蔵書目録

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「ポールペリオの新疆探撿略記」 長城生 2 (1911.8)

2021年01月16日 | 清国日本人 燕塵、津門

 一行は暮れ行く歳を送らん爲庫車より烏魯木齊に向へり、烏魯木斉は支那土耳斯坦(新疆省)の主府なり、一行はこヽにて地方官吏と尤も欵切なる交際を結び、且つ有名なる流罪者にして、故光緒皇帝の從兄弟、一九〇〇年團匪の大首領端親王の弟たる瀾公とも接洽を得たり、同しく拳匪亂に與したる爲爵位を削られ、永久の追放に處せられたる瀾公は寫眞道樂に其身を委ね、纔かに罪所の閒日月を消しつヽあり
 庫車に次きて久駐し、且つ尤も重要なりしは即ち燉皇の小村落にして、甘肅省の極東境に在るの地なり、是れ實に一行が佛國出發以來目的とせる處にして、最大の獲得を發見せるも亦た此地に外ならず、予等は支那書又欧洲旅行家の所説によりて、豫め庫車城外の千佛洞に類似し、而かも未だ曾て回敎の殘害を蒙らざる千佛洞の存在するは、即ち燉皇の地なることを知り居り、實際に該村落より約十五キロメートルの距離に於て、五百の洞窟を發見することを得たり、其中多數は繪畵を以て掩はれ、或は單に方二メートルの壁龕より成るあり、或は各邊十五メートル以上の大に達するあり、何人も從來是等の浮屠窟につきまじめなる研究を企てたることなきも、其中に蓋藏せられたる秘什珍寶は實に無量數なり、但たその収藏に殘缼あるは痛惜に餘りあり、予等は多少の實驗を積みて裝飾の各時代を分別するを得るに至り、幾部分後人の加へたる不調和なる修復を除くの外、略ぼ十一世紀の前四分の一より後のものならざるを知り、更に同一墻壁を積み上げたる瓦磚の承接次第に依り、各々その樣式及年次を區別し、是に由りて就中その最古なる製作は、紀元五百年頃のものたることを明らかにせり、殊に發見物中の一佛像は其樣式極めて平常の作たりしも、之に附屬せる二箇の小像は印度及支那の一般形式より遙かに懸絶せるものなりき、凡そこの類の繪畵及傳彩せる佛像は、支那に於ける複彩的製作物中最古の部に數ふべきものなると共に、鄙見を以てすれば同時に千佛洞美術の最優時代を代表せるものなりとす、予等は別に魏朝に屬する美術を發見したるが、這は五、六世紀頃北方支那に盛行せるものなるも、近く三四年前までは全く世に知られず、今回燉皇發見の繪畵及壁飾によりて始めて之を明かにするを得たるものにして、彼のシヤヴアン氏が極めて最近に、山西及河南地方に於て研究し得たる彫刻物と同樣なるものに屬す、尚ほ此の洞中の繪畵にして、七世紀及九世紀に屬するものあり、要するに凡ての裝飾的結果は、いたく偉麗の觀あるが中に、最も莊嚴を極めし靈壇と稱すべきは、蓋し九、十世紀に屬するものに在らん歟
 但し當時と雖も猶ほ其の技術は、一種の神韻を少ぎ居たるものヽ如く、技工の手は漸く笨重に、輪郭は鋪張過當にして、面貌は肥大となれるを見る、蓋し唐末に及びて文明の退歩が技術方面に於て其跡を示めせしは、猶ほその政治方面に於けるに同しく、即ち一工藝製作の上猶ほ能く之を徴するに足るものあり、十一世紀以後に及び、千佛洞は巡禮者の來り拜する所となりしも、神靈の呵護之をして然らしめたるによるか、靈塲修繕の名に籍りて之を敗壊するに至りしは、遙かに下りて十八世紀の末に於てす、且つその所謂修復を加へられたる部分も、既に最古のもにあらず、又た最美のものにあらざるは何等の幸ひぞや
