蔵書目録

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「川上大將の思出と拳匪時代の支那」 井戸川辰三談 (1931.6)

2023年09月03日 | 清国日本教習 天津、北京、武昌他

 

 川上大將の思出と拳匪時代の支那
   陸軍中將 井戸川辰三

      一、
 明治廿八年、日淸戰爭が全幅的大勝利を以て結末づけられ、我が國民の總 すべ てが戰勝のうま酒に醉へる折柄、突如として來 きた つた露獨佛の三國干渉は、俄然我が國の東洋の盟主として進出し得 う べき出鼻を挫いた。鐵血によつて購 あがな はれた遼東半島は「東洋の平和に害あり」てふ一片の文書により、支那に還附することを餘儀なくされたのである。この屈辱を蒙つた我國は、今更ら其國力の足らぬことを嘆息するとすると共に、臥薪嘗胆を絕叫し、必然的第二に來るべき對露の一戰に備ふべく、擧國一致して、軍備の充實に努めたのであつた。この三國干渉は支那の主腦者が露獨佛を使嗾 しそう して、我國に加へしめた打撃であつたとは云へ、平常からいがみ合 あひ を續けて居る三國が、協同一致して、この難題を我國に提唱し來たのには素 もと より理由があつたのである。一言にして云へば、支那に恩をうつて、その代償を求め、權益を漁 あさ らうとする野心があつたからである。殊に露西亞は、其傳統的政策である。「東洋に不凍港を得る」と云ふ野心を滿たすべき機會をここにとらへて、獨佛を仲間に引入れ、高飛車式に我國を脅迫したものであつた。されば朞年 きねん ならずして、露はダルニ―を、佛は廣州を、獨は膠州灣を、高壓的態度で占領し、支那政府からその租借權を贏 か ち得たのであつた。三國との均衡上英吉利 いぎりす 政府も、黙視して居れずに、威海衛を租借したのは、當然の措置であつた。
 斯 か く西洋列強の野心が暴露した結果、三國干渉の一擧は啻 た〲 に日本の勢力が極東にのびて行くのを押 をさ へたのみならず、彼等が支那に進出して、其勢力を植ゑつけて行く巧妙なる外交手段に外ならなかつた。即ち一石二鳥を射る謀 はかりごと の成功であつたのである。莫迦 ばか を見たのは日本と支那とであつた譯だ。
 日淸戰爭の餘燼 よじん が漸く収まり、三國の支那に對する野望がとげられた頃になると、心ある支那の識者間には、漸く西洋列強の飽くなき行動を惡 にく むと云ふ傾向が著しく起きて來た。其處へ着眼したのが當時我國の參謀總長であつた川上操六大將であつた。大將は參謀本部の總長室に在 あつ て、徐 おもむ ろにこの大勢を靜觀して居たが、漸く機の熟するを見て取り、
「此際我國の覺悟としては、隱忍して兵備を充實し、何 ど うしても膺露 ようろ の一戰を試みなければならないが、この大業を成就せしむるためには、支那と親善の關係を結び、その兵備を改善して一朝事の起つた場合には、露西亞を牽製 けんせい するだけの自力を養はせて置かなければならない。支那も列強の飽くなき野心を漸く悟 さとつ て來たから、機は熟して居る」
と会心の笑みをもらしながら、夙 つと に陸軍部内の俊才として支那を研究しつゝあつた神尾、宇都宮の兩佐官を招致して、それ〲密命を與へ、支那に出張を命じたのであつた。
