まずはこれ

『ゴジラの逆襲』であります。
『ゴジラの逆襲』ご覧になった方いらっしゃいますか?
ゴジラ映画としては二作目のモノクロ作品です。
一作目はゴジラに東京が破壊されましたが、二作目では大阪が破壊されてしまいます。
しかも対戦相手としてアンキロザウルが放射能によって変化した『アンギラス』が登場して、ゴジラと死闘を繰り広げます。
一作目でゴジラはオキシジェンデストロイヤーによって殺されてしまいます。
ゆえに『ゴジラの逆襲』で登場したゴジラは、別の個体という事になります。
映画の中の説明によると、海底に大きな洞窟のような空間があり、そこにゴジラやアンギラスなどの放射能によって変化させられてしまった大型怪獣が生息している事になっています。
『ゴジラの逆襲』で大阪を壊滅させてしまうゴジラは、一作目で殺されたゴジラの仇を討ちに来た設定になっているわけです。
ところがこのゴジラは、元特攻隊の活躍で最後は氷山に閉じ込められてしまいます。
ゴジラは冷たくなってしまい、冬眠状態に入るのです。
殺されていないゴジラは、いつしか目を覚ますのですが、どこに閉じ込めたのか情報共有しなかったので、アメリカの原潜が青く光る氷山を調査しに行ってしまうのです。
自衛隊はゴジラ封じ込め作戦を成功しておきながら、調査しに行ったアメリカの原潜に資料を渡さなかったのでしょうか?
しかも氷山がある海域に自衛隊が出ていけるのか?
最後に突っ込んだのは元特攻隊の乗ったセスナですから、大阪に近い海域にゴジラが覆われてしまうような巨大な流氷が流れてきていたことになるわけです。
とにかく、何も知らされていない原潜は、放射能を欲するゴジラに破壊されてしまいます。
放射能エネルギーを充填したゴジラは、帰巣本能で日本列島を目指すというのが、三作目の『キングコング対ゴジラ』となるわけです。
カラー作品となった『キングコング対ゴジラ』はゴジラシリーズの観客動員数最高の1255万人を記録しています。
東京に住む人全員、朝ちゃんからお年寄りまで全員が映画館に足を運んだことになるのですからものすごい数字ですね。
戦後復興の只中にあった一作目(1954)二作目(1955)はそれぞれ、961万人834万人です。
その数字もものすごいのですが、それを超えた三作目(1964)は高度経済成長の流れを完全に掴んだのでしょうね。
2年後の1964年、東京オリンピックの年には四作目となる『モスラ対ゴジラ』が公開されています。
私のゴジラ観戦はこの『モスラ対ゴジラ』から始まるのです。
同時上映されたのが加山雄三演じる『若大将シリーズ』
東京オリンピックと共に、忘れられない私の昭和の記憶なのであります。
さて、冒頭でご紹介した毎日書道展で見た『ゴジラの逆襲』ですが、これはゴジラシリーズ二作目の事を指しているとは思えません。
『善か悪か 神か獣か 咆哮が響き渡るとき』
『人類よ その警告を聞け』
と書いてあります。
人類には手に負えないエネルギーを、便利で安価という経済的政治的な理由で選択してしまった現状に警鐘を鳴らしたかったのではないでしょうか?
日本人は、日本列島のいたるところにゴジラの卵を作ってしまったのです。
そのエネルギーを上手くコントロールしていけるのかどうか、あらゆる災害にも安全なのかどうか私も疑問です。
何を書いてあるのかさっぱりわからない作品より、今を生きる人々に訴えかける作品には共感を集めるエネルギーがあります。
書いた人のエネルギー以上のものすごいエネルギーを集めて、さらに輝き出すのが良い書の条件の一つだと私は思います。
書が時代と無関係に存在することは不可能です。
もちろん古典の優美さや激しさをなくしてはいけませんし、私も大好きです。
しかしその古典も、当時の時代と無関係に存在していたわけではありません。
混沌とした社会を表現するために、他者には分かりにくい作品作るのも勝手ですから良いでしょう。
しかし、それを説明すべきです。
作者の人間性を説明すべきです。
しかしこの『ゴジラの逆襲』は作者の人間性が伝わってきます。
頑固ジジイの確率高いです(笑)
もし若くても、女性であっても、『頑固ジジイ』であることは間違いないです。
色々言いたいことはあるけれど、ストレートすぎるのは、プロテストソングみたいで青臭い。
でも、ちゃんと伝えたい。
プログレみたいなのもわかりづらくて大衆に訴えかけるのは難しい。
そうだ!
