やまんばのひとりごと

あと何年 健康で生きられるかわからないけどその日まで この世に生きた足跡を残していきたいな。

母の味は・・・・何もないのだ

2019-04-21 14:05:48 | 日記
私は 母が32 歳父が36歳の時の 4番目の子供。

父は40歳で 第二次世界大戦の末期に 主計中尉として出征。レイテ島で玉砕。
日本に引揚げてきたのは 1945年11月3日 博多港に着いた。

それから母の苦難の生活が始まった。 
夫なし 家なし 仕事なし。あるのは子供5人と教員免許状。

九州にいては子供の教育ができないので 1947年 習志野の旧陸軍の兵舎後の引き揚げげ寮に移った。

1948年 小学校教員の職を得て月給をもらえるようになり もう大丈夫だよ と言った母の言葉をよく記憶している。

母は 長崎で教員をしていたが 女学校の先生で それも20年も前の話。 
戦後の教育の変遷は すさまじく 我が子のことを考える暇もなかったようだ。

当然 食事の用意は小学生の姉と私。二人でけんかをしながら 薪でご飯を炊き 見よう見まねでおかずを作った。 長兄が結婚してからは お嫁さんが家事をした。

わたしがよく覚えているのは 夜遅くまで寒そうにプリントの原稿のガリ版をかいている母の姿。外地に住んでいるときは 専業主婦だったのでなんでも すべてのものを手作りしていたらしいが 私が4歳で日本に帰ってきてからは それどころではなかったらしい。

母が作ってくれた料理で記憶に残っているものは ・・・なにもないのだ。

だから 私も我が子に伝える味は 私が作ったものだけ。私も毎日忙しかったので手の込んだものは作れない。ただ すぐ 用意して すぐ 食べられるもののレパートリーは たくさんある。