蔵書目録

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「松本良順 石黒忠悳 銅像」 (1915)

2012年02月20日 | 医学 1 医師、軍医、教育

 

 松本良順(左の胸像)・石黑忠悳(右の立像)の銅像で、陸軍軍医学校に建設されたものである。13.7センチ。
 絵葉書の通信欄には、次の記載が印刷されている。

 

 なお、昭和三年 〔一九二八年〕 十月に、二六新報社より発行された銅像写真集『偉人の俤(おもかげ)』には、屋外の台座のある銅像写真と共に次の説明文がある。

 

 松本順 石黑忠悳 銅像

 〔所在地〕  東京市麹町区九段上陸軍々医学校
 〔建設年月〕 大正四年
 〔原型作者〕 武石弘三郎
 〔建設者〕  森林太郎等門弟一同
 〔銘記〕   是為松本蘭疇石黒況齊ニ先生之像也半身垂髯者松本氏也全身均服石黒忠悳氏也初予等胥謀醵財欲造石黒氏聞而謂軍医之業蘭疇子所創始予唯承続之今蘭疇子墓有宿草而無像予忍独金石我形哉乃自補資之不足使予等成成松本氏像是所目此ニ像同跌庶幾不負石黒氏謙冲之徳也若夫泥塑石雕之事武石弘三郎任之武石蓋石黒氏郷人云大正四年歳次乙卯森林太郎記

 また、同書には、次の写真〔一部:台座はかなり長い〕と説明文があり、さらに偉人伝もある。

 

 石黑忠悳銅像

 〔所在地〕  東京市赤坂区葵町三番地大倉高等商業学校内
 〔建設年月〕 大正九年十月二十四日
 〔原型作者〕 武石弘三郎
 〔構造〕   高サ二尺五寸
 〔建設者〕  卒業生団
 〔銘記〕   ナシ

 石黑忠悳

 一

 衛生といふ言葉は可なり一般化されてゐるとするならば、衛生そのものゝ持つ本質的思想を一般化し、普及化した大なる蔭の力を思はなければならない。蔭の力とな何か、曰く子爵況翁石黑忠悳その人である。
 越後の人で平野順作の長男として弘化二年二月十一日三島郡片貝村で生れた。幼にして狐となると伝記にあるから少年時代頗る不遇であつたらしい。十五歳の頃に水戸新論といふ書籍を読んで大に動かされた。時代は維新を生む陣痛期で思想は動く、世論は喧しい、右往左往、処士が随所に頭を鳩めて横議してゐる。見るもの聞くもの新しきを求めざるはなしである。幼名を庸太郎と云つた翁は十五歳でも頭だけは一と廉の思想家に発育してゐる。尊攘の論を説いて四方を跳ね廻つてゐた。文久二年、先覚者佐久間象山の雷名を慕つて信州松代に来ると親しく意見を闘はして大に啓発せらるゝところがあつた。成程、迂闊に構へてはゐられぬわいと異常な昴憤を感じながら帰国して豫ての話通り祖父の後を継ぎ、姓を石黒と代へ名を恒太郎と改めた。
 石黒恒太郎と全く更生した青年に打つて変つた翁は、思想的にもこの期間を画して太い一線を引いたのである。 

 二

 愈々医学を研究しやうと決心した。当時の医学は現今とは大に異にしてゐる。医学は即ち知識であり文明であつたからだ。思想的には目覚めた翁が医学に志したのは当然の帰趨である。後ち柳見山の門に入り蘭医ポンペの講本を得てこれを謄写し苦学年余に及んだ。次で江戸の幕府医学所に入所して漢学を修め成績が抜群だつたので句読師に挙げられた。戊辰の変に際して帰郷したが依然勉強を捨てなかつた。
 明治二年再び上京して医学所に入り寮長の任に就き助教の職をも兼ねた。間もなく大舎長となつたが四年辞して兵部省に転じたが八等出仕に補せられた。翌年には一等軍医兼軍医補助となつた、六年にはニ等軍医正六位、七年には佐賀征伐に久留米病院を監し、又、台湾の役には長崎に在つて医務を督した。九年に至つて馬医監をも兼ぬるに至つたが、その年には米国ヒラデルヒヤ博覧会開催に際して派遣せられた。
 十年の西南の役に臨んで当局に建言し大阪に臨時病院を設立し自ら之が長となつて頗る奮闘し功績の見るべきものがあつたので勲四等に叙し軍医監に任ぜられた。十二年には東京帝大医学部副総理を兼任して文部省御用掛をも命ぜられ翁の声望は愈々昴まつて来た。

 三

 当時、軍隊に於ける脚気病の猖獗甚だしいので脚気病院の設置を提唱し自らも医院に挙げられてその設立に尽力し翌年には軍医本部次長に補せられ従五位を授けられた。十七年には東京大学御用掛を兼務し、次で恩給局御用掛、内務省四等出仕、十八年には勲三等、十九年には医務局長及び内務省衛生局次長といふとんゝ拍子に累進して二十年には欧洲に簡派せられ墺国ウヰーンの万国衛生及「デセクラフヒー」第七回会議委員として出席した。日本政府の衛生に関する意見を代表し使命を果して帰朝すると、軍医学舎長、軍医学校長、陸軍衛生会議々長等の軍隊に於ける衛生医療の各重機に参與し、遂に軍医総監の栄位に就き明治二十三年には陸軍省医務局長に補せられた。
 超へて二十七年には日清戦役勃発し戦端の繁くなるに従つて翁の活躍も亦多事多端となつて来た。即ち野戦衛生長官といふ肉体的に皇軍の戦闘能力を支配する最も重い責任を帯びて出征し、異境に弾雨を浴び瘴疫と闘ふ我が士卒の為めに日夜奮闘措かなかつた功績は素より説明の限りでないが、何よりも記憶せねばならぬことは我が陸軍衛生制度の完備を内外に示した一事である。
 尚ほこの大戦の側面史に点綴すべき佳話として伝へられてゐるものは、下の関で李鴻章が凶手に襲撃せられて負傷した際に、翁は勅を奉じて佐藤軍医監を伴ひ馳せ参じ懇に治療を施した功に依り清国皇帝から第二等双龍章を贈與せられたことである。
 戦端熄んで凱旋に意気昴る二十八年には正四位勲二等に叙し瑞寶章を賜つたのみでなく特に華族に列し男爵を授けられた。加ふるに功三級金鵄勲章及旭日重光章の勲功が翁の胸間を赫々飾つたのである。翌二十九年には陸軍の要職を辞退し鋭意主力を赤十字社、体育会及び衛生会等に濺ぎ翁の活躍は限られたる軍隊より解放せられて一般社会の衛生上に及ぼされたのである。枢密顧問官、中央衛生会々長、日本薬局方調査会長等に就任し後ち子爵を昇授せられ老来益々国家に奉仕してゐる。



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