今年の夏はは久しぶりに『シン ゴジラ』という東宝作品が公開される。
なはら、ゴジラの力を借りて、ポップにして大衆に訴えかけてみるか!
ってな流れだと思うのです(笑)
書体や書風も、きちんと古典を学んできた事が伺えます。
なのに、あえて、であるところに、書のポップカルチャーの可能性を感じるのです。
正面に飾れとは言いません。
けれど、奥の奥に掲示しておくにはもったいない作品です。
毎日書道展なら、内容が過激なものであっても良いと思うのですが、墨色がどうの、線質がどうの、呼吸がどうのと言ったところだけではない、破壊力のある内容あるものも、もっと大きく取り上げて欲しいと思うのです。
辛うじて平和というカモフラージュされているベールは、少し強い風が吹けばまくれてしまい、権力者の欲望にさらされてしまうのです。
我々はそのベールがめくり上がらないように、その端を、一人一人が釘になって地面に打ち付けておかねばならないのです。
そして国内外の権力者の欲望を抑えなければならないと考えます。
そのために必要なならば、ゴジラでもドラえもんでもポケモンでも使えば良いのです。
頭が固い書家はアーティストにはなれません。
伝統芸能継承者と言われても仕方ないでしょうね。
今書いた物も、何百年経てば時代的には古典扱いされるのです。
でも、ほとんど捨てられ、忘れられてしまうでしょうね。
それは所詮誰かの真似だからです。
言いたい事がない者が、創作したものを発表しても、時代の流れに沈んでいくだけです。
『ゴジラの逆襲』は稚拙な表現です。
書きたいとは思いません。
でもそこにはシンプルさがあります。
笑いながら、遠くから目にした人を近づけさせる力があるのです。
見せるからには、魅せないといけませんよね。
それも芸術の一つの条件だと思います。

『ゴジラの逆襲』であります。
『ゴジラの逆襲』ご覧になった方いらっしゃいますか?
ゴジラ映画としては二作目のモノクロ作品です。
一作目はゴジラに東京が破壊されましたが、二作目では大阪が破壊されてしまいます。
しかも対戦相手としてアンキロザウルが放射能によって変化した『アンギラス』が登場して、ゴジラと死闘を繰り広げます。
一作目でゴジラはオキシジェンデストロイヤーによって殺されてしまいます。
ゆえに『ゴジラの逆襲』で登場したゴジラは、別の個体という事になります。
映画の中の説明によると、海底に大きな洞窟のような空間があり、そこにゴジラやアンギラスなどの放射能によって変化させられてしまった大型怪獣が生息している事になっています。
『ゴジラの逆襲』で大阪を壊滅させてしまうゴジラは、一作目で殺されたゴジラの仇を討ちに来た設定になっているわけです。
ところがこのゴジラは、元特攻隊の活躍で最後は氷山に閉じ込められてしまいます。
ゴジラは冷たくなってしまい、冬眠状態に入るのです。
殺されていないゴジラは、いつしか目を覚ますのですが、どこに閉じ込めたのか情報共有しなかったので、アメリカの原潜が青く光る氷山を調査しに行ってしまうのです。
自衛隊はゴジラ封じ込め作戦を成功しておきながら、調査しに行ったアメリカの原潜に資料を渡さなかったのでしょうか?
しかも氷山がある海域に自衛隊が出ていけるのか?
