蔵書目録

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「源氏物語と繪畫」 佐々木信綱君講演 (1904.11.20)

2024年08月10日 | 人物 作家、歌人、画家他

   

 源氏物語と繪畫
       佐々木信綱君講演
  
  (本編は前年十一月二十日會席上に於ける高畠正之助氏の速記に依りて更に佐々木氏の修正を煩はせるものなり。)
  
        (前略)
 昔から繪と歌とは深い關係がありまして、王朝時代の室内装飾として、又間 ま じきりの實用品として、屛風を用ひました。あるは大甞會の悠紀主紀 ゆきすき の屛風。または貴い人の年賀に、近親が屛風を新調して贈る。それは風を防ぐ、即ち老を防ぐといふ意味でーそういふ屛風は、當時の名高い畵工が描いた上に、歌人が歌をかいた色紙形をうつたものです。三代集や三十六人集を見ると、屛風の畵讃の歌が澤山あります。唯今の時候の秋の歌で、手近い例を申しますと、彼の『千早ふる神代もきかず』の歌は、二條の后がまだ東宮の御息所と申した頃拵へられた屛風の畵讃であります。又躬恒の作で『住の江の松を秋風吹くからに聲うちそふる沖つ白波』といふ名高い歌。あれは右大將の四十賀に、内侍のかみが祝つて送った四季の畵の屛風の讃であります。  
 又古く、芦手がき、水手といふ事なども御座います。それは芦の葉の形や、水の流のやうな風に歌をかきましたもので、これは北邊随筆、松の落葉などに其畵やうが出て居ります。
 それで畵だくみで歌を嗜んだ人も多く有ますし、歌人で畵をかいた人も數多あります。畵工、歌人、おの〱歌により畵によつて、畵のおもむき、歌の情を養つた事と思ひます。彼の文永の頃、畵聖ともいはれた信實は、歌もまた巧で、勅撰集に撰び入れられてをります。又信實はしば〱人麿の像をゑがきました。是は御承知の事とは思ひますが、昔の人麿の畵像は、皆白髪の翁で有ますが、あれは十訓集、著聞集などにある如く、夢の姿を本としてかいたもので、又夢想當時の服裝で、いづれも事實に違つて居ります。其歌から考へても、眞淵翁の言はれた如く、四十あまりで逝去した人で。彼の田安宗武卿が、眞淵翁に考へしめて侍臣の千春に畵かしめられた像は、當時の服飾に叶つてをるやうに思ひます。又人麿の畵といへば、必筆をもつて向ふに舟の帆が見えて居りますが、あれも間違で、かの『ほの〱と』の歌を人麿の作としたは、古今集の左註の間違ひで、古本今昔物語には、小野篁が隱岐に流された途上の作『和田の原八十島かけて』の歌のつ〻゛きに出て居ります。もし諸君の中に、歌聖人麿の像をか〻うとお考の人があらば、萬葉中の人麿の作をよく翫味し、又當時の事を考へてかいて頂きたい。彼の近江の舊都の荒れた跡に立つて、『大宮はこ〻と聞けども、大殿はこ〻といへども、春草の茂く生ひたる、霞たつ春日の霧 き れる、百しきの大宮所、見れば悲しも』と歌つたなどは、好箇の畵題であらうと思ひます。
 話が横道にそれました。古くは信實がありますし、近世には菊池容齋は歌にも巧で、先年吉野へ花見にまゐりまして、喜藏院や此處彼處で、武保とかいてある歌をあまた見ました。谷文晁浮田一蕙も可なり詠みました。岡田爲恭ーかの故實の畵に名を得た冷泉三郎もよほど上手によみました。芦手がきなどもあります。石亭畵談を著した竹本石亭は、林甕 みか 雄の門で、歌の名を正興 おき といひました。明治になつても結髪をしてをつた故實畵家蜷川式胤 のりたね は六人部 むとべ 星香の社中であつた。専門家ではないが、堀内藏頭直格も、畵所で學ばれた澤宣嘉卿なども畵と歌とを兼ねて巧でありました。
