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「支那劇及び脚本」 辻武雄 (1910.9)

2020年12月24日 | 清国日本教習 天津、北京、武昌他

     

 支那劇及び脚本
           辻武雄

 余は、日本劇には、全くの門外漢である。否 いな 其の實は平生から嫌ひと標榜して居る。( 或は喰はず嫌ひかも知らない。)然しながら、演劇が國民の風俗や、思想感情に及ぼす感化の偉大なことだけは、善く知つて居る。
 ところで、余は、明治三十一年の九月、初めて渡淸の折、北京、天津にて、初めて支那劇なるものを見、繼いで上海や蘇州に於いても、五六回これを見た。やがて歸朝し、一時支那劇とは、全く隔絶するに至つたが三十八年の春、再び渡淸してから、今春二月に至るまで、五年間といふものは、上海、蘇州、南京の三地に於いて、斷えずこれを見續け、その度數を云つたら、到底百度詣 まゐり 位ではなかつた。
 而るに余は、不思議にも、初めて支那劇を見た當時から、同劇が大層氣に入り、非常に面白かつた。それは決して其の劇の筋が善く判つたが爲めでなはい、其の言語に通ずるが爲めではない、その脚色が劇として面白かつたが爲めでもない、其の音樂が特に耳新しく聞こえたが爲めでもない、又舞臺や、道具が、我が國の劇のそれ等と大 おほ いに異 ことな り、又衣裳が、金碧燦爛として目を眩するが爲めでもない、又其の劇の特徴たる唱歌の調子が一種の面白味を有して居るが爲めでもない、否正直に白狀すると、余は、元來支那劇にも、日本劇と同じく、全くの門外漢であつた。當時は、劇の筋などと云つたら、少しも判らず、脚本の有無すら知らなかつた、支那語には、少しも通じて居らなかつた、脚色の如何には、少しも頓着しなかつた、音樂は、誠に騒々しく、殆ど耳も聾せんばかりであつた、舞臺や、道具は至つて簡單粗漏なものばかりであつた、衣裳は、唯燦爛花の如く見ゆるに過ぎなかつた。唱歌の調子と云つても、別に是 これ ぞと云ふ程妙味を覺ゆることも出來なかつたのであつた。
 然らば、余は何故に最初から支那劇が非常に氣に入つたかと云ふに、決して各段に定まつた點もなく、又別に深い理由とては、更に無かつた、唯身劇塲に入り、舞臺に對し、俳優の唱歌や、臺詞 せりふ を聽き、其の身振や立廻を觀る中に、自然に何處となく、大層氣に入り、非常に面白い處があるやうに感じただけであつた。
 それから、余は、此の四五年間に、斷えず常に演劇を見、其の歌曲を聽き、其の脚本を讀み、二三の名優や劇場主及び所謂劇通等と相知ることとなり、種々の問題に就いて調査研究した結果、
 (一)支那劇の脚本は、材を二十二史、及び現淸朝に採り、上は列國から、下は現代に及び、正史を敷衍し、或は缼漏を補うて、變化を惹起し、殊に三國志や、水滸傳の事柄を翻案したのが多いので、歷史の半面、社會の内情を知ることが出來、又其の俳優が着くる衣裳や、冠帽は、漢唐時代のに擬したものが多く、又現代の生活を現はしたものも有るので、支那古今の風俗の變遷を見ることが出來ること。
 (ニ)支那劇の脚色には、種々の分子を含有し、忠を盡し勇を鬪はすを以て主と爲して居るのがあり、或は喜樂歡ぶべきを以て主と爲して居るのがあり、或は悲哀嘆ずべきもの、或は教訓人を導くべきもの、或は滑稽笑ふべきもの、或は男女の愛情、或は神仙、怪異を主とするのもあるので、苟 いやしく も支那人の思想感情、即ち國民氣質を窺ふには、缼くべからざること。
 (三)支那劇に用ふる臺詞は、概ね北京語、若 もし くは其の系統に近き湖北語、若くは、山西語であるので、支那語を學習するものが、能く其の臺詞に就いて翫味するときは、非常に語學の補助と爲るべく、殊に其の言語は、口調や言廻に注意してあるので一層其の必要あること。
 (四)支那劇に用ふる舞臺や、道具は、我が國劇塲のそれ等と大いに違ひ、殊に其の各脚色が謠 うた ふところの唱歌は、其の聲音と云ひ、其の腔調と云ひ、確かに一種獨特の妙味を有し、一吟一誦、或は行雲を遏 とど め、或は猛虎を叱 しつ し、或は衣襟を正し、或は人心を動かすの槪があるので、支那劇は、一種の歌舞としても、優に世界の一方に立つことが出來ること。
 (五)支那劇と、我が能樂及び演劇とは、其の結構、隈取、眼遣 めづかひ 、足蹈 あしぶみ 、身振及び拍子等に於いて、餘程類似の處があり、演藝史上、必ず何等かの關係聯絡のあることが明らかなること。
 (六)支那の脚本に用ふる文章は、一體に洒落で風致があり、語は簡にして意は深しとでも云はうか、機微の間、確 たしか に一種の妙味を有して居る、普通の臺詞にても、之を俗人の言葉と比較すると、餘程美的な處がある、殊に唱歌の處に來ると、詩に似て詩でもなく、詞 ことば らしくて詞にもあらず、而かも字句の間、風雅淸麗、琅琅 らうらう 誦 しょう すべきものがあるので該脚本は、大いに文學上の價値があること。
