蔵書目録

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「清国の夏」 吉野作造 (1909.8)

2013年10月05日 | 清国日本教習 天津、北京、武昌他

 

 支那時代(明治四十一年三月於天津) 

 明治三十九年一月 清国直隷総督ノ招聘ニ応シ天津ニ赴キ当初北洋督練処翻訳官トシテ法政私教師ヲ兼ネ四十年九月ヨリ北洋法政専門学堂教習ニ転ス

 上の吉野作造の写真とその説明及び略歴の一部は、『古川余影』(昭和八年発行)より。 

 清国の夏 
          吉野作造

 まる三年滞在して居たうち、最後の年は暑中休みで帰朝して居たから、ツマリ支那の夏は二度経験した訳である。而かも一度は主として満州奉天で、一度は専ら天津で。

 ・三十九年の夏

 は主として奉天で過した。六月十五日に天津を出発し十八日奉天に着し、九月七日奉天を発し九日再び天津に戻る。支那の此辺の夏は五月半ば過を以て始まり九月半ばを以て終るから、夏の盛り凡そ八十日間は満州の野に放浪したのである。予の始めて天津に着いたのは二月であるが、予の雇主袁克定君は、急に勅命に依て奉天に仕官する事となり、同月下旬満州に出発した。而して親爺の袁世凱氏は、何か此際予の奉天に隨従するを好まぬ事情ありと見へ、久しく天津に予を遊ばして置いた。五月下旬に至り親爺の許諾を得たものが急に奉天より来て呉れと云って来たのである。一寸茲に袁克定君のことを話しておく。

 ・袁克定

 は、時の直隷総督袁世凱氏の長子で、其嫡妻の独り子である。袁氏には子が多いが多くは妾腹である。其時克定君は数え年二十八才であったが、風采も性質も頗る御坊ッちゃんであった。号を苔といふ。総督附の日本語通訳金在業といふ朝鮮種の男がオンタイサンゝといふのが何の事か分らなかったが、後に克定君のことと分った。吾々は少爺 シャオエー と呼んで居る。若旦那の意である。此の少爺は、御自分で思ふ程偉くは無いが、親爺の威光で正四品を賜り、文官としては候補道台武官としては何とやらいふ日本の陸軍少将に相当する称号を貰って居る。制服を着て剣を握って撮った写真は、四ッ切大に引き伸ばして書斎の飾となって居る。予の赴任した頃は、別に現官を奏せず、親爺の下に読書三昧に耽って居た。彼れの読書好きなのはまた格別で、親爺が奨励など少しもせぬに拘らず、日本の新刊のあらゆる法政経済の書物を買ひ集めて勉強せんと心掛けて居る。是れ丈は誠に感心した。予の行く前は、直隷総督の招聘せる日本教習を引請して、日本語やら何や彼やを学んで居ったが、遂に専属の教習を雇って、かねて買ひ集めて居る日本の書籍を片ッ端から読破しやうとの決心から予を雇ふ事にしたのである。親爺の方はどうかと云ふに、少爺の勉強するのは余り好まぬらしい。ナゼといふに、少爺は元来蒲柳の質である。両三年前虎列拉に罹って九死に一生を得てよりは、殊に親爺の神経は過敏になり、勉強などしなくても身体さへ丈夫で居て呉れゝば宜いといふ考になったからである。曾って斯んな事があった。少爺日本に留学して勉強して見たくて堪らぬが、両親の許諾は之を得る見込みもない。そこで密に家を逃げ出し、三井洋行の周旋で日本船に乗り込み、遥かに海をこえて留学の素志を果さんとしたが、船に乗り込んだばかりで追手の捕まる所となったといふ事である。之も親爺が専属の家庭教師として僕を雇ふことに同意した つの原因であると後で聞いた。兎に角少爺は身体が弱いといふところから、両親の甘やかして育てた子である。袁世凱といふ人は元来が子供に甘い人なさうだ。であるから年既に二十八歳に至ると雖へども、支那人に珍らしい単純の人で、頭脳明晰と聡明好学といふことより取り柄のありさうに見えない人だ。袁世凱氏はその時年四十七だから、彼の二十八歳の頃は、李鴻章門下の麒麟児として嘱目されたものだ。明治十七年馬建忠と共に京城に我が竹添公使をイジめたのは二十五歳の時である。勿論親爺は多少早熟と云はゞ云へるけれども息子さんの方は晩成した所が親爺程には行かぬらしい僕の行く一年前には、時の山東巡撫楊士驤が、袁克定を引き立てる積りで(ツマリ袁世凱に対する一の御奉公たが)自分の幕賓として高禄を以て迎へたが、二ヶ月ばかりで飛び出して来た。奉天に行ったのも同じ理由であって、ツマリ時の奉天将軍張爾巽が、馬賊の討伐の為め袁世凱より直隷陸軍の兵隊を借りて居たが、一ツには之等の兵隊を操縦する便宜上、一つには袁に対する御奉公の積りで、克定君を迎へたのである克定君は奉天で将軍の幕賓たる待遇を受け、営務処総弁といふ栄職に坐して居た。
 少爺は奉天でも永続きはしなかった。汽車の便があったものだから、二ヶ月に一度位は必ず天津に帰り、二十日位滞在して暫く家族の間に旅情を慰めて居ったが、遂に堪え切れずして、些末の事に腹を立て八月中旬辞職して天津に帰った。従って予も奉天には留まること三ヶ月に足らずして再び天津に帰ることになったのである。
 併し先きに奉天から召命を受けた時は、斯んなに早く帰るとは思はなかった。多分奉天に居るうちに約束の期限も来て、其儘帰る事になるかも知れぬと思ったから、一度親爺に会って置きたいと思って金在業といふ男を頼んで面会を乞ふた。一寸横道だが、

