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「淸國鐡道に就て」 原口要 (1909.7)

2020年10月14日 | 清国日本教習 天津、北京、武昌他

淸國鐡道に就いて

     工學博士  原口要

 淸國に於ける鐡道の起源は、殆んと我京濱線と時を同うし、當時上海呉淞間に軌間二呎六吋の鐡道を敷設せしを以て始となす、然れども當時民衆蒙昧、擧つて風水の妖説を唱へ行車に反對せしを以て、落成後間もなく之を撤去し、其材料は閩浙總督の請求に依り之を臺灣に運致せり、然れ共政府は其敷設を許さず、遂に散亂復其迹を留めざるに至れり、其後明治二十年に於て更に雞籠臺北間に軌間三呎六吋の鐡道を敷設することゝなり、同二十四年に於て竣成を告けたり、即ち現在臺灣縱貫鐡道の一部是なり、
  因に云ふ、當時歐米鐡道專門家間、廣軌狹軌の得失に關し諸説紛々、中に一米突前後を以て最も經濟的なりとの説、稍勢を得たる際なりしを以て、日本に於ては三呎六吋淸國に於ては貮呎六吋を採用せしは寧ろ好評を博せしも、其後數年鐡道運輸業の進歩に從ひ世界の議論漸く變し、遂に四呎八吋半を以て最も適當となすに一決し、歐米各國槪ね之を採用するに至れり、我日本に於ては當初狹軌を以て何等の不便を感せず、專ら鐡道の擴張に努めたる結果、明治廿ニ年に於て既に其長壹千餘英里に達せり、當時運輸の業頓に進み始めて廣軌に改むるの得策なるを認るに至りたるを以て、要〔余〕等切に之を唱道せしも、財政状態許さゞるの故を以て、其説行はれざりしは千載の遺憾となす、之に反し淸國は初め同一失計に陥りしも、有力なる風水説の爲斷然之を撤去し、十年後更に北方に於て之を創むるに當りては、普通定規に據るを得しは實に國家の慶たり、風水説亦時に偶然の功を奏することあり、
 又云、淸國鐡道に關し世に發表せらるゝ諸記録は槪して簡單にして細目を示さす、從て資金及營業成績等に關し的確なる數字を知ること甚た難く、其樣式一定ならず其長或は淸里を以て掲るあり英里又は吉魯米突を以て示すあり、其資金額或は磅、法郎等を以て錄するあり両、元を以て算するあり、而も淸里は地方に依り其長を異にし、両元は時に應して價格を同うせず、閲者をして一見彼此相校較、甚大要を知るに苦しましむ、故に要〔余〕は茲に便宜を計り對數を假定し、之に因りて換算し、其長は總て英里、其費額は日本圓を以て、諸君に報道せんとす、即ち左の如し、
 一吉魯米突は日尺三千三百尺、英尺三千二百八十呎に等し、(正確)
 一英里は英五千二百八十呎にして三、二淸里と假定す、(郵傳部報告書に因り算出)
 一磅は十圓とし、一法郎は四十錢とす、
 一兩は一圓四十錢、一元は一圓と假定す
  附言、淸國鐡道資金の大部分は外資に係り、原書に磅、又は法郎を以て掲けあり、自國支出にして兩元を以て算せしものは比較的少額なるを以て、元を圓と同一に算するも大なる差違を生せず、  
  尚ほ淸國に於ては、年報等なく正確なる計數を知るに苦む、本文の數字は諸種の材料を參酌しての結果なれ共、誤謬なきを保せず、讀者の省察を望む所以也、