 左あれ一行の使命は、固と此の修繕に負ふこと少からざれば、予は妄りに無益の言を之れに加ふるを喜ばず、抑も燉皇の一道士が、偶然にも古文書及繪畵に充ちたる壁龕を發見せしは、實に一九〇〇年一佛窟の修理を加へんとしたる際に在り、予は此の發見のことを烏魯木齊に於て耳にせる所あり、現に瀾公はその龕中より得たる一卷を予に示めされたるが、是れ公が遣流の途上甘肅に於て贈與を受けたるものなりといふ、かかれば予は只管に如何なる秘寶をこヽに見出たし得べきやとの念に軀られ、燉皇に着するや直ちに右の道士を訪ね、商議の末洞中に入るの許可を得たるに、人頭より稍や高き二三の棚上に幾束の卷軸の堆積せられ在るを見、把りて之を檢せしに是等の古書は収藏の最後の年代、正に十一世紀末に當れるを審かにし得たり、一見の下早く既に支那語西藏語サンスクリット、又は亞細亞高原未知の方言を用ゐて書せられたる古籍を發見し得たる予が、更に進んで所藏の全部を獲得せんことを夢想したるは蓋し無理ならず、左れど道士は居民の恚りを恐れて、固より之を許るすべくもあらじ、幸ひに彼れは寺塔を營み佛窟を修する爲に、いたく金錢の必要を感ぜし折なりしかば、やがて予に告ぐるに、所藏中より予の撰定する所のものを、自由に持ち去り得べきことを以てしたりければ、予今はいかでか猶豫すべき、直ちに身を洞中に進めて引續き二十五日間激度の勉勞に由り、洞中一萬五千の文書は委く予の手を經るに至り、是に於て既に知れ渡りたる佛教の經卷は之を差置き、婆羅門及畏兀兒 ウヰーゲル ( 回紇)語にて書したるものヽ内部、及西藏語のもの大部分と、加ふるに支那語の大部分とを併せて之を携へ歸ることヽしたり、凡そ是等の古文書は其の文書及年代よりして、吾人に與ふるに無上の興味を以てするに足るものなり、予はかくの如く先づ洞中藏書の三分の一、即ち五六千卷の古書を手に入れ得たることヽなり、其中重要なる佛教寫經の外、已知の道敎寫本及歴史地理文學哲學に關する最古の手寫本、其他景敎 子ストリアン の寫經一部摩尼敎 マニズム に屬する零本より、曆書古統計會計冊官私の記錄書等に至るまで、實に紀元一千年頃に於ける支那日常生活を構成せる各種のものを包括し、凡そ是れ皆な支那大帝国に古來の官文庫 アーカイヴス なきが爲に、已むを得ず吾人をして今日までその研究を等閑に附せしめたるものなり、尚ほ絹地の繪畵にして、ルーヴル博物館に現存せるものヽ何れよりも古く、同時に支那に於て知られたるものの内にても、其の古き點に於て第一に算すべきもの、並びに十世紀若くば更に溯りて八世紀に屬する木板彫刻物の如きは、特に此に附記し置くの必要あるものなり
 燉皇の地が、徃來の孔道より四日程を要し、千佛洞は更に燉皇より二時間を要するの事實は、流石博識好古の支那學者をして、極東の史上絶えて其比を覩ざる偉大なる古籍の發見に對し、何等の疑を起さずして今日に至らしめたる所以なるへき歟    (終り)