 ・金在業

 のことを話して置く。此男は袁世凱氏の日本語通訳にて元は朝鮮人である。日本語の巧なることは驚くべきもので、誰でも始めて遇った者は日本人の支那装して居るものとしか思はない。此男の云ふ所によると、自分は朝鮮釜山の者で、両親は自分の生れぬ前から日本に商業をして居った。無論自分は日本にて生れた者である七歳の時横浜にて親父に死なれ、其後十九歳の歳まで長崎の高橋某氏に養はれ、其間辛さに艱難を嘗めた。十九の年から天津北京の地方に来て支那語を勉強した。今日は袁閣下の御引立に依って支那に帰化し、日韓両国語の通訳を勤めて居るが、元とゝ自分は日本に生れ日本人に養はれ、云はば日本に対して大恩を受けて居る者であるから、自分は幸ひ通訳の職に在るを利用して大に日本人諸君の便利を謀り、以て昔日の恩に酬ゆる積であるなどと云って居た。実際予に対しても頗るつとめて呉れた。之は慥かでは無いが、袁家の或る支那人の言に依ると、彼は袁世凱氏が朝鮮公使在任中手に入れた第三の寵妾金氏の兄ださうな。様子を見るとどうも本当らしい。
 話が後に戻る。かねゝ頼んで置いた

 ・袁世凱に面謁

の願望は愈六月一日御許が出た。一体袁世凱に遇ふといふことは容易の事ではない。予は到る処で、「支那人は直接遇つて見ると非常に愛嬌があるが、相見ぬ中は馬鹿に尊大に勿体ぶる」といふ事を云ふが、特に総督ともなると勿体ぶること王侯も啻(ただ)ならずである。予の如きは愛児の教師であるから、向ふから訪問して来なくても、不取敢僕を丁重に招いて宜しく頼む位の一言あるべきことゝ思ふのであるが、彼は中々勿体ぶつて之れ迄数度会見を申し込んだけれども、成功しなかつた。会見を申込んで其承諾を待つといふ様な対等の言葉では、勿体ぶる有様を形容することが出来ぬ。寧ろ拝謁を懇請して、御〔許〕しの御沙汰を待ちはべるとでも云つた方が適当であらう。

  袁氏に面のあたり遇つたのは此日が始めだけれど、同氏を見た事は度々ある。それは同氏が外国領事館を訪問するというやうな場合に、往来で馬車の窓から顔をのぞいたのである。此際の行列も一寸主上の御通りといふべき位の仰々しさである。先づ出門三十分前に号砲三発を以て合図し、此れに依りて巡会は通行を止めて往来を警戒し、やがて後先に一小隊位の騎馬の護衛兵と、同じく騎馬の供奉員数十名を従ひて静々と乗り出すのである。この際彼の性格を現はす一つの面白い事がある。彼は往き道には必ず往来の左側の民家に目を注ぎ、決して右側を見ない。返り道には又必ず反対の側に目を注ぐ。之を彼が民情に通せんと欲する心の切なるを示すものと半可通の支那人は馬鹿に感心して居るけれども、予等より見ればこは彼の細心と小策とを遺憾なく発揮せるものと思ふ。

