やまんばのひとりごと

あと何年 健康で生きられるかわからないけどその日まで この世に生きた足跡を残していきたいな。

ジョブス氏の演説

2016-11-30 20:13:22 | 日記
英会話の個人レッスンでは 私が興味あることの記事を選んで会話している。

2週間前から スタフォード大学の卒業式で卒業生に向けて行った演説を取り上げている。
先年亡くなったが 生前にはそんなに興味なかったのだが ふとしたことでこの記事を読み 心が動かされた。

母親が大学生のため 望まれない子として生まれて すぐ養子に出されたことから人生が始まったらしい。

演説の要旨は
①点と点をつなげるということ。興味がないことを無理にやるよりも本当に興味があることを学んでいけばやがてそれが一本の線として人生に役立つということ。

②愛と敗北
本当に好きなものならば たとえ失敗したとしても 無になっても 初めからまた頑張れる。

③死ぬこと
no one want to die....death is the destination we all share.no one has ever escaped it....death is very likely the single best invention of life....it is life’s change agent.it clear out of old to make way for the new.
本当にそうだなあ と思う。自案を主張する人もやがては死ぬのだ。新しくなっていくことは世の中を変えていくことなのだ。これが絶対ということはないのだ。自分が生きた証としてもっと広い意味で後世を考えることは大事だと思う。


あったらいいなと思うもの

2016-11-29 20:16:36 | 日記
みなさんこんなこと考えたことないですか。 あったらいいなと思うこと。

60年まえ 家庭教師をしていた。中学生を2か所で教えていた。でも そのお宅に歩いていくのが面倒くさくて 道路に乗って行先をボタンで押したら 道路の端が動いて スーーーーっと行ける装置。よく考えたら歩かないと足がダメになるなと思って 深く考えるのはやめた。

しかし現代なら高齢化社会になり 運転が危険になるので病院や役所やスーパーに行く自動歩く歩道があったら みんな助かるだろうなあ。いつも動いているので待たなくていいから。

過疎地帯に だれでもいつでも行けるだだっ広い 建物があったらいいなあ。
そこでは10時から4時までおしゃべりをしたりご飯を作ったり 趣味のことをしたりする場所になれば みんなが集まって寂しくなく過ごせるだろうなあ。

だんだん私の友達も行動が難しくなり 出かけることも 逢うこともままならなくなってきているので ついつい考えてしまうが リアル世界では無理だよねえ。ドラえもんの世界じゃないんだから。

どんな過ごしかたがいいのか 同じ一生を 有意義に過ごすにはどうしたらいいんだろうなあ。お金じゃないなあ。血の通う交流はどうやったらいいんだろう。  

今更だけど・・・・あの時こうすればよかった

2016-11-28 07:47:41 | 日記
今更だけど あれをやっておけばよかったなあ と思うことは・・・

あるねえ 大学を出たのは1962年 その当時は大戦が終わってまだ17年しかっていなかったので 情報が少なかった。今から考えるとみんな生きるのに一生懸命だったのよねえ。

我が家は 半島からの引揚者。子供5人。食べるのも大変だったのだろう。父親は戦死。家もなく親戚もあてにならず。でも母は 教員免許を持っていたのでかろうじて教職を得て 何とか餓えずに生きてこられた。

これからは資格が必要になると 母は あの当時 高校に行くのはクラスで5人というのに 私を大学まで行かせてくれた。子ども4人とも。姉は勉強するより手芸が好きだからと高校までだった。

だから わがままは 絶対言えなかった。自分で職を得て収入が入るようになると好きなことができたはずなのに なんだか申し訳なくてやりたいことができなかった。

大学時代から家庭教師をやったお金で日本中を旅した。リュックを背負って蒸気機関車の煤で黒くなりながら1週間 10日と休みのたびに出かけた。

しかし私は だんだん国内旅行より 外国に行きたくなった。しかし 母は決して許してはくれなかった。おなごはそげんことするもんじゃなか。危なか。また 当時は外国旅行は なかなか難しかった。

