーフェンを初め、シユーベルト、モザート、ブラームス……なぞの終焉の地でもあり、現代もその道の第一位者であるザワーやストラウスなぞの老大家が集つてゐられる墺都ウヰンへ移り住み、私の力の続く限り深くく研鑽して見たいと存じて居りますが……
 さていよく私の今日までの感想はほんの思ひついたまゝに述べて見ませう。

 ・日本の国はまだ若い

私は平生から、かういふ風に考へて居ります。-と申すのは一体世界の人種に変りはあつても、-即ち文明国人といはれても、野蛮国人と呼ばれても、また黄色人種と、黒色人種、白色人種もつまるところは同じく人間には相違ないのです。だからその人間のやつたことや、やつてることが人間たる以上はやれぬ筈は絶対にないと断言します。また現代の一等国と称へられた国ー例へばギリシヤの如きーーも現代はウント下つた位置にゐる例もあります。その一等国と呼ばれる国にするのには何の力によるのかと申しますと、国土の豊かなことも少しは関係するでせうが、そんなことは殆んど問題になりません。唯一つの人間の力で国をもち上げるのです。即ち一個人の力が集つてです。むろん各個人の努力ー健康ー才能ーの結晶が集つて段々に立派なものに築き上げられ、さうして一等国になし得たのです。ところが振返つて、「わが日本国はどうか」といふと、いはゆる文明国と称せられる西洋諸国に比べるとまだホンの「赤ん坊」見たやうなものとしか思はれません。何故かといひますと世界的に眼覚めてからまだやつと六十年に足らぬ若さだからです。一体どうしてこんなに日本が遅れたのかと考へてみますと、それは一つは東の隅の小さな島国であつたからでもありませうが、昔から海を距(へだ)てた隣国の朝鮮や支那から知識をとることに汲々としてゐた結果、その反対の隣国米大陸なんかを見るのが遅かつたからではないでせうか。しかしながら私は固く信じます。わが日本人は体こそ小さいが、非常によい頭脳をもつてゐるから、何をやらせても発達が頗る速い。だから生まれてからまだ五六十年にしかならない。いはゞ赤ん坊国なのに、もうそろゝ一等国の仲間へ頭を並べかけて来たとかいふことをきゝました。かうして延びて行く若い幼い日本の国は追々に年が経つに随ひ、他の兄さん国や、姉さん国のよいところばかりを見習つて生長して行くならば、この赤ん坊国には大いに将来の見込みがある。-即ち赤ん坊であることが却つて幸ひであるかも知れません。

・努力-健康-才能

 実際、文明国と威張つてゐる西洋諸国だつて決して何でもかでもよい訳ではありません。日本固有のものゝ方が遥かによいものも沢山あることはあると思ひます。だから取捨選択の自由を持つ赤ん坊国日本は自国にまだない文明国の長処ばかりを適当に選んで自分のものにして行けばよろしい。同時に日本人は頭脳はよいとはいへ、また幸ひに幼いとはいへ、いはゞ「痩せた赤ん坊式」といふ形容を免れないでせうし。それに努力は健康より生れ、才能や天才は努力から生れると申しますから、今日の日本人の体格までを世界的のものにする必要もあるでせう。かうなるとなかゝ困難なことではありませう。即ち一例を挙げて申しますならば、現代の文明国、一等国と威張る人々が日本語を学んだとて、とてもさう容易に覚えた日本語で日本劇ー旧劇のセリフや仕草をやつて見ると、如何にそれがむづかしいかゞ判るでせう。それと同様にその反対に日本人の私達は西洋のものを吸ひ取り、進歩して行かねばならぬ立場にあるのです。日本にもいづれは専門のオペラ役者が出来るでせうが、それがワグナーを初めあらゆる作者のオペラを仕草をやりつゝ、外国語で、しかも音階の細かい西洋音楽を唱ひこなすのは如何に困難なことであるかは思ひやられるでせう。……人間のやつたり、やつてゐるものが、われわれ日本人がやれぬことは絶対にないとは思ひますが、しかし体格まで改良させて行かねばならない我々日本人ーそしてその上に世界的に眼覚めたのが遅い日本人は、その健康と努力とを今後五十年も百年も続けた後でないとまだゝ真の一等国になることは困難であらうと思ひます。