 淸國鐡道の第二紀元は、明治十四年即ち光緒七年淸國政府聘用英人キンダー氏の熱心なる主唱に基き、唐山煤礦より塘沽を經て天津に至り又北して山海關に達する、定軌鉄道敷設の議を決したるの時に在り、キンダー氏は其以前我京濱鐡道に書記として雇用せられ、明治十年轉して淸國に聘用せられ、唐山煤礦に從事し、初め馬車鐡道を計畫し運煤の用に供せしも、事業の發展するに從ひ運搬力の不足を感し、百方主唱建議の末、遂に汽車鐡道を興すに至れりと聞く、明治廿八年天津より北京に延長し、同三十一年英國より借款を興し、以て山海關より新民屯に至り、又途中溝幇子より分岐して營口に至る線路敷設の計畫を定め、同三十四年通州支路を築設し、同四十年日本より遼河奉天間の線路を買収せり、以上線路を總称して京奉鐵路と云ふ、其長約六百八十英里、資金四千八百六十萬餘圓、毎一英里平均約七萬一千圓にして槪ね其半額は英國借欵に屬す、昨年度營業成績は、一日一英里平均収入約四拾四圓、同支出約拾六圓、純益年額約金四百萬圓にして、其資金全額に對し年八朱強となる、該線路に次で營造せし鐵路を列擧、すれば、左の如し、
一 京漢鐵路 該線は明治二十九年に於て北京より保定に至る間を築設し、同三十一年外國借欵を興し保定漢口間着手、同三十八年全線開通を見るに至れり、其長は七百五拾四英里、資金は七千八百拾五萬餘圓、毎一英里平均約拾萬三千圓、其内七百八十六萬餘圓を除き、餘は現在英佛借欵に屬す、昨年度營業成績は、一日一英里平均収入約三十六圓、支出約拾三圓、純益年額五百七十三萬餘圓にして、其資金金額に對し年七朱三厘強となる、
一 道淸鐵路 該線は京漢線の支路にして、明治三十一年起工、其長は九拾四英里、資金は八百七拾三萬餘圓、毎一英里平均約九萬三千圓、其大部分は英國借欵に屬す、昨年度營業収支の差は僅に八萬餘圓にして、既定借欵利子三拾九萬餘圓を支拂ふには、三拾餘萬圓の不足を生せり、
一 萍昭鐵路 該線は江西省萍郷煤礦より湖南省洙州に至るものにして、明治三十二年起工、其長は六拾四英里、資金は四百拾七萬餘圓にして、毎一英里平均約六萬五千圓となる、昨年度營業純益は拾萬九千餘圓、即ち資本に對し年二朱六厘に當る、該路は專ら運炭を以て其目的となす、將來粤漢線に連絡すべきものなり、
一 汴洛鐵路 該線は黄河の南岸に沿ひ鄭州に於て京漢鐵路に連絡するものなり、明治三十二年起工、本年竣成、其長は一百拾五英里、資金は一千九百四十一萬餘圓、毎一英里平均約拾七萬圓にして、其大部分は比國借欵に屬す、而して現在の情態に於ては營業収支未だ相償ふを得す、其既定借欵利子八拾餘萬圓の餘利を生するに至るの日、尚遼遠なるが如し、
一 正太鐵路 該線は京漢鐵路石家莊より山西省太原府に通する狹軌鐵路にして、明治三十五年起工、同四十年開通、其軌間は三呎三吋、長は一百五十一英里、資金は二千一百九十七萬餘圓、毎一英里平均約拾四萬五千餘圓、其大部分は露淸銀行借欵に屬す、昨年度に於ける營業成績は、一日一英里平均収入約貮拾三圓、同支出約十圓にして、収支の差七十萬餘圓を擧けたるも、之を以て既定借欵利子を支拂はんとすれば六拾萬餘圓の不足を生す、聞が如くんば山西方面より京津地方に出入するの貨物は其量極て多く、驛路は車馬絡繹の景況なるが、是等は鐵路運搬を便とせず依然車馬の力に賴ると、實に怪訝に堪へざるなり、若し營業方法其宜を得ば、収益の增進すべきは言を俟ず、