最後に突っ込んだのは元特攻隊の乗ったセスナですから、大阪に近い海域にゴジラが覆われてしまうような巨大な流氷が流れてきていたことになるわけです。
とにかく、何も知らされていない原潜は、放射能を欲するゴジラに破壊されてしまいます。
放射能エネルギーを充填したゴジラは、帰巣本能で日本列島を目指すというのが、三作目の『キングコング対ゴジラ』となるわけです。
カラー作品となった『キングコング対ゴジラ』はゴジラシリーズの観客動員数最高の1255万人を記録しています。
東京に住む人全員、朝ちゃんからお年寄りまで全員が映画館に足を運んだことになるのですからものすごい数字ですね。
戦後復興の只中にあった一作目(1954)二作目(1955)はそれぞれ、961万人834万人です。
その数字もものすごいのですが、それを超えた三作目(1964)は高度経済成長の流れを完全に掴んだのでしょうね。
2年後の1964年、東京オリンピックの年には四作目となる『モスラ対ゴジラ』が公開されています。
私のゴジラ観戦はこの『モスラ対ゴジラ』から始まるのです。
同時上映されたのが加山雄三演じる『若大将シリーズ』
東京オリンピックと共に、忘れられない私の昭和の記憶なのであります。
さて、冒頭でご紹介した毎日書道展で見た『ゴジラの逆襲』ですが、これはゴジラシリーズ二作目の事を指しているとは思えません。
『善か悪か 神か獣か 咆哮が響き渡るとき』
『人類よ その警告を聞け』
と書いてあります。
人類には手に負えないエネルギーを、便利で安価という経済的政治的な理由で選択してしまった現状に警鐘を鳴らしたかったのではないでしょうか?
日本人は、日本列島のいたるところにゴジラの卵を作ってしまったのです。
そのエネルギーを上手くコントロールしていけるのかどうか、あらゆる災害にも安全なのかどうか私も疑問です。
何を書いてあるのかさっぱりわからない作品より、今を生きる人々に訴えかける作品には共感を集めるエネルギーがあります。
書いた人のエネルギー以上のものすごいエネルギーを集めて、さらに輝き出すのが良い書の条件の一つだと私は思います。
書が時代と無関係に存在することは不可能です。
もちろん古典の優美さや激しさをなくしてはいけませんし、私も大好きです。
しかしその古典も、当時の時代と無関係に存在していたわけではありません。
混沌とした社会を表現するために、他者には分かりにくい作品作るのも勝手ですから良いでしょう。
しかし、それを説明すべきです。
作者の人間性を説明すべきです。
しかしこの『ゴジラの逆襲』は作者の人間性が伝わってきます。
頑固ジジイの確率高いです(笑)
もし若くても、女性であっても、『頑固ジジイ』であることは間違いないです。
色々言いたいことはあるけれど、ストレートすぎるのは、プロテストソングみたいで青臭い。
でも、ちゃんと伝えたい。
プログレみたいなのもわかりづらくて大衆に訴えかけるのは難しい。
そうだ!
今年の夏はは久しぶりに『シン ゴジラ』という東宝作品が公開される。
なはら、ゴジラの力を借りて、ポップにして大衆に訴えかけてみるか!
ってな流れだと思うのです(笑)
書体や書風も、きちんと古典を学んできた事が伺えます。
なのに、あえて、であるところに、書のポップカルチャーの可能性を感じるのです。
正面に飾れとは言いません。
けれど、奥の奥に掲示しておくにはもったいない作品です。
毎日書道展なら、内容が過激なものであっても良いと思うのですが、墨色がどうの、線質がどうの、呼吸がどうのと言ったところだけではない、破壊力のある内容あるものも、もっと大きく取り上げて欲しいと思うのです。
辛うじて平和というカモフラージュされているベールは、少し強い風が吹けばまくれてしまい、権力者の欲望にさらされてしまうのです。
我々はそのベールがめくり上がらないように、その端を、一人一人が釘になって地面に打ち付けておかねばならないのです。
そして国内外の権力者の欲望を抑えなければならないと考えます。
そのために必要なならば、ゴジラでもドラえもんでもポケモンでも使えば良いのです。
頭が固い書家はアーティストにはなれません。
伝統芸能継承者と言われても仕方ないでしょうね。
今書いた物も、何百年経てば時代的には古典扱いされるのです。
でも、ほとんど捨てられ、忘れられてしまうでしょうね。
それは所詮誰かの真似だからです。
言いたい事がない者が、創作したものを発表しても、時代の流れに沈んでいくだけです。
『ゴジラの逆襲』は稚拙な表現です。
書きたいとは思いません。
でもそこにはシンプルさがあります。
笑いながら、遠くから目にした人を近づけさせる力があるのです。
見せるからには、魅せないといけませんよね。
それも芸術の一つの条件だと思います。