 ・竪琴もない音楽学校

 さて他のことはまづさておいて、私は音楽にたづさはつて居りますから、この方面のことどもについて申しまするならば、日本の官立音楽学校が上野の森の中で呱々(ここ)の声をあげたのは明治二十四年だと承(うけたま)はりますから、まだやつと僅かに三十年にしかならない訳です。けれども追々に生長して近頃は余程進歩したといはれてゐます。しかしまだく遺憾ながら設備といひ、研究といひ、不足したところが沢山あると思ひます。たとへばオーケストラなんかにおいて殊に然りです。その日本にたつた一つしかない堂々たる官立音楽学校にHarfe ハルフエ(竪琴)が無い。その外にも大パイプオルガンが無いなんていふのはなんと情けないでは御座いませんか。尚ほその他にも種々(いろいろ)とありませうが、それは適当な方々からいづれお話が出る事と存じます。又オペラ役者なんかはさう急に出来ないでせうから追々に待つとしませうが、芝居にぜひ使つてほしいのは進歩した電気照明ー假(たと)へば雲が走るとか、星がきらめくとかいふ自然的背景です。

 ・音譜は国際語です

 以上申したのはほんの一二気のついたものですが、これ等はぜひ一日も早く備へつけてその道の専門家も追々に養成して行きたいものだと思ひます。一体わたくし達の学ぶ「音楽」はもちろん外国語を学ぶ必要はあります(殊に声楽や作曲を学ぶ人には)が、他の学問を学ぶ方々に比べて、世界各国が言語と文字をみんな異にしてゐるのに、「音譜」といふものは世界共通のエスペラントのやうなものです。私共はたゞそれによつてやつて行くのですから、最初に正確な歩み方を立派な先生から習び、原理をよく頭へ入れてしまへば、それからあとは個人の頭の力と研究次第で演奏者はもちろん、作曲者といへども進歩発達を世界的に成功させる事が出来る訳です。(他の学問も同じ訳ですが、芸術上のものー即ち音楽、絵画、彫刻なぞはその点だけには困難さは同じでせうが、面倒さが少いといふだけです。)
 かういふ訳ですから日本人だつてこれからウンと勉強して行けば追々に世界の演奏者なり、作曲者なりが生れ出ることはあり得べきこと、否な必ず近き将来にあることゝ信じます。

 ・私の聴いた演奏

 ナニ、私が此方へ来てから聴いた音楽会の感想を述べろと仰しやるんですか、X〔一字読めず〕ゝよろしう御座います。さあ、私はもうかれこれ数十回も聴いたでせうね。その季節になると殆ど毎日二つ三つも演奏会がありますのでどれへ行こうかと迷う位です。しかし私はぜひ聴かねばらぬと思ふ大音楽会の外はやはり専門のピアノのよささうなのをのみ撰んで参りました。その重な先生方の名を申してみませうなら。「ザウワー。ダルベーヤ。フリードマン。ランブリノ。ガルストン。ギーゼキング。ケンプ。フヰツシヤ。シユーナーベル。ペトリー。クロイチエル。ブゾニー。ラモンド」‥‥‥なんどゝいふ方々です。