  六月一日は来た。丁度珍しく涼しい日であつたから、夏物のズボンに冬物のフロツクコートを着けて、午後二時といふ約束の時間に遅れじと総督衛門に車を走らした。刺を通じて先ず金在業を呼んで貰ひ、応接間に五分間ばかり待つてゐると、金君が来て総督は直に御目に掛るさうだ此方へと誘ふ儘に猶奥の方へ行つた。途中に雑役雲の如く群がり居て一々起立最敬礼をあびせらるゝにはチト面喰つた。約一町ばかり廊下を伝つて行くと、とある左側の戸口の処には粗末な綿服を着けた小作りの老翁が、余を予を見るや嫣然として握手を求むる。見れば写真通り又かねゝチラと見ておいた通の総督であることは、金通訳の紹介あるまでも無く知られた。之れ迄の勿体ぶつたに似ず、遇つて見てニコゝ握手を求むるといふ軽快な態度にはまた面喰つた。招ぜられて部屋に入る。見るに真中に三尺に五尺位の卓子があり、其廻りに粗末な椅子が五六脚ある。隅の方にも机と椅子とありて書類が堆(うずたか)く積んである。凡て洋風であるが、其粗末なには驚いた。部屋は約二十畳位であるが、装備は何も無い。何よりも驚いたのは袁氏の垢じみた綿服をだらし無く着てゐる事である。之も後で分つた事であるが、支那人は一般に人の目のつく処は馬鹿に贅沢たけれど、人の目につかぬところは非常に倹約である。衣食住ともに、客の前とは雲泥の差である。袁氏は机の正面に腰を下ろし、予は其右手に、金通訳は子に対ひ合つて座つた。一と通り時候の挨拶が済んでから、袁氏は、息子は身体が弱いから余り過度の勉強せぬ様注意して呉れ。奉天は気候も違うし且戦後日浅く色々複雑な処だから、身体もどうだらう、仕事も旨くやれるか心配で堪らぬ、などの話があつた。夫から日本の気候はどうの、渡清するときは 難儀したらうの、妻君や子供衆は御機嫌がいゝかの、天津に来て病気せぬかの、何か不自由は感ぜぬかのと、のべつに喋り立て、約三十分間は予に一言も吐かせぬ。やがて袁氏は茶を啜り、予にも呑めといふ。予も呑んだ。スルト金通訳は、御用談も済んだから御暇しませうとて起つた余も已むなく起つた。袁氏は戸を明け、内門まで送り出し、二三度手を握り交して分れた。之も後で知つた事だが、貴人と会談して、主人が茶を呑めば客は必ず同じく茶を呑んで辞し帰るべきものださうだ。若し主人が客の帰ることを求むるの に非ずして茶を呑むときは、「御随意に御喫がり下さい」と屹度云ふものなさうだ。否らずしてイキナリ茶碗に手を掛くるは、辞帰を求むるの合図であるとの事である。シテ見ると袁氏と予との会見も、約三十分間一言も吐かざれずして、体よく追ひ返された訳になるので、考へて見ると馬鹿らしいが、併し其当時は、話し振りの如何にも打ち解けた、且愛嬌滴るばかりの容貌にて親切なる言葉を向けらるゝので、特に手を握るにも如何にも親情を込めたるらしき念入りの堅い握り様で、予は慕はしいやうの感情を持つて分れた。少くとも決し悪い感情は蕗ほども起こさなかつた。今から回想すればツマリ首尾能く翻弄されたのだが、併し応対振の巧妙を極むることは感服に堪らない。アレデは外交官も余程シツカリせぬとやられる哩と思はざるを得ない。

  袁世凱氏の容貌は能く雑誌の口絵などて見るが、ソックリ其儘だ。写真で見ると眼は鋭いが、実物は夫れ程で無い、光沢があつて一種の引力がある。色濃く頬豊に、鬚は半面以上だ。頭も余程禿げかゝり、僅に垂れたる辮髪も霜を帯ぶること深い。五十前の人とは思はれぬやうだ。心配の多い為めであつたらう。身の丈はヤット五尺位で、小肥りに肥つては居るが、脂肪質で、根は頗る弱かりさうに見えた。

  夫から愈(いよいよ)奉天行の準備に取りかゝり北京にも一両日見物に行き、六月十五日愈々半年の知己たる天津に惜しき別れを告げた。此項は頗る暑く、夏の真盛りであつた。一体

  ・北清の夏
  ・奉天に着いた
  ・初めての家住ひ
  ・馬賊襲来の噂

 上の文「清国の夏 吉野作造」は、明治四十二年 〔一九〇九年〕 八月発行の『新人』 第拾巻 第八号 に掲載されたもので、その中に、明治三十九年 〔一九〇六年〕 六月一日、吉野作造と袁世凱〔直隷総督兼北洋大臣〕との面謁の記述がある。

  

  上左の写真:『THE CHINESE REVOLUTION』 1912年 掲載のもので、著者J.BROWN が袁世凱より贈られたもの 1909年
  上右の写真:「中華民国大総統袁世凱閣下 Mr. Yuan shih-kai, The president of China.」とある絵葉書のもの〔臨時大総統時〕 

 なお、袁世凱の墓、「袁公林」(袁林:安陽市博物館)は、旧河南彰徳上村東北隅の太平庄〔現在の河南省安陽市(殷墟で有名)北郊郷安陽橋北:洹水北岸〕にある(「袁林与袁世凱」安陽市博物館)。実際、墓は立派なもので、皇帝の墓にふさわしい。牌楼門から、陵道には文官や武官・石獅や石虎、さらに碑亭には「大総統袁公世凱之墓」とある墓碑などもある。以前読んだ雑誌には、墓の詳しい説明があり、中国式とドイツ式が半々との説明があったように記憶する。〔下がその墓、以前撮影したもの〕

 



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