 歌人の方では、眞淵翁の弟子に伊能魚 な 彦といふ人があります。眞淵翁は近世のすぐれた學者で、しかもすぐれた歌人でありますが、其歌に三つの時期があつて、若い時は當時行はれた體で,中頃萬葉を研究して以来萬葉風に、晩年には萬葉にあらず古今にあらず、其中間の體を詠まれた。それで弟子の中に、中頃の風をよく傳へたのが田安宗武卿と、魚彦。晩年の風をうけたのが千蔭、春海です。魚彦の歌は、『天の原吹きすさみたる秋風に走る雲あればたゆたふ雲あり』といふやうな風で、先刻も寫生について諸君の辯論がありましたが、魚彦は下總佐原の人で、寫生を貴んで、梅を愛して家の庭に數多の梅を植て、梅の畵を多く描き、又佐原は利根川の岸で有ますから、鯉を池に畜 か つて、鯉の寫生をしました。それで鯉の畵梅の畵にすぐれたのが多く傳はつてゐます。眞淵のやさしい歌風をうけついだ千蔭も、自畵讚の掛物を多く見かけます。本居宣長先生も畵をか〻れまして、それは土佐に近い緻密な畵風ですが、先生が机に向つて書物を披げて見ておられる。机の上には櫻の花がいけておいてある自分の肖像で、それは鏡に向つて自らの姿を寫して、それで描かれたとの事であります。同じ眞淵門下の建部凌岱-かの片歌を興した綾足は、畵號を寒葉齋というてすぐれた畵家でした。其他小澤芦庵も呉春の朋友で畵を學びましたし、狩谷、權田直助なども畵をかきました。八田知紀の竹や蟹の自畵讚はこ〻かしこにあります。かの蕪村が俳諧と畵に於けるやうに、福井の井手曙覽ーかの奇警な作に富んだ曙覽 あけみ は、又奇警な畵をかきました。曙覽の歌はよほど畵の影響を受けて居る。其題目にも畵題を用ひたのが澤山あります。いかにも畵と歌とが關係がるかといふ事は、曙覽の家集志濃夫之舎集を御讀みになつたらば、よくわからうと思ひます。
 畢竟歌と畵とは兄弟の間がらで有ますから、歌人が畵によつて歌の情を養ひ、畵から開發される事も多う御座いませうし、畵工も歌を味はうて、畵の上に大にさとる點があらうと思ひます。
 畵題なども、歌、または我國の古い書物を研究されたならば、よほど益がある事と信じます。私は此美術院にも度々展覽會を見に參りました。又所所の畵の會にも、畵がすきであるので見にまゐりましたが、歷史上の畵題の多くは、きまりきつたーーというては失禮ですが、ありふれた畵題が多いやうに存じます。平家物語とか、太平記とか云ふのが多い。古いもので例を擧げますれば、古事記、日本紀、風土記、萬葉の類などを研究なされたならば、神話や、傳説や、古歌の中に、趣味の深い面白い畵題が多からうと思ひます。中世近世の歷史なり、小説なりにも、樣々のよい畵題がありませう。   
 それで今日は、平安朝の制作の中で、最も文章の精華と言はれる『源氏物語』について、聊か御話をしやうと思ひます。それはあのやうな大作で、五十四帖のうちには、好繪題と思ふ點が少くない。もし今日の一塲のお話が起因となつて、諸君の中に源氏を研究して、不朽の作を殘さる〻やうな事があつたらば、紫式部も千歳の後に知已を得る事と喜ぶであらうと思ひます。故に話が長く成りますが、暫く聽いて戴きたい。 
 紫式部が繪をかいたかどうかといふ事は、紫式部日記にも出て居りませぬから判りませぬが、恐らくは描いたであらうと思ひます。否、式部は描きませぬにしても、式部が想像上から生み出した所の源氏物語の主人公の源氏の君は、畵が上手であつた。又源氏の君と相對したる女主人公の紫の上も畵がうまかつたのであります。源氏が十八歳の三月、瘧を煩らひましたが、京都の北山に加持に驗 しるし ある上人があるから、賴みにと、三月の月末頃、朝と〱北山へいつた。京の花は既に散り過ぎて居りますが、山深い所であるから、山の櫻はまだ咲いて居る。段々登つて、上人にあつて祈禱を賴んだ後、坊のうしろの高い所から見下しますると、四方の梢のどことなく煙り渡つて居る樣子が美しいので、源氏が、あ〻畵に能く似た所であると感心して見て居りますると、御側の人が、イエ此やうな所は一同淺うございます、東の國なる富士のけしき、淺間の嶽のながめ、西の國のおもしろい浦々などを御覽なさつたならば、どのやうに御畵が御上手におなりなさるであらうといつた事があります。それから後、源氏が二十六歳で須磨へ流された時、あるは唐の綾に、あるは屛風に畵をかきすさんだ事もありますし、又毎日々々の事を日記に書いて、其間々へ畵をかき加へて、畵の日記を作りました。然るに人の心は通ふもので、都の方でも、紫の上が頻りに源氏の事を思ふて、矢張り畵の日記をかいたといふことが出て居ります。