結婚し 育児と教職で忙しかったが ほっと息をついたら もう 50歳になっていた。
それからは毎年二回以上 外国に行った。そのたびに ああ もっと前に来ていたらどんなに楽しかっただろうか こんなに変わる前の世界が見たかったなあ といつも感じていた。

昔から 英語で授業をしたかった。アメリカに行きたかった。
60歳でリタイヤした時 よし これで心置きなく外国で先生ができるぞ 試験を受け 合格し アメリカに行った。楽しい1年間だったが 60歳のおばさんは これ以上長くいられなかった。

もっと若い時に行っていれば 5年10年15年と腰を据えていろんなことができたのになあ と痛感した。今更だけど もう一度 現代に25歳で生まれ変わるとしたら 迷うことなくサンフランシスコに行って そこで骨をうずめるね。


年甲斐もなく

2016-11-27 15:55:05 | 日記
夫はあと1か月で80歳になる。傘寿というのかな。

さりげなく夫の服装を見ているとくすんだ色のシャツを着ている。
おとうちゃんさあ もっと明るい色のシャツを着なさいよ。
いいよ これで。 もう80歳になるんだよ。
だから何さ。
年相応で 楽なんだよ という。

私は4つ違いだが まったく違う。この寒さの中でも ジムに行くときは ハーフパンツに3分袖のTシャーツ。上着はニューヨークで買った真っ赤なフード付きの分厚いジャンバー。

お母ちゃん寒いんじゃないか と夫は心配するのだが この分厚いジャンバーは どんな雪の日でも寒くないのだ。

強烈な赤だねえ というが やるぞ!!!という気にさせる赤なのだ。
当然ジムに行くとみんな振り返る。どんな若い人来たのだろうか と思うのだろう。

残念でしたね。76歳の美女ですよ と親しい仲間には笑いながら言う。

母も 色きちがいじゃあるまいし と言って 60過ぎてからはくすんだ色のものを着ていた。ズボンはともかく 上半身は気分が明るくなるデザインのものと色のものを選ぶ。

いつも行く洋服屋さんは そのことを知っていて 冬でも 赤やオレンジや黄色の上着を持ってきて これなんかどう?。私の冬のコートは金色のフェザーコートですぞ。

年甲斐というのは 周りがあれこれ気になる人が 気にすればいいのであって 気にならない人は じゃんじゃん好きなことをすればいいのよ。だって もうあと何年も生きていられないんだから。

もうすぐ5歳になる孫が しぃしぃ いくつなの? 今 6歳。というと 来年 オレは しぃしぃに 追いつくね。
そうだよ。そのつもりで生きていれば 世の中たのしいよ。

貧すれば鈍す

2016-11-25 20:54:44 | 日記
年金生活者になると もう余計なお金は 一切ははいってこない。
それはもう前からわかっていることだし どうにもならないことだけど 心まで貧しくなってしまうことの多いこと。

一切の付き合いは しない。しかしもらえるものはもらうことに細心の心配りをする人の多いこと。
やってもらうことはいいが 人のためにやってやることは 一切しない。忘れたふりをする人の多いこと。

外にランチを食べに行くより自分の家に呼んで一緒に料理をしながら話せば 少なくとも1000円ぐらいの予算でできる。レストランではこの3倍はするものね。

母はいつも義理とふんどしは欠かすな と言っていた。やってもらったことは決して忘れずに必ずお世話になったお返しをしなさいと言っていた。もう現代では死語なんだろうね。

このことのために どんな心配りと お金がかかったのかを考えて わたしはお礼をしてきたが それも今ではなんだかばかばかしくなってきた。

親戚だろうが 知人だろうが この一、二年 貧すれば鈍する例の多いこと。
それとも私の人徳がないせいかしら。