 重大な任務を與へられた兩佐官は、日ならずして支那に到着すると、先 まづ 以て當時の兩湖總督張之洞、兩廣總督劉坤一等に見 まみ え、世界の大勢から説き起して、支那の兵備を改善しなければならぬ理由に及んだ、そしてその具體案として武備學堂の改善、日本留學生の派遣等々を、提唱した。張之洞は非常な學者で且 かつ 日本を排斥して居た人であつたが、兩佐官の説くところを容れ、同意を表した。劉坤一は素より西洋列強の野心を看破して居たのであるから、一も二もなく兩佐官の説くところに共鳴したのであつた。恁 こ う大體の膳立が出來ると、兩佐官はその旨を川上總長に復命したので、總長は武備學堂を改善せしむべく、更らに幾人かの將校を渡支せしめその任務を擔當せしむることゝなつた。
 私はその際一大尉に過ぎなかつたが、夙 つと に支那研究に興味を持ち、官話の練習に餘念がなく、機を得たならば支那に入るべく切 しき りに勉強をして居た。すると明治卅年春の一日、參謀本部から招致されたので、出頭して見ると、總長が自身で會はれると云ふことなので、恐る恐る總長室の扉を排して見ると、川上大將は莞爾 につこり として私を迎へ、いとも打解けた態度で、
「井戸川大尉か、まあ其處へ掛けい。固くなつて居ては話が出來んから」
 と、大將の卓を隔てた一脚の椅子を指し示された。私は恐縮して、その椅子に着くと大將はいとも無造作に、命令せられた。
「處 ところ で君に一つ支那へ行つて貰ひたいのぢや、それは旣に向ふに行て居る宇都宮を助け、あちらの總督や巡撫と談合の上、支那の兵備を改善する任務に就いて貰ひたいのぢや行つてくれるかな」
「ハイ、承知致しました。微力ながら閣下の御意圖通り努めます」
 私が固くなつて答へると、大將は、
「何もさう固くならんでもよい。君と懇談するのぢやから」
 と私を慰めながら、卓子 テーブル の上に置かれた煙草 たばこ のセットから一本を抜きとられて、紫煙 しえん を吹き乍ら、
「何 ど うか煙草でも吹 す へ。それから支那は君も承知の通り要路への贈物が肝心ぢやから、俺 わし からよく副官に命じて置いた。君が必要と思ふだけ何程 なにほど でも持て行くがよい。副官と相談してな」
 私は全く大將の温容に打たれた。
「此人の爲ならば命を擲 なげうつ ても何の悔 くい があらう」と深く感銘しながら參謀本部を辭去したのであつた。
 大將の命令は簡單であつたが、その任務は重大であつた。私は命を受けると、直 たゞ ちに行李を整へ、大將の副官と相談して千餘圓の土産物を買ひとゝのへ、十餘日の後便船を得て上海に上陸し、そこで宇都宮少佐と會して談合した結果私は遠く泗川省に入ることゝなつた。
      二、
 當時四川の總督は奎俊と云ふ人で、夙に張之洞、劉坤一と気脈を通じ、中央政府以外に儼然として獨立自彊を恣 ほしいまま にし宛然 えんぜん 副王でもあるかのやうな勢力を張 はつ て居た。併しながら張や劉と同じく忠良なる淸朝の重臣の一人であつたには間違ひなかつた。私は宇都宮少佐に別れて、先 ま づ四川省の船着 ふなつき であるから重慶から、一週日に亘 わた る駕 のりもの の旅をつゞけ、漸くその首都なる成都に入り、總督に見 まみ えることが出來た。そして奎俊總督の命により、重慶なる軍隊の改善、武備學堂の改良を命ぜらるゝことゝなり、再び成都を辭して任地に戻り、鋭意任務に勉勵したのであつた。滯在二ヶ年の間に漸く改善の實が擧 あがつ て、舊式な兵備は頗る文明式軍隊と化したが、その進歩は所謂牛歩遲々 ち〱 たるの感があつた。併し二ヶ年の間にその兵はやゝ實戰に堪へ得ると云ふ自信を得たので、一つこの兵を以て實戰に臨んで見たいと云ふ念が自ら湧くのであつた。 
