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「清国に於ける日本人教師の現在及び将来」 (其一) 1 吉野作造 (1909.3)

2020年09月27日 | 清国日本教習 天津、北京、武昌他

 下の文は、明治四十二年三月一日発行の 『新人』 第拾巻 第参号 の ◎想苑 に掲載されたものである。 

淸國に於ける日本人教師の現在及び將來(其一)
               吉野作造

 予は、去る三十九年一月、時の直隷總督袁世凱氏の招聘に應じ、其長子袁克定氏の家庭教師として天津に赴任し、四十年九月に至り、更に其囑托により、天津なる北洋法政専門学堂の教習を兼ね、本年一月無事東京に歸つた。滿三ヶ年の歳月は主として天津の地で暮した。外に出たのは、北京に數次往來したのと、三十九年中袁克定氏が奉天將軍府の營務處總辨に赴任したのに隨行して、三ヶ月を其處に過ごしたのみに止る。故に予の見聞の範圍は至て狹い。其狹い範圍内の見聞を基礎として全體を論ずるのは、稍失當かも知れぬ。併し予自身に於ては、出來る丈け手を盡して他地方の事情をも廣く聞き質した積りではあるが。ソレでも判斷に誤がないとも限らぬ。畢竟見聞が狹い故と、御諒察を願ひたい。