 ・ザウワー先生について

 右の中でザウワーとダルベーヤの両老大家は申すまでもなく共に現代の第一人者ですからさすがに大したものでした。しかしどちらかといへば私はザウワー先生の方が一段秀でゝゐらつしやるやうに感じました。その他の先生方もいづれもさすがは本場の檜舞台に立たれるだかあつて皆それゝの特長があり、全く曲を自分のものにして余裕綽々たるところがあることは何んと形容したらよいでせうか、まづ鞠を手玉にとつてゐられると申しませうか。と申して指先きだけで遊びごとのやうにやつてゐられるのかと申すと、決してさうでなく、寒い寒い、息も凍る位の時候なのに滝のやうな汗をタラヽ流しながら演奏してゐられるのです。しかしどんな名家の演奏を聴きましてもその曲目残らず完全無欠で点のうちどころが無いとは思はれません。そこが芸術の偉大な、深遠なところで、如何に複雑な、むつかしいものであるかの価値が即ちこゝにあるのだと考へられます。それから音楽会毎に特に私の学ぶべきでもあり、感じますことは以上のどの先生方でも左手と右手の調和と、ペダルの使ひ方の上手なことです。例へば申しますなれば、右がメロデーの時は左を伴奏として巧に現はし、左の時は右を非常に上手に現はされます。又ペタルについての一二の例を申せば、P(ピアノ)とフォルテ(強)との差をペタルの使ひ方で巧に現はしたり、自分の欲する音を和声(ハーモニー)学上の規則を完全にしておきながらペタルの力である音をあとへ残して次の方へとダンヽに移つて行かれます。(その残した一音は聴衆に快く目立つて聴(きこ)えながら次のハーモニーに移つて行く)

 ・新人ギーゼキング氏

 ところが前申した方々の中でたつた一人特に異彩を放つた新人があります。それはギーゼキング氏で、この人は古典曲も、近代、現代曲も弾かれますが、非常に新しい弾き方で、私には大へん参考になり、興味深く感じました。と申すのはこんな大家でも、P ピアノ 或はPP ピアニシモ でなければ決して左のペタルを使はないのに、このギ氏はPはもちろんMP メツオピアノ (中位)でもペタルを使はれます。だから左の足を後へひく隙(ひま)がないくらゐにペタルを使ひ、非常に弱い音を弾き現はされます。そのよい悪いはさておき、こんな若い新人を一度日本へ招聘したら、大いにピアノをやる方々の御参考になる事だらうと存じます。私は大へん興味をもちましたのでこの方の演奏会には欠かさず行きましたから前後六七回も聴いた訳になりませう。さうかと思ふとこゝにも一人ペードリー教授のベートフエン・ソナタ、アーベントを聴きました時は一回も左のペタルをお使ひになりませんやうでした。がしかも完全に巧にPとフオルテとの差を弾き現はされました。これに就いては一度同先生に質問して見たいと存じてゐます。とにかくギ氏は左のペタルを沢山使ひペ氏は左をちつとも使はないのに共に強弱を巧にしかも完全にあらはされるのは非常に興味があることだし又研究すべきことだと思ひます。このペタルの使ひ方についての知識は私のかねてから大へん望んでゐることなのですが、私はどうも古典的作曲者の曲よりも、中世から現代にかけての作曲者の曲の方が左ペタルの足を余計に使ふものゝやうに存じます。結局このペタルの踏み方、又は曲の理解の仕方は西洋音楽は和声(ハーモニー)学上にによつて成立つたものですから和声をよく理解した上、それを巧く適切に勉強すべきものだと私は思ひます。このことはなほ十分研究の上又申します。