「ポールペリオの新疆探撿略記」 長城生 1 (1911.8)

2021年01月16日 | 清国日本人 燕塵、津門

 

 下の文は、明治四十四年八月三十一日發行の雑誌 『燕塵』 第四年 第八號 (第四十四號) 北京 燕塵會 に掲載されたものである。

ポールペリオの新疆探撿略記 

 支那新疆地方の沙中に堙沒せる史蹟の探撿に就ては、數年以來歐洲學者の注意を攢め、數次の探撿旅行により至大の發見を遂げ、地下千年の秘奥を發し、東西交通の史上に光明を投したるその功、誠に韙とするに堪へたるものあり、予は幸ひに英國滯在中獨逸のグリュンヱーデル氏、瑞典のスウヱンヘツヂン氏、英國のスタイン氏等、各其探撿の結果につき與へられたる講演を聽くの機を得、私かに以て至幸としたり、獨りポールペリオ氏最後の探撿、殊に著大なる燉皇發掘の結果に關しては、氏の歸歐は會ま予が東歸と前後し、再び孤陋寡聞の昔に回へれる予は、今に至るまでその詳細を知るを得ざるを遺憾とし、但た昨年淸國學部の拾集したる燉皇古籍研究の爲來京せられたる、京大教授諸氏に依りてその一端を聞き得たることあるのみ、然るに本年八月十五十六日の北京デーリーニユースに、偶ま「亞細亞高原に於て」と題し、ペリオ氏が親しく佛國一繪入雑誌に寄稿したる探撿旅行記原文の英譯を轉載したるを見、少からぬ興味を感したり、固より繪入雑誌の寄稿なるを以て、其所説は大躰の紀行に止まり、發見物そのものにつき詳細の批評を下すに及ばざれば、專門學者に取りては大なる利益なきものなるべきも、予と同しき程度の素人の爲には興味偏へに淺からざるものあり、殊に是等の探撿旅行に對し、我が日本の學界がインタレストを取りたると同じく、吾が燕塵雑誌も亦た曾て探撿の歸途、北京に立寄りたるペリオ氏の發見につき記載せる所ありたれば、讀者の多くはその興味を分ち有するものなるを疑はず、由りて長夏無事の日に乗じ、試みに之を重譯して該誌に投ずることヽしたるが、但だその時候後れの誚りは予が北京デーリーニユースと共に甘受する所にして、「燕塵」編者の與かり知る所にあらざるなり        長城生
 支那土耳基斯坦が、地球最高峯中の諸山に圍まれたる四塞の盆地たることは、地圖を一瞥して直ちに之を知らるべく、沙漠を以て國を成せるその地は、幾多肥沃のオーシス處々に散在す、面積は佛國に二倍するも、その保有する人口は極多なほ二百萬を越えず、この沒却されたる世界の一隅は、從來僅かに純乎たる地學上の探撿家シユラヂントウァイツ、プレヴオルキス、ポエトソヴスの徒をして、其力を致さしめたるに過ぎず、彼等はここに土耳古語を操れる人民を發見せり、是等の人民は溫和にして接し易く、柔弱にして婦女子の風あり、蓋しマホメット敎の力と雖も、猶ほ之を化して狂言悍驇の民となすこと能はざりしものヽ如し、爾來歷史家考古學者は別段の思慮なく、この地を通過しつヽありしに、偶然の發見は大なる希望を此の地方より發せしむるに至れり、即ち一八八九年英國の陸軍大尉ボワー、佛敎より出てたる醫學上の古文書にして、寫すにサンスクリットを以てしたるものを、庫車より齎らし歸りたること是れなり、抑も佛敎は印度に起りて、今やその地に亡び、サンスクリット佛敎經典の大部は隨つて泯滅に歸し、但だその敎理は西藏人支那人の傳述に依り、幸ひに今に存するあるのみ、然るに今や歐洲學者は歳月の消磨と破壊的回敎の侵入とを以てせず、印度に亡佚したる原寫經の幾部分なりとも、之れを土耳基斯坦の沙中より發見し得んことの望みを抱くに至れり、蓋し是等の經文は我が紀元一千年の當時に於ては、土耳基斯坦に於て虔信誦習せられ居たるものなるを以てなり、其後グルームギシカイロ、及スウヱンヘッヂンの如き、數々該地方の廢市より貴重なる發見の證示に關する報告を賚らせり、その所謂廢市とは其實古昔佛敎の靈塲たりしものなり、降りて一九九七年以來英獨二国人を始め、日本人に至るまで各々探撿旅行を企て、湮沒せる地方の遺跡を發見せんことを力めて成功する所あり、予の探撿旅行を始むるに至りたるも、亦た全くこの目的を以てしたるに外ならず
 一行はモスコー、オレンブルグ、及タシケンドを後にし、アンヂシヤンに出て、それより二年の後靑嶋に達せるまで、再び見ることなかりし鐡道列車を辞したり、右の行程は驛馬により駛走せば、もと六ヶ月を出でざる筈なれ共、一行が古物に對する探索は幾度となき方向の變換に加ふるに、おのづから到る處の淹留を必要としたるにより、かくは長日月を費したるなり、予等は馬背にて進行し、カシュガルに達するに及びて旅具一切を馬車に附し、隊商の行路に随ひ進むを得るに至れり、一行は何等の危險に遭遇したることなし、尤も肉類は時々酸敗し飲水も惡臭を放ち、或は暗黒色を帶びたることあれ共、何人も饑渇の爲に死に瀕するには至らず、強度の低溫は馬匹の爲には甚しき苦痛なりしも予等は毛皮の力によりて三十五度の寒氣を防ぐに足りたり、穏和なる土耳基斯坦の人民は一行を歡迎し、支那官吏も予等に與ふるに十分の助力を以てしたり