   淸國に雇はれて行って居る日本人は一體どの位居るか

 獨り教師と云はず、顧問、技師其他種々の名目の下に、淸國官憲の雇傭に應じて彼地に働いて居る者は、淸國全體を通じてどの位居るだらうか、精密なる事は分らないが、或る確實なる筋の調査に依れば、約六百人との事である。少しは脱漏もある事と見て、大目に見積つても七百人とは出でまいと思ふ。勿論此中には、家庭教師の如き私人の雇傭に係る者は加へてない。扨て其の六百人の被聘者を、其職業の種類によりて分類すると大體次の如くになる。    
  (一)教師         約五百名
  (二)税關官吏       約五十名
  (三)技師         約七十五名
   (イ)醫務衞生ニ關スル者 約二十名
   (ロ)土木建築ニ關スル者 約三十名
   (ハ)農工業ニ關スル者  約二十五名
  (四)顧問         約二十名
 右の中顧問技師と稱する者は、名は顧問でも實際は教師を兼任せしめられ否教師の方が實際上の本職の如き觀があるから、之等の者は重復して教師の中にも加へておいた。故に約五十人程は兩方に二重に計上されて居る。今以上の者の個々つき、更に詳細の説明を附して見ると、先づ顧問と云ふのは、軍事、警察、教育等の事につき、學識經歷共に兼ね備つた人物を雇ふて、必要のある塲合に諮詢するのである。全體に於て二十名位と思ふが、主として天津、武昌及び滿州の地方に居る。北京には居ない。之は北淸事變後、淸國は各國より庶政改革の顧問として各自國人を雇つて呉れとのうるさい要求に遇て大に困つた揚句、弊國では弊習の外は中央政府に外國人を入れませぬと誓つたさうだ。ソコデ北京には、先達歸られた服部博士や巖谷岡田小河志田の諸博士を始め、多數の邦人教師が居るけれども、顧問と稱すべきものは一人もない。顧問と名のつく者は、地方に限る事になつて居る。天津では、例の袁世凱の、北淸事件後改革に意を注ぎ、多數の有力なる人士を顧問として雇入れた。今の興業銀行副總裁佃一豫氏の如きも、三十九年夏まで財政顧問として天津に居つた。其他軍事、警察、教育、工藝、衞生の方面に、各一兩名の顧問を入れ、今猶新總督の下に殘つて居る人も少くない。併し實際は、顧問としての仕事は極めて少いので、多くは夫々の關係の學校があつて其學校の經營を兼務として托されて居ると云ふ名目の許に、實は教師が本職となつて居る。武昌には、曾て張之洞が軍事などの方面に、邦人を顧問としたのか、今も殘つて居るのである。猶其外にも居るが、重なるは此二地に限るである。滿州にも顧問が各地に多いが、之は少し事情が違ふ樣である。滿州では、日露戰爭後、各地に於ける日本軍政官が、誠實に淸國の爲を思ふて、其地々々の知縣や、知府やに衞生とか警察とか教育とかの改良を忠告した。淸國官吏は、必しも之を成程と思はなかつたらうし、又成程と思つても敢て進んで實行しやうなどの考はなかつたらうが、何分一方は戰勝の餘威を挿んで居るので、一も二もなく唯々諾々、然らば宜しく御指導を仰ぐと返事したものらしい。ソコデ軍政官は軍醫看護長などを衞生顧問に入れたり、憲兵を警察顧問に入れたりした。忌憚なく云へば、多少押賣の氣味もあつたらしい。斯ういふ譯で、滿州の顧問は、雇ふ者も下級官であり、雇はるゝ者も必しも學識經歷共に高き紳士ではないのが多いから、少數の例外(奉天將軍の下の顧問の如き)を除いては、他地方顧問とは大に趣を異にして居る。從つて淸國側から信用を得つて居る程度も、大部違ふだらうと思ふ。又從て、其地位も安全なるものとは云はれまい。次に技師だ。此中醫務衞生に關する者は、主として、滿州に多い。之は前述顧問とは略ほ同樣の成り立ちである。土木建築に關する者は、大多數は張之洞の雇ひたる原口博士部下の鐵道技師及技手で占めて居る。殆んど全部が之れだと云つてもよい。農工業に關する者は廣く全國に亘つて居る。第三に税關官吏だ。淸國の税關は、御承知の通り、英人ロバート、ハートの統率の下に、廣く世界各國人を以て組織されて居る。名義は淸國の官吏なれども、任免陟黜の權は悉く英人の手に握つて居るから、他の淸國被雇者と大に趣を異にして居る。一般招聘者は、淸國人心の賴むべからざる如く、其地位も不安である。如何に信用を得て居る積りでも何時罷めらるゝかも分らぬ。況んや、自分の雇主たる淸國官吏自身が、既に交迭頻繁なるに於てをやだ。然るに税關の方は、ソンな無暗矢鱈な處置はせぬ。否實際は寛大驚くべきものがある。大抵の失策は大目に見て呉れる。自國の官吏たるよりも氣丈夫だ。仕事が樂で、コセゝせず、棒給も多く呉れる、罷められる恐がない。之程割のよい職業はない。氣樂といふ點から云へば、世界第一だらう。目下務めて居る人々は、何れも相當の信用を得て居るといふ事である。終りに教師である。之は廣く各地に分布して、一所に固まつて居ぬ。一番多く居るのは北京と天津である。共に五六十名居る。北京は服部博士の歸朝と共に、一事に十名内外の減少を見たから、今では天津が一番かも知れぬ。之に次では、武昌、保定、廣東、奉天の約四〇名、南京、成都の約三十名等である。此外十名以上居る處を擧ぐれば營口、蘇州、濟南、太原、杭州、福州、長州等の順序である。先に言ひ落したから一寸茲處で斷つておくが、淸國では、何故顧問として雇つた人に、教師の事務を取らせるかと云ふに、之には大に理由がある。第一に顧問といふ名義が頗る淸國に於て受けが惡るい。自國の事を外國人に諮りて取りまかなうといふ事は、如何にも淸國特有の自尊心を傷くる事だ。從つて近頃は顧問といふ名義で外人を雇ふといふ事は絶對的に無くなつた。假令實際の職務が顧問とした所が、契約書面には、教師とか、翻譯官とかと書く。要するに、顧問といふ名義が、一體淸國人士間に喜ばれぬところから、當局者も、實は顧問ではない教師として使つておくのだと云ひ得るやうに、學校へ祭り込むのである。