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「清国時代支那に傭聘せられたる我国教師が彼地に於て生徒の訓育に従事せる一例」 志水直彦 (1939.11)

2018年09月30日 | 清国日本教習 天津、北京、武昌他

 

 清国時代支那に傭聘せられたる我国教師が彼地に於て生徒の訓育に従事せる一例  

   志水直彦

 日清戦役後日支両国の間に善隣の好誼加はるに従ひ、彼の有名なる清朝の俊英張之洞は、変法自疆の国策を樹て、我国より文武練達の士を招聘して彼地青年の訓育を請ひ、以て其国将来の発展に資せんとしたのである。是実に明治三十年頃より其末期に至る迄の情勢であり、当時北京に、保定に、武昌に、成都に、長沙に、南京に、広東に、其他著名なる彼地の都市の武備学堂、師範学堂等に於ても一二名の邦人教習を招聘せない処は殆んど無い状態であった。殊に武昌は張中堂の湖広総督として永く任に在りー中支枢要の都会なる故、招聘者の数も頗る多く、余が彼地着任の年の秋即皇暦明治四十年十一月十五日、張之洞の後任者なる趙爾巽に依り西太后の萬寿節に際し、城外の一楼乙桟に招待を蒙りたる本邦在任の武官、鉄路技師、各学堂教習等の総数は約五十名であり、之に此席に連る資格の無い人を加ふれば百人にも及んだ事と思ふ。余は当時我国鉄道作業局在勤の一下級技術者なりしを、彼地に於武昌より広東に向ふ粤漢鉄道並漢口より四川に向ふ川漢鉄道の計画せられ、張之洞の招聘に依り赴任せられた故工学博士原口要氏の召呼に応じ、明治四十年十月九日武昌に着き、翌四十一年一月十一日場内の建築物甲桟に於て開校せる湖北鉄路学堂の機械工学科教習に任じ、爾来同四十三年九月末に及んだ者である。該学堂は前記鉄道の工事開始と共に多数の技術員事務員を要す可き故、原口博士の進言に依り開設せられたるものであって、湖北湖南両省の中学校畢業生(卒業生)を選抜の上入学せしめ、之を機械、土木業務の三科目に別って授業する者である。学堂は湖広総督趙爾巽を管轄すると共に、粤漢川漢鉄路総局を経て北京政府郵傅部の指令を受くるものである。学堂実際の業務は湖北省提学使(湖北省の文部大臣)黄紹其(後に逝去)監督の下に監督(校長)徐毓華監学(教務掛)徐国彬、傅廷春、庶務李国鏞等等の人々が之に当るは本邦と同一である。機械科の生徒は四十余名であり、余は多少の支那語は解せるも僅に奴僕を指役する川をなすに過ぎず、到底之を以て直に講義に当つるは及びも無い、予め日語にて認めたる教案を通訳に交附し、通訳は之を漢訳せる後学堂より武昌場内の御用判刻屋に命じて其版行と印刷とを行ひ、出来せば一々生徒に交附する者である。而して講義の際は余は日語にて記せる自分の教案に就き説明せば、通漢訳は印刷物に就き説明し、生徒は与えられたる印刷物を凝視し初めて会得するものである。従って生徒が満足に会得し得可き哉否は一に通訳の其人を得たる哉否に係るものであり、幸に余の通訳黄緩君は湖北省黄陂県に生れ東京の高等師範学校理科出身者であり、頗る篤学温厚の人物なりし故、余も生徒の益する所頗る大であった。又生徒より先生に対して質問の有る時は其儘之を通訳に告げ、通訳は日語にて之を生徒に答ふるものである。其方法は迂遠であり一回の応答に時間を要する多く(勿論生徒には日語の科目あるも日用応接の言語を学ぶに過ぎず)彼地の青年の本邦に渡来し予め日語に熟練したる後夫々専門の教育を受くるとは学科の進捗上著しく相違があり、唯渡日の出来ない彼地多数の青年の其地に於て嶄新なる学術を学ぶには外に方法が無いと思ふのである。試験の答案は毛筆にて唐紙上に漢文を以て認め差出す故、教習は此答案を審査するに足る丈の漢文の素養が必要である。文字の見事なるは流石文字の国であると思はしめる、又甞て鉄道車両の外輪に関する問題を提出したるに論語の文句を引見し「大車無輗、小車無軏(其何以行之哉」と答へた者がある。作図を要求する答案に於ては毛筆を以て鮮明に之を図し、機械製図の如き其綿密正確感ず可き者もある。然し教授の方法が所謂隔靴掻痒に原因するも多数の生徒は雲烟過眼にて時日を費すは日支の生徒共に同様である。