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『粛軍問題の経緯』 2 (1935.10.17)

2021年01月27日 | 二・二六事件 2 怪文書

     

     荒木、眞崎將軍の人事横暴

 満洲事変勃発當時は南大將が陸相であったが間もなく若槻内閣瓦解と共に教育總監本部長であった荒木將軍が陸相となった、元来荒木將軍は昔から青年將校と會見し意見を聽いたり気焔を擧げたりすることが好きであったので常に青年將校の憧憬の的となって居った、第六師団長時代には盛んに皇軍意識を強調し皇軍の志気を鼓舞発揚するに努めた、之が時代の趨向に じ益々人気を集めた、敎育總監部本部長から陸相に栄転する頃は人気の嶺頂にあって青年將校國本社員 國家主義者等門前市をなす有樣であった。
 金谷参謀總長が十月辞職するや次長二宮中將も職を退き第五師団長に転任した、次長の後任には今迄比較的逆境にあった眞崎台湾軍司令官を持って来た。
 眞崎大將は宇垣大將及長閥には之迄非常なる圧迫を受け昭和六年八月の異動には第一師団長より將に首になる所を辛うじて武藤將軍等の援助により踏み止まった將軍であるので、宇垣閥薩長閥を極度に憎み其の復讐の念に燃えた人である、而して荒木大將とは元来親交あり、長閥征伐には共に大いに働いた間柄である、両將軍相結んで宇垣閥の排撃を開始したのは無理もないと思ふ、幸に人事局長杉浦中將は有名のお人好しで如何にでも動く人であるので彼等の人事は思ふ樣に運ぶことが出来た、陸相は三月、十月事件に関係ある將佐官を盡く地方に転職せしめた、之は懲戒の意味もあると同時に宇垣閥排撃にもなったので一石二鳥の巧妙なるやり方で必しも非難すべきものではないが之に代る顔觸れが適當でなかった。
 両將軍は所謂佐賀及土佐縣の者を以って盡く要職を固めてしまったのである。
 則ち佐賀出身の柳川中將が次官に秦中將が憲兵司令官、土佐の山岡少將が軍務局長小畑少將が参謀本部第一部長朝鮮軍参謀長警備司令部参謀長其他佐官級でも目ぼしい所は皆彼等一派の占位する所となった、殊に敎育總監部系統であって唯硬骨漢であると言ふだけで手腕も頭惱も全くない山岡少將を陸軍の最も重要なる軍務局長に抜擢した如きは萬人齋しく意外とした所で痛く識者を驚かした人事の乱脈はこれから始まったと謂はれてゐる。
 小畑少將は頭惱鋭敏であるが頗る才気に富み事毎に人事に嘴を入れた樣である。
 小畑も山岡も陸軍界にては有名な狭量冷淡な感情の持主であり憎愛の念の極めて強い性癖者であるので此の両者の意見が陸相に直接若くは眞崎將軍を通じて採用せらるゝ樣になったから人事は益々極端に偏頗に傾き怨嗟の聲次第に喧しくなり流石の將軍の盛名も次第に衰へる樣になって併し公然と不平を述べ革正を叫へは忽ち要所要所の同系の上官や同僚乃至下級の者のスパイ的密告により幾許もなく左遷され或は首になった例もあるので後には硬骨の意見を吐く者もなく数人会合しても先づ其顔振れを見廻して『スパイ』の存在の有無を確め然る後快談すると言ふ様な陰惨な空気が少くとも中央三大官衙内にて醸成されて居り今尚ほ此狀態が継續されつゝある事は事実である。
 尚ほ困った現象は十月事件に於いて分離独立した尉官の一党であっても荒木、眞崎、秦、柳川等の諸將軍と近接して居る中に自ら気脈相通ずることに成り遂に荒木、眞崎將軍等の當時絶対強力なる背影を賴み所謂虎の威をかる狐となり進退横暴を極め屡々上司の目に余る行動をやり始めたことであった、其の一、この実例を擧げればこんなことがある、戸山學校の有力なる某佐官は其の一派に属する一尉官が嚴禁しあるに拘らず屡々思想的會合の席に出場するので其の命を奉ぜざる故を以って之を處罰するや、却って敎育總監部から叱られ後當然異動すべき其の尉官が學校に残って其の佐官は遂に首になった、優秀なる經歷を有する大學卒業者である、例へ些少の品格上の缼點があったとしても決して首になる人ではない、彼等の後援する一党の一人を排撃せんとしたことが眞崎敎育總監等の御気嫌を損ねた事に起因するは明白である、某戰車聯隊の某佐官と彼等一派の一將校の行動に関し命に依り調査し師団長に之を報告すると此の大切な機密に属する人事が翌日には筒抜けに本人の所に連絡されて居った、其の師団長は錚々たる柳川將軍である事に注意せば其の間の消息は自ら洞察するに難くはないと思ふ。
 即ち彼等一派に対しては直属上官の威力も及ばないと言ふ統率上有り得べからざる現象さへも所に依っては生ずる樣になって来た、
 之が昭和九年正月荒木將軍が林大將に陸相を讓る前後の内情であった。

