救いは取り消されることがあるのか 第25回
これから引用するすべての聖句は、同じ真理について語っています。故意に罪を犯し続けるなら、永遠の命を得ることができる関係を断絶させてしまいます。永遠の命には、常に条件が伴うという事実を忘れてはなりません。
「しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである」(Ⅰヨハネ1:7)「初めから聞いたことが、あなたがたのうちに、とどまるようにしなさい。初めから聞いたことが、あなたがたのうちにとどまっておれば、あなたがたも御子と父とのうちに、とどまることになる」
(Ⅰヨハネ2:24)
「わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない」
(へブル10:38)
「人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである」(ヨハネ15:6)
「よくよく言っておく。もし人がわたしの言葉を守るならば、その人はいつまでも死を見ることがないであろう」(ヨハネ8:51)。
「神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう」
(ローマ11:22)
「兄弟たちよ。それだから、ますます励んで、あなたがたの受けた召しと選びとを、確かなものにしなさい。そうすれば、決してあやまちに陥ることはない」(Ⅱペテロ1:10)
「なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう」(ローマ8:13)
お約束を果たされた神様 第25回
私たちにとって神様はどのようなお方でしょうか。私たちを生んで、育てて下さったお父様ですね。そして、神様が私たちを見られる時、私たちより尊い存在は世の中にありません。この世に、私より大切なものはないと言われるのです。イエス様は、その大事な子どもたちのために、体を裂かれて死なれたのです。イザヤ書を見ると、「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない(イザヤ49:15)と言われています。
イエス様が十字架につけられた時、最後の最後まで、私たちをつかんでおられました。イエス様が救いのためにさし伸べたられたその手に、人間は釘を打ちました。人類を創造されたイエス様の手に、人間は釘を打ちつけたのです。ご自分が創造されたその子らが、ニヤニヤ笑いながら、頭にいばらの冠をかぶせました。また槍で刺しました。
しかし、そのような状況にあっても、イエス様はご自分の子供たちを、決してあきらめませんでした。そのような人間たちを、あきらめませんでした。片方の手で神様のみ座をつかみ、もう片方の手では罪の淵にいる人間の手をつかんでおられました。このつかんでいた両手は、つばかけられても鞭で打たれても、決して離されませんでした。天と地の間にあって、十字架にかけられた姿で、苦しんでおられる姿を、皆さんよく考えてみて下さい。自分の生んだ子が、自分をこのようにひどい目にあわせて、殺そうとかかってくる時、皆さんの心臓は破裂しませんか。ですから、イエス様の心臓は破裂して亡くなられたのですね。イエス様の、このような大きな愛に答えない者は、本当に親不孝な出来損ないのものですね。