但彼地中学の卒業生は慨して我国の同様卒業生よりも年長者であり、大体に於ては理解力の進み居る様に見える、依て彼等の国民性を充分に呑込みたる上気長く教育せば卒業後有用の材となり得可きは必然と思ふ。滑稽なるは試験の始め前である、甞て監学の一人傅廷春余の宅に来り(同人は暫時本邦に滞在せる事有る由)「志水サン直ニ試験ガ始リマスネー何処ノ辺カラ出マスカ」と、蓋学堂に依りては試験前公然と学堂当局より問題を聞きに来る向もあるとは呆れるの外はない。生徒のカンニングを行ふ方法の幼遅なるは笑ふ可く、余の初めて試験を行ひたる際、先んじて答案を提出したる生徒は盛に紙屑を丸めて残室者に擲ける、試に之を開けば答案の下書である。又当時は生徒の通学服は今日の如く洋服で無く、一般支那人の着用せる木綿製の長衣であり、教案を襞の下に隠するに頗便利であり、先生の眼を盗んで着物の縁を開かんとする者は皆怪しむ可く、近いて起立を命ずれば憂然として床上に落つのである。此の如き固疾の悪習は従来清人の教習は強て咎めなんだ様である。又奇習とす可きは甞て炎暑の際の試験に於て、試験中校丁が麺類を盛れる茶碗を教室に搬入して生徒に分配した事である。其際係員余にも一椀を勧め「暑イデスカラネー」と云ふ。蓋之は所謂点心であって当地の如き夏季炎暑の時の試験には学校より生徒に給する習慣である。案ずる往昔科挙の考査の行はれ、長時間乃至昼夜を徹し一室に蟄居して答案を記載せる時代の遺風でらうか。余在鄂の当時他省に往聘の邦人教習の内、些細なる不注意のため其職を空くし、不本意にも帰還したる人がある、其事実は或学堂に於て授業中教習は生徒が机に臥し眠れる者あるを発見し、黒板上に「朽木不可雕、宰予晝寝、是泰平之乎」と白書したのである、生徒挙って憤激して学堂当局に迫り、遂に其教習をして自ら辞せしめたのである。蓋生徒の行為の責む可きは責むるも、中国人としての面子に触れる様な言辞は堅く粛まねばならぬ。又余の担当せる機械に関する学科は、授業上掛図、模型、工作機械の実物並に工作器具等を必要とするも、唯必要なる物品の名称、員数並に大体の価格等を示して購求するに止め、決して日本商店在漢口何々洋行に於て販売の取次を行ふ等迄も進言してはならぬ、一旦此の如き言を吐かは、支那人の通有性として直に教習が賄賂を稼くための下心ありと僻想するのである。
 余の湖北鉄路学堂教習の任にある満二年有半、幸に学堂監督並に生徒の期待に背かず、多少の事績を鄂省青年教育のため残すを得、余す所三箇月にて第一回の卒業生を出す迄に到りたるに、四十三年九月末北京郵傅部よりの電命にて余の契約期限満了に付之を解聘し、後任機械科教習としては当時唐山の鉄道工場に従事せる元留日学生屈端鑾を以て之に当つとの事にて、講義の残部は之を刊行して学堂に残し同十月八日監督及通訳に送られ漢口の碼頭を発し帰朝したのである。翌明治四十四年武昌に於て第一回の革命勃発に際し、聞く所に拠れば余の親しく訓育せる生徒等は黎元洪総統(湖地鉄路学堂の開堂式に際し当時在鄂陸軍旅団長として参観せられたり)の下に参し、革命軍に於ける或は軍隊の輸送に、或は列車の運転に学びし所を多少実地に用ひたとの事である。(添附の写真は四十三年十月一日鉄路学堂に校庭に於ける記念撮影である)
 自来春風秋雨茲に三十年、国際情勢の窮り無き、昔時の親誼に背き皇国に反噬する国民政府を膺懲する聖師は、到る処燎原の火の如く、昭和十三年十月二十七日を以て武漢三鎮の攻略を視るに至ったのである。往時を追懐せば唯一場の夢幻泡沫に過ぎず、聊か三鎮攻略を祝せる時の蕪詩を録して感慨の一端を遣るのみである。
 皇軍遂略漢三鎮  勇烈堪難莫比偏
 憶昔曾遊任教学  何図後日煽兵塵
 善隣掖弱親周至  悖戻佯強義悉湮

 なお、上文掲載の写真には、次の説明が書かれている。〔読めるもののみ〕

 明治四十三年十月一日於清国武昌王府ロ甲桟内湖北鉄路学堂志水直彦帰朝記念
 前列右ヨリ四人目徐国彬 …不明… 屈端鑾(後任機械科教習)徐毓華(〔不明〕)

 上の文と写真は、昭和十四年十一月一日発行の『歴史学研究』 十一号 第九巻 第十号 に掲載されたものである。
 同号には、「歴史学関係 邦書支那訳目録」 佐藤三郎 もある。



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