     林將軍陸相就任より永田事件迄の曲折

 昭和九年正月、荒木大將は病気の故をもって陸相を教育總監たりし林大將に譲り敎育總監は軍事参議官たりし眞崎將軍が後任となった、荒木大將は陸相就任當時の聲明は実に嘖々として一世を蓋ふと言ふ有様であったが大臣としての出来榮は余り芳しい方ではなかった。
 満洲事変の波に乗って軍部の希望は殆んど大部容れられたが余りに多辨であり余りに多方面に頭を突込み過ぎた傾きがある。
 軍部以外の農村問題に対しては玄人を向ふに廻して淺薄な意見を発表し有識者の物笑を招いた。
 政治家実業家政党は殺伐たる暗殺事件の頻発並に彼のファシスト的態度に依り直接の圧迫迫威を受けた、自然の結果として口には出さないが痛く軍部に反感を持ち同時に其の首領である陸相を怨む様になった。
 口には皇軍の意識を宣傳し忠君愛國を高唱する彼の子息は皮肉にも社會主義者である事があった、幾多の人士は最早彼の能辨美辞に耳を傾けない様になった、非常なる多額に上る軍事機密費の用途に氷解し難い箇所ある事を傳へ聞いた、幾多の識者に寧ろ彼を排撃する者さへ生ずる様になった、殊に陸軍内部に対しては極端なる人事の不統制に依って全く其の信望を失してしまった、元来將軍は人事に関しては頗る恬淡公平の人であったが老獪偏狭の眞崎大將やそれに更に輪をかけた様な山岡、小畑等の意見を重用したのが最大の過失であった、此の如くして彼は病気でなくとも當然陸相の位置は保ち得なかったと見るのが至當であらうと思ふ、當時荒木大將は陸相の位置を眞崎大將に譲りたかったのは事実である。
 眞崎第一林第二の候補の順序であった、然し眞崎の人望は其時既に半を失って居った。
 當時次官たりし柳川中將其他が百方劃策した眞崎陸相の運動も遂に色々の事情に依り成功せず林大將が陸相となったのである、之は全く天意に伏せるものと見る外はない。
 林陸相は実に陸軍は勿論國民全部の信望を集めて就任した。
 其信望を集めた所以の最大は何と言っても肅軍に関する期待があった、林陸相自身も肅軍に全幅の努力を傾注すべく覺悟したと信ぜらるゝ、扨て陸相は肅軍を如何取扱ったかと言ふと陸相は肅軍に漸進主義を採用し以って極端なる反動の惹起を避くるに懸念した様である、先づ永田少將を軍務局長に次官を橋本中將に転入せしめた、併し遂に其の代償の意味かどうかは知れないが二宮將軍が首になり柳川中將は第一師団長に問題の秦憲兵司令官は第二師団長と言ふ頗る不快な異動を余儀なくさせられた、陸相就任當時尚ほ眞崎、荒木の力が偉大であると言ふ事を物語るに十分な好例である。
 次いで昭和十年三月今井中將を人事局長にし杉浦中將を歩兵學校長に榮転せしめた、前述の如く林大將陸相就任以来定期異動は三囘もあったのに肅軍の為の人事異動は全く微温的であり不徹底であるので林陸相も漸く世人から期待せられない様になり平凡お人好の彼最早賴むに足らぬと言ふ小聲が到る處識者の間に起る様になったのは當然である。
 林陸相は此聲を屡々耳にしたるは明瞭である、又白上事件で陸相の辞職を陽に奬めて陰に眞崎が其後をねっらって居った眞相は承知する様になった。
 是等の事情は八月異動では少くとも彼等巨頭の目ぼしき一二名は尠くとも何とか處置しなければならぬ、殊に眞崎大將は何と言っても總監を退職せしめねばならぬと言ふやうな心境になって来た、少くとも四囲の環境は之を陸相に強要した。
 當時永田局長は徹底的に人事の刷新を行った彼等一味を一掃する如く計劃したけれ共御人好の將軍は之を断行するを得ず半殺しの人事をやったので遂に永田中將事件の様な大事を惹起する結果とも成ったのは遺憾である。
 併し本年八月異動には恩人である眞崎大將をして總監の位置を退かしめ秦第二師団長を退職せしめた事は彼としては思ひ切った人事と言ふべきであらう。
 以下之が曲折を述べて見よう。
 大臣は意を決して七月十二日の三長官会議に於いて眞崎大將及秦第二師団長の勇退の件を切り出した、之に対し眞崎大將は先づ秦師団長の退職の件に関し異議を申出たと言ふことである。
 陸相は秦中將の政治的運動を指摘し眞崎將軍は小磯、建川、永田の行動を擧げて之を反駁して双方譲らず遂に決定せずして解散したが、更に七月十五日の會議に於て愈々両者は勇退することになった。
 此間眞崎に好感を持ってゐる軍事参議官荒木、菱刈大將などの骨折りで軍事参議官会議を菱刈大將邸に催し眞崎將軍の進退に干し眞崎援助の意見を一致せしめた、併しこんな策動も陸相の決意殊に總長宮殿下の御意見なりと大勢抗し難く遂に老獪極まる眞崎もその位置を退き其代りに林陸相と同期であり肝膽照す渡辺大將を以て敎育總監に任ぜしむる事になった、蓋し林陸相としては渡辺大將と相談して將来大いに肅軍をやる積りであったらうと思はれる、此間の消息は怪文書に詳細である、唯怪文書には眞崎の非を削除し却って眞崎の答辨の條理一貫せる如く記述し陸相の之に対する反言はシドロモドロとなって居る、之が怪文書の怪文書たる所以で、林陸相非難攻撃の目的で書かれたものである、事は推察し難くない。  (『軍閥重臣閥の大逆不逞』といふ怪文書を指す 編者)