第二に折角顧問を雇つても、雇主に顧問に相談する丈の準備が無い。準備といふのは物質上の準備では無い、精神上の準備の意味である。警察の顧問を置いても、御自分が警察の事をサパリ分らんでは、相談のしやうがあるまい。且つ淸國の官吏は、客と接して馬鹿に體面を裝ふから、謙りて顧問に諮るといふ事は中々出來にくい。去れはとて全く用務なくても困るから學校に祭り込むのである。此點に於ては流石に袁世凱はエラかつた。彼は別に日新の智識あるに非ずして、而かも先づ遺憾なく邦人顧問を使つて仕事を成さしめた。邦人顧問諸氏も袁世凱ばかりは馬鹿にしなかつたやうだ。第三に當の雇主は、十分に顧問を使ふ積りでも、部下の者其人を得ざる爲め、遂に顧問をして其本務を盡さしめずに終ると云ふ事もある。例へば總督が工藝顧問を雇ふと云ふ塲合に、大體の事は總督と顧問と相談するも、細目の事は工藝局と云ふ一官衙を設け、其局長をして行はしめる。故に實際の施設について、顧問の直接交渉する者は局長である。故に局長に其人を得ざれば、(其人を得ざることが通例である)、折角の顧問も爲すなくして終らねばならぬ。第四には淸國の官吏が外國の人を顧問に雇ふは、必しも全然自國文物の開發を謀る爲めではない。勿論雇つた目的の半分以上は、此人に相談して自國の開發を謀らうといふに在るが、其外、中央政府幷に外部に對する虚飾といふ意味もある。又財政の都合や何かの爲めに、意の如く實行する事の出來ぬ事もあらう。然るを外國人顧問は、這般の消息を察せず、單に一片の誠意よりして、自分の意見をドシゝ献策する。又淸國官吏の施設を遠慮なく批評する。然るに淸國人は、面と向つては當方の主張に決して反對せぬ、誠に愛想のよき人種で、何を云つても嫌と云はぬ抔なる丈け、遠慮なき獻策批評の續發に對しては、結局之を避くるといふ事になる。ソコデ、折角顧問として雇つては見たけれども、當方の懐合や其他の都合をも顧みず、色々の事を申出で來て、斷るにも工合が惡るいからとて、遂に顧問に面接する事を避くるに至る。ソレデ獨りで、無い智慧を絞りて色々の事を企て々居るが、之が顧問の目にとまりては、又批評さるヽが面倒だと云ふので、今度は何事も秘密にして、例へば警察の事に關して、當の警察の顧問に極く秘密にするといふ事になる。サテ斯うなると、顧問は全く用がなくなる。此場合に、西洋人であると平気で寝て居て月給を貰つて居るが、どう云ふものか日本人であると氣が短くて、黙つて居ぬ。尤も永く淸國に居る人は、可なり横着にもなつて居るが、來立ての人は、自分は淸國の用をする爲めに來たのだ、只居て月給を貰つては相濟まぬ、是非何かさして呉れ、何も仕事が無いなら解雇して呉れ、などゝ迫る。ソコデ淸國官憲は、仕方がないからとて、學校へ祭り込むと云ふのである。少し話が極端になつたけれども、先づ大體こんな風である。序に云つておくが、中には何も仕事をせずに居れば、結局罷めらるゝといふ不幸な目に遇ふだらうとの懸念から、仕事を與へて呉れゝと要求する人もあるだらうが、ツマリは其理窟にはなるのだが、併し淸國では、一方に非常に金錢に鋭敏な代りに、他方に於ては、高い月給をやつて人を只寝かして置くことを、不經濟とふ程、コセゝしては居ぬ。一體に支那では、役人といふ者は、其地位に屬するソレゝの俸給を貰ふ特權を有するといふ考が主で、仕事を爲なければ金が貰へないといふ考は少い。(此考も漸次變りつゝあるが)。昔の封建時代に、仙臺の人間が薩摩守になつたり、東京の人間が出羽守になつたりして、徒に俸祿を貪つて居たといふやうな例は今も淸國で目撃する事の出來る事實である。仕事がなくて只居て月給を貰ふとて、何も心配は入らぬ話である。ソレニ、例へば雇主が袁世凱とかいふやうな大官であれば彼等は仲々體面を重んじ、一旦雇つた外國人を、用がないからとて輕々しく解雇するといふが如き事は、マアしない。之は該外國人に對する徳義より來るのではなくて、自分の虚榮の爲めであると聞いては餘り有り難くは無いけれども、兎も角も地位の不安は、斯かる雇主の下に於ては憂ふる事はないと思ふ。
 猶終りに前記六百人の本邦招聘者の地理的分布を述べて見やう。一番多いのは矢張り直隷で二百人に近い。大部分は北京、天津、保定に居るのである。次は盛京の百人で、江蘇の六十人、四川湖北、廣東の四十人、湖南の二十人、浙江、山東の十五人、福建、山西、陝西、雲南の十人、之に次ぎ、江西、貴州、吉林、安徽、河南、甘肅、新疆、蒙古にも兩三名行つて居る。全體の中、婦人は三十名位ある見込たが、之は男子招聘者の妻君にして同時に女學校などに雇はれてるのもあるだらうが、大部分は單身の人である。一番多いのは直隷の十人で、盛京、四川の五人、廣東、江蘇の三人、湖南、湖北の二人、之に次ぎ、雲南、浙江にも一人居るとの事である。猶此外、家庭教師として官憲側以外の應聘者をも加へたならば、男女とも猶ニ三十名はあるだらうが、其中家庭教師としては矢張り婦人が多いから、實際婦人の淸國教育事業に關係して居るのは、五十名もあらうかと察せらる。
 全體で六百名ばかり雇はれてあることは前述の通りであるが之等の人は、僻遠の地方に居るものは單獨で往つてゐるけれども、交通の便利な沿岸程遠からぬ處に働いて居る者は、多くは家族を引き連れて往つて居るから、其家族をも合せて計算するときは、數千人に上る事であらうと思ふ。
 終りに之等の人々の得る俸給はどの位であるか。之も或る確實なる材料により精密なる計算をして見たが、概算年額百六十萬元(元は約一圓に當ると見て差支なし)にて、一人平均月額二百二十元である。之は餘程内輪に見積つての計算だから、或は實際も少し多いかも分らぬ
 以上教師に關係なき者の事まで詳細に述べ過ぎた。之からは本文に入つて教師に關する事を説かう。



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