 ・聴き手としての用意

 一体、私は各演奏会を非常に忠実な研究的な聴き方を致しました。即ち私がききに行くべき演奏会のプログラムがその前週に発表せられると、直ぐその楽譜を見て買ひ求めて自身で前日までに弾奏し、知つてゐる曲は勿論、知らない曲だと尚ほ更覚束ながらも幾度も繰返して弾いて見ます。--丁度学問の講義の下調べのやうにーーそしてさてその当日になりますと必ず楽譜と鉛筆とを携へて会場に臨み、各演奏者の態度、弾き方、音響、ペタルの使ひ方、なんどを仔細に観聴して注意すべき点だの批評なりを一々書き入れたりしました。だから一演奏会毎に頭と耳と眼と手とを一時に働かせねばなりませんので、随分に疲れました。けれど非常によい学問をし、どれだけ利益を得、よい参考になつたか知れません。先生の前で教へを受ける時のやうな「恐れ」と「苦(くるし)さ」はありませんし、殆んど学ぶ上には変はりはないほど得るところがあります。又同じ曲をいろゝの変つた先生方から聴いたり、弾方を研究するのは大へん結構なことだと存じます。一体、芸術といふものー例へば音楽の演奏そのものには秘密が絶対にないものです。即ち決して蔽ひ隠すことの出来ないものです。だからその個人々々に赤裸々にその人格なり、性癖が現はれるものです。かういふ訳ですから、各演奏会毎に私は一一親しくお目にかゝりませんが、大抵どんなお方かといふことをほゞ想像することも出来ました。このやうなことは皆様(音楽を御勉強の方々)は既に御存じとは存じますが、私が切に思ふことですから申し上げます。また無駄でも一言お勧めを致します。それは幸ひ近頃は日本へも追々と世界的の大音楽家が来られるやうですから、どうか私が此方(こちら)で試みてゐるやうな方法で、その大家の演奏をお聴きして戴(いただ)きたいと思ひます。

 ・オーケストラのお話

 次はオーケストラですが、当時こちらでの名指揮者は(ドイツではこの指揮者が大変に人気がありますが又実際に大したものなのです)ブルノワルタ教授でせう。次いではハーゲル教授‥‥‥と沢山ゐられます。今春かの名高いラインハルトの大劇場 グローヒス シヤウスピーレ ハウス (俗称五千人劇場)でヘンデル作曲の「オラトリヲ・サムソン」をやりました時は舞台に登る合唱団が三百余人に上り、立唄手 たてうたひて は五人もありました。そしてその前のオーストラを率ゐて指揮をしたのが、そのブルノワルタ教授でした。御存じでせうが、このサムソンといふのは主人公の名で、ヘンデルの時代にはまだ現代のやうな仕草をやつて唄ふオペラは無かつたのですから、これは宗教的のしぐさのないオペラです。だからそのオーケストラには特にピアノとオルガンが入つてゐました。しかもそのピアノはバツハ時代の小さなのを使ひました。ワ教授の指揮振りといひ、その他のいづれもが立派なもので、私にとつては非常に興味深くまた印象が強く残つてゐます。

 ・可愛い子供の独奏会

 ベルリンでは時々七八歳から十二三歳位までの子供の独奏会が御座います、何ぶん子供の事ですから子供らしい芸当ではありますが、また中にはなかゝ立派な曲を弾いて驚かされる事もあります。それは日本でも例へて申して見ませうなら、役者の子供は小さな時から踊りも習へば三味線も習ひ、二十歳も過ぎるともう一通りの役が出来るやうになりますが、それが果して名人役者になるか、ならないかはそれから後に定るのと同じやうに、これ等の子供もどんな名演奏家になるか否かは、それから以後に定まるわけです。しかし日本の音楽に比べて西洋音楽はウンと複雑な上に数が非常に多くいくらでも尽きぬ程あります。その上に作曲者はドシゝと新曲を創作しますから、名人になる骨折りは又大変なものだと思ひます。一体こちらでは名高いピアニストは老いるに隨ひ何れも作曲に没頭し演奏から遠ざかるやうな傾向があるやうです。これは演奏するには体力が恐ろしく必要ですから老体では大儀なのが原因ではありませうが、又一つは後世へ名を残さうとせられるのではないでせうか。例へば最近亡くなられた老大家ブゾニーの如きはその好例です。又かのリストも非常なピアノ演奏者でしたね。私は過日ワイマールにリストの旧宅を訪れました。又現代の有名な演奏者もやはり自分自身の作曲したものをよく演奏されるやうに思はれます。又曲目で申せば此方(こちら)の音楽会には現代の曲目も沢山やりますが古典的(クラシツク)の曲も随盛んにやります。殊にベートーフエンのものはソロでもオーケストラでも非常に多いやうです。しかもその曲目は日本でよくやりよく聴く曲がこちらでも亦多くやるのはやはり一寸うれしう存じます。

