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「北洋法政專門學堂沿革」 (天津) (1910.5)

2020年10月08日 | 清国日本教習 天津、北京、武昌他

北洋政法專門學堂沿革
  (本校の特色は日本語本位)

     學堂設立の目的

 本學堂は光緒三十三年八月前直隷總督袁世凱氏が奏定分科大學章程に遵ひ高等なる法律、政治、理財の專門學を教授し完全なる政法的人才の養成を目的として設立せる者なり故に模範を京師大學堂の辦法に取り豫科三ヶ年の修業者を正科に入れ正科を政治、法律のニ科に分ち卒業年限を三ヶ年とし毎年二百名の生徒を募集し六年の後には千二百名の生徒を収容する方針を立てたり尚ほ右本科の外に速成を目的とせる簡易科を附設し、北洋政法專門學堂と總稱せり、袁總督が北洋政法專門學堂を天津に設立すると同時に、南京に於ても南洋政法專門學堂を設け北洋諸省の學生を天津の同學堂に収容し南淸諸省の學生を南京の該學堂に収容し以て京師法律學堂と相對し淸國の三大政法學堂を現出せしめんとの約束なりしも南洋政法專門學堂は種々の故障に依り遂に創立を觀るに至らざりき又た光緒皇帝在世の節、嘗て上諭を以て各省候補官吏の法政思想を養成し立憲豫備の急需に應ぜしめんため各省に法律學堂を設立す可く命ぜられたるが袁總督は上諭に基き保定に法律學堂を設立せり故に北洋政法専門學堂は各省の法律學堂とは稍々其選を異にせり

     建築費用及毎年の經費

 本學堂は創立の際、校舎の費用に十四萬兩、設備費に五萬兩裝飾費に二萬兩、合計二十一萬兩の創立費を要したり而して毎年の經費は十萬元餘なるが其財源は長蘆鹽税項下より五萬五千兩を支出し其他は生徒の授業料と賄料とを以て支辦さる本學堂は豫科本科、簡易科を問はず凡て自費生にして少數なる貸費生あるも固より例外に属す

     各科の成績

(一)豫科 本學堂創立と共に直に二百名の豫科生徒を募集し本科に入る階梯的の教育を施しつゝありしも突然學部に於て專門学堂章程を發布し專門学堂生徒は中學校の卒業生にあらざれば入學することを得ざる旨を規定せしを以て忽ち本學堂の前途に一大打撃を蒙るに至れり故に本學堂は學部に運動し學生の既得權を主張したれば現在の豫科生徒は中學卒業生と認められたるも今后は中學堂卒業者を入學せしめざる可からざるを以て第一期の豫科生を募集せし以來、遂に生徒の募集を中止するの已むを得ざるに至れり、而して第一期に募集せる豫科は本年七月を以て等三年の修業を終る豫定なれば愈々本科に進級することゝなれり、現在豫科生徒は百六十餘名あり外國語は日本語を一般に教授するも外國語として英佛獨の一を撰ばしむ外國教師を聘せる者は日本人のみなり
(二)別科 本科は我國の私立大學の專修科と同一の組織にして政治、經濟、法律の專門的學術を教授すると共に普通學をも教授し居れり本科生は昨年の春初めて募集したる者なるが目下生徒は百七十餘名あり修業年限は三ヶ年なり現在甲乙のニ班に分る

     附屬簡易科

 本科は前袁總督の發案に基く者にして法政經濟の速成を目的とし行政科、司法科のニ科に分ち行政科に直隷地方の紳士を収容し之を紳班と稱し卒業の後は地方自治實施の任に當らしむる爲教育せり、司法科には有職人員則ち候補官吏を収容し審判廳判檢事等の職員養成を主眼とせり、修業年限は一ヶ年半にして兩科の生徒三百餘名ありたるが孰れも光緒三十四年に卒業し今や各地方に散し各々其修得せる所に基き實務に從事せり、行政科の學科目左の如し
 政治學、比較行政法、比較憲法、大淸律例、地方自治制論、大淸會典、民法要義、選擧制論、刑法各論、法學通論、商法要義、刑法總論、國際公法、經濟原論、裁判所構成法、警察學、辯學、中外通商史、國際私法、世界近世史、應用經濟學、貨幣銀行論、政治地理、財政學、統計學、戸籍法、衞生學、日語日文
 司法科の學科目は以上と大同小異の者なり、思ふに本簡易科が最も偉功を奏したるものゝ如しと

     附屬中學部

 此の中學部は前述せる如く學部の專門学堂條例發布の結果臨機の處置を執り設立せる者なるが其理由は蓋し現今淸國人にして中學堂を卒業せる者敢て尠なきにあらずと雖、本專門學堂の特色は日本語を基礎とし總の學科を教授するを以て現在各地に在る中學堂卒業生にては日本語の素養なきを以て本學堂に中學部を設け專ら日本語を教授するの目的に出でたる者なり、之れ恐らく淸國に於て日本語を基礎とせる中學は本校を以て嚆矢となさんか附屬中學部生徒は昨年九月二百名の豫定を以て生徒を募集せしが當時は安奉線問題にてボイコット盛んなる際にして特に日本語を主眼とせる中學なれば應募の如何に就て當局者は私に憂慮せる所ありしが意外にも無慮九百餘名の志願者ありて非常の盛況を極めたり、當局者は二百名の収容に務めたるも種々の事情にて百七十名を選抜入學せしめたりされど右の盛況に鑒み官費生たる北洋師範學堂に於て生徒を募集せしが志願者の多からざりしを見れば必ずしも日本語の勢力と自惚るべからず只だ立憲の聲高きを以て法政經濟なる者が淸人の思想を支配せし結果にして此の現象より觀るも如何に立憲熱の流行せるかを知るに足らん

     幹部及職員

 創立當時の学堂監督黎氏は或事情に依り辭職し其後兩三回監督の更迭あり又た幹部の職員更迭の際は支那教師に亦た波及し今迄支那教師數十名の更迭を見たり現在の監督は李渠氏翰林院の出身にて日本に留學せることあり尚ほ諮議局議員を兼ね資政院議員となれり前任は保定法律學堂の監督の職にありたり、教務長籍忠寅氏も亦た舉人なるが諮議局議員を兼ね資政院議員たり日語日文に長ず、庶務長、舎監も亦た日本留學生なり、外國人は總教習今井嘉幸氏、教習郭廷献氏、小鹿靑雲氏淺井周治氏の四名なるが今井氏は別科の民刑法、裁判所構成法を擔任し、小鹿氏は豫科の經濟通論及日本語、郭氏は豫科の法學通論及日本語、淺井氏は豫科の日本語及中學部の日本語を擔任せり     《完》

 上左の写真と文は、明治四十三年五月十五日発行(非売品) の 『津門』 第四号 の ◉雑録 に掲載されたものである。
 なお、タイトルは、目次では「北洋法政專門學堂沿革」とあり、写真や本文では「北洋政法專門學堂沿革」となっている。

 

 上の写真は、民国三十三年五月初版の 『日本文化給中國的影響』 の口絵写真にあるもので、写真下に次の説明がある。

      民國二年夏北洋法政學堂
       司法班卒業記念撮影



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