一 滬寗鐵道 該線は呉淞より上海、蘇州、鎭江を經て南京の江岸に達するものにして、明治三十六年着手、同四十年開通、其長貮百五英里、資金四千三百九萬餘圓、毎一英里平均約貮一拾萬圓、其大部分は英國借欵に係る、昨年度營業成績は、一日一英里平均収入約貮拾一圓、同支出約十四圓にして、収支の差年額五拾萬餘圓を得たるも、其負擔に係る借欵の既定利子を仕拂ふには九十四萬餘圓の不足を生せりと云ふ、
 以上、七線路、其計長二千零六十三英里、之に潮汕鐵路及粤漢京張滬杭甬等既成部分、並に獨人所造山東鐵路等合計五百餘英里を合算すれば、淸國に於て現在開通する鐵路は槪計二千五百英里として大過なかるべし、即ち日本に比すれば槪ね其半に達せんとす、抑地域の廣大なる鐵路の不備なる淸國の如きに於ては鐡道敷設の緊要なる、環海舟楫の便あり陸上鐵路稍備はれる我日本と日を同うして論すべきに非す、今や政府は向後數年を期し憲政を施き議院制度を採らんとす、之を爲すには少くも此上約三萬英里の鐡道を國内に營造せされば、議員選擧議會召集等の事亦恐らく完全なる實行を見るに難かるべし、頃ろ當局者鋭意、川粤兩路並に津浦鐵路等の或功を速にするの計畫をなすは、實に其當を得たるものなり、
 前陳諸鐡道の建設資金を見るに、京奉萍昭二線を除くの外、驚くべき巨額に上り、其地勢の平夷なる勞銀の低廉なる、殊に設備の不完全なるに照せば人をして一層了解に苦ましむるの念を高からしむ、今後鐵路敷設を擴張するに臨み當局者深く既往の失錯に鑒み、細心籌畫、專ら費用を撙節し、施設宜しきを失せざるに努めざれば、恐らくは悔を千載に遺すに至らんことを、
 又現在淸國諸鐡道に於ける營業情態を見るに槪して運賃の高率なると行車度數の僅少なるとは、日本に比すれば大に其趣を異にす、京漢鐵路の如きは、七百五十餘英里なる長距離乗車に對する一等賃銀は、毎一英里約八錢六厘にして、日本の鐡道に比し其三倍に當り、北京天津間の行車は、毎日往復各四回に止まり、東京横濵間毎日往復四十回に比し其十一に過ぎず、北京城壁に沿へる京張京通両線の如きも、僅に一日両三回にして之を東京の山の手線甲武線等の一日數十回に比すれば、實に霄壤も啻ならず、營業収益の比較的少額なる敢て怪しむに足らざるなり、之を要するに沿道に生する多量の農産物僻隅に埋沒せる天府無盡藏の礦物等は、鐵道の便あるも運賃貴きが爲め之に依りて市場に搬致するを得ず、短距離を往來する多數の客は、行車度數少きが爲め鐡道を利用するを得す、斯の如くにして鐡道營業者は公衆に不便を與へ、公共用の本旨を遂くる能はざる而已ならず、亦自ら収め得べきの利を擧け得ざるは、畢竟其方法宜きを失するに因ると云はざるを得ず、頃ろ臺閣諸公大に茲に見るありて、當局者をして鋭意設法其改善に努めしめんとするは、要〔余〕等窃に之を聞知し大に同情を寄する所なり、惟ふに現在開通せる淸國諸鐵路は國内最も貨客匯流の好地域に位し、其營業収益に於て大に有望なるは識者を俟たずして明なり、若し當局者にして一層研討、近くは日本の經歷に徴し、遠くは歐米の實例に鑑み、實心以て好成績を擧るに勉めば、収益日を逐て增加し、還債の道自ら立ち、回權の實從て著はれ、鐵路の大業健全なる發達を見るに至るべきは、期して待べきなり、  (完)

 上の文は、明治四十二年七月一日発行(非売品)の 『燕塵』 第二年 第七號 (第十九號) に掲載されたものである。



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