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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

良い麦と毒麦のたとえ  人を救う真の福音とは? 第18回

2016年03月23日 | 日記

アウグスティヌスの最初のジレンマ

 罪に対する勝利の経験が出来なかったアウグスティヌスは、肉体をとってこの世に生まれ、罪に勝利する生涯を送られたキリストを考えるたびに、ジレンマに陥るようになりました。なぜなら、自分と同じ肉体を持ったキリストは勝利の生涯を歩まれたのに、アウグスティヌスの生涯には勝利の経験がなかったからです。「勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である」(ヨハネの黙示録3:21)。

そこでアウグスティヌスは、キリストは人間と全く違う肉体を持って生まれたのだと、強引な論理を繰り広げるようになりました。しかし聖書は、キリストが肉体を持って生まれたことについて次のようにはっきりと宣言しています。「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである」(ヘブル人への手紙4:15)。「このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、 死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。 確かに、彼は天使たちを助けることはしないで、アブラハムの子孫を助けられた」(ヘブル2:14〜16)キリストは決して天使のかたちで来られたのではなく、マリヤを通してアブラハムの血と肉を遺伝的に受け継いで来られたのです。

 アウグスティヌスは、聖書に記されているキリストが、人間の堕落した肉体を持って生まれたという教えをひっくり返して、その後のカトリック教会を深い暗黒の中に陥れた、無原罪懐胎説の元を作ったのでした。彼はキリストの受肉された体は、私たち人間とは全く別物だったという主張を裏付けるために、キリストの母も同じように人間の堕落した本性を全く持たない完全無欠の状態にしなければならなかったのでした。

アウグスティヌスの教えを受け入れた教会は、次第に無原罪懐胎という、聖霊がまずマリヤの肉体を完全に変えられた後でイエスを身ごもったという主張を教理化するようになったのです。マリヤの体が完全無欠であったために、キリストの肉体も、人間的な弱さが全くない完全な状態で生まれることが出来たという論理を展開したのです。しかし使徒ヨハネは、キリストの受肉についての真理が、霊を判断する基準であることを強調しています。「あなたがたは、こうして神の霊を知るのである。すなわち、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものであり、イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である」(Ⅰヨハネ4:2、3)。聖書では、肉体という言葉はいつも同じ意味を持っていますが、それは道徳的に弱い本性を持つ体を意味しています。


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