 此等の諸點が、漸次明白となつてから、余が支那劇に對する趣味は、ますゝ深くなり、其の嗜好は、いよいよ甚だしく、一時は、暇さへあれば、炎熱燬 や くが如き暑天でも、朔風骨に透る寒夜でも、厭はず倦まず、劇塲に出入し、遂には、『蘭花記』と云ふ一幕物の脚本までも自ら著はして、之を彼國の劇場に於いて實演せしむることゝなつたので、余は屡々友人等から、一種の狂人、物數奇 ものずき 、さては死馬の骨拾とまで冷評せられ支那人には、戯迷的(芝居狂といふ支那の俗語)と嘲笑せられたこともあつた。
 今支那脚本の文章の一端を示さんが爲め、各種の劇本から、唱歌の箇所數節を左に擧げよう。
  〔以下省略:上の写真参照〕
 此等は、唯其の一例に過ぎないが、若し其の一字一句に就いて、仔細に翫味して見ると、詞華燦然琅琅誦すべきものが有るのを認むるであらう。其の他多數の脚本に就き、一々吟味したる、文學上から觀て、一種の妙味と、相當の價値とあるものが、決して尠くない。然しながら、公平無偏に、支那劇を觀察し、殊に今世の進歩的演劇觀から、之を評騰したらば、今日の支那劇は、まだ粗製品たるを免かれない、其の中幼稚な處がまだ多くある。但し粗製品であるだけに、此の上改良すべく精造すべき餘地が、まだ甚だ多い、幼稚な處があるだけに、今後進歩すべく發達すべき希望が、まだナカゝ有る。其の中、歌曲と衣裳とに就いては、此の上改良すべき餘地や、發達すべき希望は、比較的に少ないだらうけれども、其の脚本や、舞臺や、背景や、大小道具や、音樂や、さては光線、色彩、喚氣等の諸點に於いては、此の上改良せなければならぬ餘地が、まだ餘程澤山にあるだらうと思ふ。それで余は、支那劇の前途に就いては、毫も悲觀しないで、寧ろ頗る多端で、且つ多望であるであらうと信ずる。
 幸に支那にても、此の兩三年來は、演劇改良の聲が、次第に高まつて來て、遂に朝廷に上奏し、總督に建白したものさへあり、一派の文士や、俳優は、材を内外に採つて、各種の脚本を新作し、或は劇塲の建築や設備を、大いに改良し、或は俳優養成の學校を起し、或は上海の名優夏月潤は、昨夏演劇視察の爲めに、我が東京に渡來した。だから支那劇は、今後漸を逐 お うて進歩發達すべく、今から三四十年も經つたら、今日の演劇とは、餘程面目を改め、世界の演劇上に於いて、優に一方に雄視することが出來るだらうと思ふ。
 故に余は、邦人が、支那歷史の半面や、古今風俗の變遷を見或は支那人の思想感情や、即ち國民氣質を知り或は支那語の學習を助け、或は脚本上の文學的趣味を辿る上からして、支那劇及び脚本の研究を邦人に勸奬したいのである。
 又翻 ひるがへ つて一方東亞問題の根本的解決上から言ふても日淸兩國は、種々の點に於いて、連絡結合することが大層必要である。言ふまでもなく、國際と云ふものは獨り政府と政府との交際ばかりではなく、同時に必ず國民と國民との交際を親密にしなければならぬ。而るに今日では、我が國と支那とは、政治上や、軍事上や、教育上や、經濟上や、貿易上に就いては、各種の事情關係から、次第に連絡が出來て來たけれども、獨り國民の娯樂上に關しては、未だ何等の連絡や結合が付いて居ないのは、余が常に大いに遺憾とする所である。而かも、娯樂上の連絡結合は、精神上の融和親睦に、最も有力なるものゝ一であることを一考しなければならぬ。而して演劇は、種々の娯樂の中で、最も普通的で、又精神上に及ぼす感化の最も強いものである。殊に支那人は、世界に於ける非常な好劇家であつて、其の各地の茶館が、常に非常に繁昌するのと好對 かうつい に、南北の都會に於ける各劇塲が、常に大入を占めて居るのを見ると、演劇は、支那人との交際には、確 たしか に一種の有力なる機關である。
 故に余が希望する所は、日淸兩國は、將來東亞の繁盛 はんせい の爲めに、各種の點に於いて、連絡を圖ると同時に、梨園の連絡をも謀 はか り、專門の俳優は、相互 あひたがひ の親睦と共に、各自の演藝上から、互に其の技を競ひ、又長短相補はなければならないし、普通の國民は、娯樂上の關係から、互に融和相樂まなければならぬ。だから余は此の點からしても、支那劇、及び脚本の研究を、邦人に慫慂したいのである。
 右の外各種の脚本につき、能く其の脚色を吟味した上我が國の脚本作家の手に掛けて、之を我が劇に翻案し或は多少其の趣向を變へたならば、一幕物か、或は二三幕物として、一種趣味ある新劇を舞臺に登すことが出來るに違ひない。又若し文學に長ずるものがあつて脚本中の優秀なるものを取り、之を我が美文に譯出したならば、必ずや快誦すべき佳篇が出來て、近時流行の獨流文學に勝ること萬々であらう。
 然るに、今日邦人は、支那の各種事物に就いて、それぞれ、專門的に調査研究する所があり、其の結果、大いに見るべきものあるに拘はらず、獨り此の支那劇と脚本とに就いて研究するものが、まだ極めて寥々たるものは、余が實に慨嘆に勝 た へない所である。

 この文は、明治四十三年九月一日発行の雑誌 『歌舞伎』 第百二十三号 歌舞伎發行所 に掲載されたものである。



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