 恰 あたか もよし、明治三十三年の春頃から、首都北京の方面に拳匪の騒擾 さうじやう が起り、排外の氣運が日に日に熾 さか んになりつゝある報道が、日ならずして四川の奥にも達して來た。そしてその波動の結果重慶に滯留して居た外人と云ふ外人は悉 こと〲 く排斥さるゝの厄 やく に遭 あ ひ、外出すれば必ず愚民どもから礫 つぶて の雨を蒙 かうむ ると云ふ樣に形勢は漸く惡化して來た。重慶に在つた外交團はこの險惡なる情勢に直面して、それ〲本國に引上を電請したが、直ちに「居留民を纏めて引上げよ」との回訓に接し、引上げを決行することゝなつた。日本領事はその引上げに際して、私の身の上を氣遣ひ、再三再四、「一緒に引上げては」と勸告したが、私は參謀次長寺内中將から「引上ぐるも、引上げざるも貴官の思 おもひ のまゝにせよ」との電文を示して、獨り殘留するといふ決心を打明け、領事や居留民に悲壯なる別 わかれ を告げ、胡服辮髪して危險の迫つた重慶に滯留することゝなつた。外交團の悉くが退去した中に、佛國領事だけは、頑として踏止まつて居たが、これは一つには四川省の各地に佛國宣敎師が多く分駐して居たためと、又一つには私の行動を監視牽掣しようと云ふ肚 はら であつたらうと、思はれてならないのである。
 擧匪の亂は、その中に愈々 いよ〱 猖獗 しやうけつ を極め、列國の北京在留民は、各その公使舘區域に籠城するの已むなきに至り、シーモア―提督の指揮する救援軍が撃退されてからは、聯合國は眞面目に救援軍を組織することに決し、我が山口中將の率ゆる第五師團を基幹とし、列國は數萬の大兵を天津北京方面に出動させることゝなり、旗鼓堂々北京を指して進軍を開始したのであつた。
 其報が漸く重慶に傳へらるゝに及び、愚民どもの排外思想はその頂點に達し。頭目が無かつた爲めには組織的の擾亂は起らなかつたが、我々は胡服辮髪してさへ、外出することの危險を感ぜられるに至つた。それは日本人の眼が、支那人のそれと異なつて居るためで、外觀こそ支那人と異ならず、變裝するとしても、彼等に熟視されゝば直ぐにその正體を看破される惧 おそれ があつたからである。
 聯合軍殊に我軍の進出は目醒しく、忽 たちま ちにして天津を平定し、十餘日の後北京の圍みを解き、徹底的に端郡王一派の義和團を撃攘したので、光緒皇帝並びに西太后は、西安を指して蒙塵されることになつた。重慶の佛國領事館の一室に在つた私は、「これは天の與へた一機會である」と考へつゝ、直ちに駕 のりもの を雇ひ、省の首都成都に急行すべく途 みち に上つた。そして一週日の苦しき旅の後、漸く總督衙門に到着し、奎俊に見 まみ えることが出來た。私は奎に對して、
「聯合軍が北京を陥 おとしい れたと云ふ報告が重慶に達しましたので、私は急遽その地を發し、閣下に善後策を進言するために、御目にかゝりに參りました。此度の亂魁は端郡王で、皇帝皇太后は關與して居られないから、聯合軍は皇帝の御一行を追跡するやうなことは、萬々なからうと信じます。故に閣下は、この際手を拱 こまね いて傍觀的態度をとらるゝのはよくないと思はれます。一將に命じ軍を提 ひつさ げて蒙塵の龍駕を迎へるか、然らざれば兵を上海より船にて天津北京に送り聯合軍と共に擧匪の餘黨を鎭壓することが、閣下としてとられるべき良策であらうと思はれます」
 と進言した。奎俊は暫時默して、私の進言に耳を傾けて居たが、漸く決意したと見えて、
「貴下の考 かんがへ は、よく私の心に一致して居る。私は將軍丁鴻臣に命じ一萬五千の兵を率ひしめて、龍駕を迎へしめよう。若し必要とあれば、彼等を天津北京方面に進出させてもよい。貴下は丁を助けて、この大事に參畵して貰ひたい」
 と、直ちに丁鴻臣と云ふ將軍に兵員一萬五千の指揮權を授け、私を參謀として、成都を發し、途に重慶の兵を合せ、民船二百餘艘に分乗せしめて、揚子江を下江することになつた。私は一大尉の身を以て、事實的一萬五千の兵を指揮することが出來たので全く得意の絕頂であつた。河は揚子江、曾て三國の英雄曹孟徳が槊 ほこ を横 よこた へて詩を賦したと云ふ故地である。無量の感慨に打たれ乍ら私は總司令部の舳 とも に立ちつくしたのである。