 それから又繪合 ゑあはせ の卷といふ卷が有ます。その一卷は全體が畵に關した話です。其卷の槪略を申しますと、時の帝の冷泉院は、未だお若いが、何事よりもすぐれて畵がおすきであり、又御自身も二なくおかきになる。所が、此度入内になつた梅壺の女御、それは六條御息所の遺子 わすれがたみ で、源氏の養女として參内した梅壺女御は、畵がお上手で、天皇は、若い殿上人の中で畵をかく人には心をとめて思し召す位おすきであるから、まして美しい女御が、筆とり休らうてお出でになる愛らしさに、度々梅壺の方へお渡りになる。然るに梅壺より前に、弘徽殿の女御といふのが上つて居ります。それは時の權中納言の娘で、其權中納言は、箒木の卷の頃、頭中將といつて、源氏の遊び相手、又學問や音樂の競爭相手であつたが、元來まけじ心の性質の人であるから、權中納言は、わが娘の女御にひけを取らすまいと、時の名高い畵工に物語や、月並の繪の珍しいのをゑが〻せて、帝に御覽に入れる。所が、繪を見るのが面白いといふので帝は弘徽殿の方へよく御出になる。が、中々容易くは御見せ申さぬ。又餘り面白い繪があると、之を梅壺の女御にも見せたいからと仰つしやる。しかし弘徽殿の方では、其繪卷が帝の御心をひくなかだちになつて居るのであるから、中々お貸し申さぬ。それを梅壺の女御の養父なる源氏が聞いて、其やうに帝の御心をおじらし申すのはよくない、自分の方には古い繪が澤山あるから、それをお目にかけやうというて、紫の上と共に頻りに繪卷物を捜して、面白いものを差上げた。頃は三月の十日あまり、空もうら〻かに人の心ものびらかで、宮中でも餘り儀式が無くて閑な頃である。此頃は歌合とか、女郎花合とか、菖蒲の根合とかいうて、物を合せて勝劣を競ふことが流行つた時代で有ますから、同じ事ならば繪合をして帝にお目にかけたらばといふので、左方 ひだりかた の源氏の方ではおもに古い繪をあつめ、右がたの權中納言の方では新作の繪を畵工に賴んで、それを出す事になりました。所で、源氏の弟に帥の宮といふて、繪に精しい方が判者、すなわち審判者になりました。先づ初めに梅壺の方から、小説の元祖ともいふべき竹取物語の繪卷物を出す。弘徽殿の方からは空穂物語の俊蔭の卷の繪卷物を出す。次に伊勢物語と、正三位物語といふ風に段々批評をして居りましたが、一番最後に、源氏が豫て仕舞つて置きました彼の須磨明石の繪卷物を出した。所が其繪が上手なのと、書いてある文章が美しくあはれあでるから、到頭それが勝を占めた。終つて酒宴があつて、源氏が、自分は若い時分不思議に畵がすきで、どうか心ゆくばかりかきたいと思ひながら、折を得なかつたに、思ひよらず都の外の住居をして、四方の海の深い心をも見、自然の風景は充分に見たが、筆の進むには限があつて、心はさきへ進んでも筆が運ばず、思ふやうでないといふやうな述懷談がある。これが繪合の卷の梗槪であります。 
 それから又、紫式部の繪についての考を現はした所も有ります。それは箒木の卷に、頭中將と馬頭 うまのかみ とが、源氏の宿直所 とのゐところ で、梅雨の夜に女の品定めをする處で、女の仇なのはいかぬ、まめやかな女が宜いと云ふ例に、畵所 ゑところ に上手が多くて、いづれ勝り劣りが見えぬが、未だしい畵工が筆にまかせて仰山にかいた想像畵は、一見、人の眼を驚し得るが、矢張目に近いものをもよくかきこなすのがまことの上手であるといふ話が出てをります。前申したやうに、源氏も、冷泉院も、紫の上も繪を描くと云ふ風でありますから、源氏物語の中には、繪の事が所々に出て居りまして、畵に關した名詞や動詞が五十四帖の中に八十あまりも出てゐます。其中には、繪所、畵師、墨かき、つくりゑ、女繪、物語畵、繪物語 紙畵、手習繪、芦手、歌畵、下畵、畵やう、四季の繪、月並の繪などと云ふ言葉が此處 彼處に有ます。作り繪と申しますのは、彩色の事で、奈良朝の頃から繪をかく人と彩色をする人とは、別にわかれて、墨かきはいはば棟梁で、つくりゑは大工小工のわざで有ました。女繪は物語繪などのやさしいのや、今の風俗畵などをいふので、まじめな畵の男繪に對する詞と思ひます。下繪繪やうは、今で謂ふ圖案。歌繪は畵讃で有ます。月次の繪は、十二箇月の年中行事をかいた繪で有ます。想像上の人名でない實際ありました當時有名な畵工の、千枝、常則、巨勢の相覽、公茂などの名も見えてをります。
                             (未完)

〔蔵書目録注〕
 
 上の文は、明治三十八年二月二日臨時発行の雑誌 『日本美術』第七十二號 日本美術院編輯部 所収のものである(最初の部分は、省略)。