     昭和九年十一月士官學校事件

 昭和九年初、議会開催に先立ち民間に再び五・一五事件の様な企圖があると噂され議員を戰慄せしめた事がある、こんな噂を外出した士官學校生徒が先輩青年將校の宅に遊びに行って之を耳にし驚いて區隊長に報告した事が発端となって遂に此事件が軍法会議に審議せらるゝ事になった、之を十一月事件と称して居る。
 内容は荒木眞崎將軍を仰ぐ一党が抱懐しある國家改造の主張が洩れた事であって其の實現は兎も角之を其機会に生徒に話した事は事実らしい、敎育總監、憲兵隊は軽視して居ったが陸軍省殊に永田局長は之を重視し、徹底的に調査し此の機会に此種思想や策動を根底より清掃せんと企てた所が関係將校の村中、磯部主計等は何ら語りたる事なしと主張し生徒は耳にしたと述べ水掛論となったが軍法会議の判決は是等將校を處分してしまった、この事件は相當彼等一派の反感を起さしめたらしい、此問題の起った時村中大尉一味の某中尉に面会した時の談話に依れば軍法会議の取調に於て如何に調べられても證據がないから處分することが出来ないだらう、若し萬一せらるゝ様なことがあれば三月事件や十月事件其他今迄隠蔽された事件の内容を発表し過去に於いてより以上の問題を起し何等の處分を受けざる者が澤山あるのに何故今囘に限りかゝる小問題の為仰々しく軍法会議開催し吾等を處分するか其の意を解するに苦しむと言ふ様な暴露戰法を採る、これは最も當局の痛い所であるから恐らく村中大尉一味は處分されまいと語り極力永田軍務局長の處断に対し反抗の意思を表はして居った。
 永田局長としては恐らく此問題を捕へて彼等一味を懲戒し一掃し様と計劃したのではないかと思はれる。



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