 噶什噶爾に於て、予は一たひ下手の地點を選定するに困却したり、庫車は勿論佛國出發以前より多くの望みを繋ぎたる地なれ共、尚ほこれより遙かなる東方に在り、殊に何より不利益なりしは、何人か我れに先んじて該地に赴きたりと聞きたることなりき、兎角して一ヶ月餘を噶什噶爾の探撿に費ししも、何等感服すべき結果をも得ずして已み、庫車に向つて出發せしが、その能くこのオーシスに達せるまでには相當の時日を要したり、抑も噶什噶爾庫車兩地の中間多木什克の小村落に近く廢趾の一簇あり、是れスウヱンヘッヂン氏が十二年以前に於て、あまり古るからぬ回敎の故蹟なりと斷せしものにして、其他の旅行家もこヽを過ぎて、ヘッヂン氏の假定説に對し、別段の變更を加ふるところなかりしが、一行は予も亦た試みに之を捜査し得んが爲に、此に止まることヽなり、馬より下りて足を地上に着くるや、予は全く器械的に乗馬用の樹條を以て、地面を爬起せるに圖らずも一小偶像を發見し、而かも明かに佛教的特徴を帶ぶるを知るに足るものなりしかば、予の驚喜は果して如何なりしぞ、茲に記臆の要あるは、回敎殊にその土耳基斯坦地方に行はれたる、ソンナイト派に於ては人身の模像を嚴禁したる一事なり、左ればこの些少なる天與の賜は、その証左と共に結局前述假定的回敎の廢趾は、其實佛敎寺院の遺跡なるに、我が同志の何人も我れに先立ちて其手を下したるものなく、全く一行をして第一に之が發見をなさしめん爲に、備へられたるものなることを明かにせるものなりき、該寺院の發掘は三十人の人夫を使役して六週間を費し、其結果古寫本に就きては何等の得る所なかりしも、數多の木刻及古錢と幾箇の陶器と、其内一は精緻なる水壺に、加ふるに殊に幾多の小佛像と、人身大なるガンダリヱン頭部中の多くは精巧なる彫刻を施したるもの等を發見し得たり、是等の發見物は苟くも多少の經驗を有せる具眼者には、一見直ちに古希臘風 ヘレニツグ の感化其中に存するに驚かしむるに足るものなり、而かも是れ決して膚淺なる誣妄の言にあらず、抑も亞歷山多大王の死後、希臘の王統はバクトリア地方パミール高原の東に連なる地方に散在して、その衰祚を保ちたりしに、我が紀元少許以前に方り、是等の君主は亞細亞高原より下り來りたる、匈奴 ハンス 及突厥 タークス の同族に入寇せられて、その亡ぼす所となりたるが、彼等戎狄は却てその戦勝攻取せる文明の殘勢を擁護し、多少自ら爲に希臘化さるヽに至り、進んで南方印度に向ふに及び、印度河上流に於て更に佛敎に遭遇し、終に復た其敎を奉ずるに至れり、かくて印度佛敎とバクトリア希臘風との觸着に依りて、ガンダリヱン即チ希臘佛敎的 グリーコプヂスティック とも謂ふべき工藝の特種形式を産するに至りたるなり、尋いで我が紀元第一世紀に當り、佛敎は印度以外弘敎の大事業を開始し、延きて東方亞細亞の極偶に達せしむるに至りたるが、尚ほ之を約言すれば、佛敎は古昔のガンダハラ、バクトリア、カラコーラム、及パミール高原に傳播して支那土耳基斯坦を包括し、工藝は宗敎に伴うて進み、かくて瑣尾流離せる希臘文明の流風餘韻をして、一綫の微猶ほ能く遠く支那或は更に遼絶せる日本の地に加ふるに至らしめたるもの、職として佛敎の惠澤に是れ由る、吾人が多木什克の一彫像に依りて、地中海の文化が極東の文化と觸接抱合するに至りたる經路を指點するを得るは蓋亦た是が爲なり
 多木什克より庫車に達せしは一九〇八年の一月初旬なりき、庫車の城外山麓に幾多貴重なる人工洞窟の點在するあり、沙丘沙嵓又は沖積層等を穿ちて之を營みたるものにして、一千年前回敎の到來以前に於ては、佛敎寺院によりて管せられたるものなり、彼の千佛洞の處在地は即ち此處にして、洞の墻壁は掩ふに壁畫を以てし何れも七世紀より九世紀に亘るものなり、是等の洞窟に於て ヒンヅー、イレーニアン(古波斯)、希臘及支那各文化の滙流會同せる結果を、その繪畵につき覃究するは最も興味多し、幸ひに是等の繪畵は、その歳月の消磨によりて損蝕せられたること、彼の征戰の餘威に乗せる回敎徒の加へたる、古昔ヴアンダル人が羅馬文藝に對せるに等しき兇殘の所為の如く甚しきに至らず、但たこの千佛洞發掘の業は、既に先着の獨逸人の手によりて成されたるを以て、一行は單にその寫眞を撮影するに止め、同時に千佛洞以外の古佛寺を探撿し、數月間その發掘に從事し、多くの木刻陶器古錢等を發見し、殊に多木什克に於て得ること能はざりし古書を發見したり、是等の古書は長く大氣中に存したる爲損敗を來たし、中には塵土に化したるもの多く、且つその大部分は書するに婆羅門字を以てしたるも、其文は中央亞細亞の方言を用ゐ、今や既に廢語に歸したるものに屬するを以て、之が譯解は至難の業たるを免れず