 ・新曲を研究してほしい

 さて私がこちらへ参つてから切に感じ日本の音楽家の方々に是非ともお願ひ致したいことは数々御座いますが、まづ第一にあらゆる音楽家はいつももつと和声(ハーモニー)学を頭において勉強していたゝ〔濁点あり〕きたい。(これは和声学を特に勉強せずとも出来ます)それからまた近代から現代の作曲者の曲譜をどしどし取りよせてそれをウンと勉強していた々〔濁点あり〕きたい。その新しい作曲者の重な方々は『スコツト。デプシイ。ドナニー。スクリヤピン。テレスコ。ストラウス。マーレル。グラナドス‥‥‥』なんかといふ人々ですが、殊に最近亡くなつた「スクリヤピン」の曲はピアノ専門の方にはぜひ勉強していたゝ〔濁点あり〕きたいと思ひます。これ等の現代的新曲はきき馴れない裡(うち)は少少むつかしいかも知れませんが、追々にそれに親しんで来ればそんなに困難なものではないと信じます。たとへば、シヨパンやリストが創作を現はした時代は其の当時の人々の耳には、ベートーフエンやモザートやバツハの古典的の音楽のみを今まで聴いてゐたので、それ等の新曲をはじめて耳にした時にはそれが非常に新しく異様に耳に響いたことゝ思ひます。けれども現代の人々ーわれゝ日本人ーの耳でさへもそれ等の曲はもうちつとも異様に聴えません。つまり耳になれてしまつてます。これと同じく現代の新曲も最初はちとむつかしく少々異つてゐるやうに思はれるかも知れませんが、少し耳に馴れゝば何でもないと思ひます。だから是非一つこれ等現代の新曲を親しみと理解とを以て研究していたゝ〔濁点あり〕きたいと存じます。

 ・留学の責任は辛い

 それからも一つ。近頃は幸ひなるかな、世界的の名家がドシドシ来朝して演奏せられるやうですが、ウンと身を入れて、仔細に研究的に観聴していたゞきたい。これは私がこちらへ来てからヒシくと感じたことで御座います。そりや洋行して本場の実地研究は申すまでもなく無論よいことです。けれど洋行といふものはとても夢のやうな華やかなものではありません。外国まで来て努力の責任をもつてるのは並み大抵のことではありません。私は思ひます。お金持ちの一等国の人々でも全国民の何分の一といつてよいか判らぬ位僅かな人々が外国へ出るのでせうから、日本人でも同様に全国民からいふといくら沢山海外へ出るといつても実に僅かなものでせう。だから出来るだけ洋行をおしなさいとお勧めも致します。しかしながら近頃は幸ひと日本へ頻々と世界的の名家が来朝して演奏をせられますし、書物や楽器なんかはお金次第でいくらでも備へられるし、それに蓄音機もあれば、最近にはラディオなんていふ便利なものが流行して来ました。かうして世界にあるものは何でも必ず日本にあるやうにして行けば追々に別に洋行なんかしなくつても、洋行をしたのと同じ進歩を日本に居ながらにして十分研究し段々に向上することが出来るやうになり得るだらうと考へます。否な是非一日も早くさういふ風になるのを切望いたします。
 
 ・皆さんさようなら

 申しあげたいことはまだへなかへ尽きないので御座いますが、もう随分と沢山くだらないやうなお話を申しあけましたから又の折にーいづれ帰朝致しましてからのお土産話にと残しておき、今度はこの位でもう筆をとゞめませう。この私の愚かな考へが皆様にとつて何かの御参考にでもなりましたならもつけの幸ひで、私の本懐とするところで御座います。(をはり)