 下江幾日かの後電報の通じる一都市まで來ると、私は私の獨斷專行に對して事後承諾を求むべく、我が參謀本部に訓令を仰いだ。半日の後訓電は私の手に達した。私は取る手遲しとばかり電文を開いて見ると、參謀次長寺内中將の名で、
「貴官の取れる處置は不同意なり、速 すみやか に歸朝せよ」
 と明らかに認 したゝ めてあつた。私は得意の絕頂から失望の奈落へ陥 おとしいれ られた感がした。一萬五千の兵に將たる面目は茲に失はれて、私の進退は谷 きはま つて仕舞つた。
      三、
 幻滅の悲哀を味はされた私は、今更おめ〱と歸朝するに𢖫びなかつた。乃 そこ で天津に駐屯して居た福島將軍の救濟を仰ぐべく電報を飛 とば した。福島將軍はよく私の心事を知て呉れた居たと見えて、參謀本部と交渉を重ねた結果、私を其直属部下にとられることゝなり、私は直ちに天津行 ゆき を命ぜられたのである。私は丁鴻臣と袂を分つに臨み、
「私は福島將軍の命令により、直 ただち に天津に赴かなければならないが、將軍はこれより上陸して北上すれば、必ず潼關附近で、龍駕を迎へることが出來やう、國の爲に、皇室のために功をお樹てなさい」
 と云つて、便船に搭 たう じたのであつた。
 丁は私に別れてから、軍を勒 ろく して北上の行軍を續けて居たが、豫定の如く潼關附近で龍駕を迎へることが出來た。蒙塵の行幸啓のことであるから、一行は風聲鶴唳にも胸をとゞろかしながら、僅々百餘の護衞と、二三の重臣に護もられながら、悲しき旅行を續けて居たが、潼關の附近まで來ると、急に馬塵が前面に起り一萬五千と云ふ味方の軍勢が、恭 うや〱 しく龍駕を迎へたので蘇生の思 おもひ をなし、軍の指揮官丁鴻臣を親しく御前に招き、有難き御諚 ごじやう を賜はつたさうである。そしてこの有力なる軍隊を護衞に加へた一行は道を急いで西安の行宮に龍體をやすめまゐらすことが出來たのである。
  この一擧は、今から考へれば、頗 すこぶ る無暴極まる所置であるが、僅かに一大尉の身を持ちながら、事實上一萬五千の兵員を指揮し、四川の奥から、堂々と中原に乗出したことは、私が半生の中で最も痛快事であつた。私が當初企てた如く、四川の兵を天津北京あたりまで進出せしめ、山東巡撫袁世凱の兵と協力して、義和團の餘黨殘黨を掃蕩しようといふ企ては、中道に於て挫折したけれども、一方の目的であつた蒙塵の龍駕を迎へることには、成功し、直接その任務を遂行した丁鴻臣は、天晴れの忠臣義士として、好 よ き運命を開拓することが出來たのだ。併し事をこゝに至らしめたのは、全く遠慮ある川上大將の意圖であり、私どもを自由に支那の天地に活躍せしめた結果に外ならないのである。大將が私に渡支の命令を與へられた時の溫容は、三十年後の今日まで、私の目の前に髣髴 はうふつ して深き〱印象を刻みつけて居る。疽 そ を吸つて兵の心を執つた古名將の面影は、慥 たし かに故川上操六大將の行實の中に存して居たと、私は感ぜられてならないのである。     (談)

〔蔵書目録注〕
 
 上の文は、昭和六年七月一日發行の雑誌 『戰友』 七月號 第二百五十三號 に掲載されたものである。
 なお、文中には、下の写真がある。

 

 この寫眞は北淸事變中天津で各國兵がより集つて撮つたものです



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