 上の一文は、『女性』 大正十四年 〔一九二五年〕 六月号 (第七巻 第六号:大阪 プラトン社)に掲載された。もので、「編輯後記」には、「久野女史の「芸術家の苦しみ」は、此の人の絶後の文稿であり絶筆であつて涙なしでは全く読れない哀篇である」などとある。

 また、巻頭の写真は、大正十三年  〔一九二四年〕 十月廿二日発行 の『アサヒグラフ』 第三巻 第一七号 に掲載されたもので、次の説明がある。

 最近の久野久子女史

 音楽の都ベルリンの久野久子女史

 昨春京阪神で本社主催の告別演奏会を後に渡欧した天才ピアニスト東京音楽学校教授久野久子女史は伯林は滞在一年にして今墺都ウヰンへ移り其道の蘊奥を究めやうとしてゐる(写真は女史が最近本社に送られたもの)

 Above : The latest portrait of Miss Hisako Kuno, a wellknown pianist.

 なお、下の写真は、『写真通信』 第百三十六号 大正十四年 六月号 の「“写真通信” 写真月報」にあるもの。

  

 四月廿二日 自殺した久野女史

 音楽研究の為外遊中過度の勉強からオースタリーウィンナで自殺した久野久子女史

 

 上の写真は、「今は歿 な き久野久子女史」として、『サンデー毎日』 第四年第二十号 大正十四年 〔一九二五年〕 五月三日 に「久野久子さんの自殺」とともに掲載された。下は、同じ頁にあるもうひとつの文である。

 伯林〔ベルリン〕に於ける 久野さんの思出 AN生

 二人の医者に伴はれて数日中にウィーンに立つからと挨拶に来て呉れた時の久野さんの緊張した相貌を今私は思ひ出す。
 ◇
 久野さんはウィーンは立つ前は西部伯林の中心ウッテンベルグプラツツ近くに二階の一間を借りて住んで居た。部屋は大きいがその中にこの間国元へ送られたグランドピアノが厳然と控へ、ベッド、炊事道具、化粧道具等そこには一切の財産が並べられて居た。和服の常用者であるから数足の草履さへ所得顔 こころえがお にスートケースの上に座を占めて居た。 
 ◇ 
 午前中はなるべく面会を避け、朝食にはパンを食べたり御手料理の御飯を食べたりしてお昼は定 きま つたように日本料理屋へ姿を表 あらわ し午後ヒルネをし夕方からベートーヴェンの譜の暗誦が始まる。
 其 その 暗誦こそは私をしてほんとうに涙ぐましたものゝ一つで、久野さんは時によると、夜の二時三時まで譜を頭の中へつめこむのであつた。不自由な身を持ちながら時には炊事までもして譜の暗誦に専心するー暗誦しうるまでは寝 しん につかぬーその熱心さを私は涙なしに見過ごすとは出来なかつた。
 ◇
 或時私は久野さんに伊太利 〔イタリー〕 へ行く気があるなら一度伊太利の新聞記者に会つておいたら好都合だらうと思つて、伊太利記者と会つてはどうかと勧めたところ、よろこんで応じたので一日日本人クラブに久野さんと音楽に深い諒解のある伊太利記者モランデー君夫妻とを招待して食を共にした。
 ◇
 久野さんは喜んで他日モランデー君に音楽修行感想談をし、モランデー君はそれを伊太利新聞で発表することを約した。久野さんはその草稿を物して居られたが発表の機会が得られなくてとうとうそのままとなつてしまつた。
 ◇
 久野さんは自分の旅行中の感想は何かの役に立たぬとも限らぬとの見解で感じたまゝ見たまゝ聞いたまゝを手帳に記しておかれた。ウィーンへ立たれる前に既にその手帳は三冊目位まで重(かさ)なつて居た。その手帳を操乍 くりなが ら久野さんは自分の芸術観を語られた。
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