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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

救いは取り消されることがあるのか 第24回

2014年11月12日 | 日記

             

  救いは取り消されることがあるのか 第24回

     5、捨てられる危険

使徒パウロは、肉体的な罪の性向を征服出来ないのであれば、結局神様のみ前に立つことができないという事実を、確実に悟っていました。「すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない」(Ⅰコリント9:27)。パウロがここで用いた「失格者」という言葉はとても興味ある言葉です。それはギリシヤ語で『アドキモス』と言って、他の箇所では、「見捨てられる」という意味で用いられています。

第Ⅱコリント13章5節。「あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい。それとも、イエス・キリストがあなたがたのうちにおられることを、悟らないのか。もし悟らなければ、あなたがたは、にせものとして見捨てられる」。イエス・キリストが見捨てられる(アドキモス)者の心には、キリストがおられないのです。

テトス1章16節。「彼らは神を知っていると、口では言うが、行いではそれを否定している。彼らは忌まわしい者、また不従順な者であって、いっさいの良いわざに関しては、失格者(アドキモス)である」。神様を信じているといっても、行いが伴わない者たちは忌み嫌われてしまうのです。使徒パウロは、一度救われても、再び罪に捕らわれることを許容してしまうなら、滅びるほかないことを教えています。

     お約束を果たされた神様 第24回

とても寒い冬でした。二人の男性が深い森の中を歩いていました。一人は年をとったアメリカ人で、もう一人は韓国人の青年でした。彼らの足は、ある墓の前で止まりました。年をとったこの紳士は、青年にこのように言いました。「ここはあなたの母親が眠っている場所だよ」。そして、27年前の話を語ってくれました。韓国は1950年代に朝鮮戦争がありました。激しい戦闘の中で、アメリカの兵士たちは後退して深い森の中に隠れていました。その時、何か変な声を聞きました。よく耳を澄ましたら、赤ん坊の泣き声でした。泣き声に従って行ってみると、雪の中からその声が聞こえてきたのです。その雪をかいて、中を見てびっくりしました。一人の女性が赤ん坊を抱いていましたけれども、彼女は何一つまとっていない裸の状態でした。戦争から避難していた母親が、深い森の中に閉じ込められて、赤ん坊を何とか生かすために、自分の着ていたものを全部脱いで子どもに着せて、自分の体で暖めようと赤ちゃんを抱っこしたその姿のままで、死んでいたのでした。その姿に感激した兵士は、赤ん坊の母親を埋めてあげて、その子を連れてアメリカに帰り育てました。「その兵士が私であり、その赤ん坊は、あなただよ」、と言ったのです。

長い歳月を経て、今、韓国を訪ねてこの墓場に来たのでした。この話を聞いていた青年は、その場に泣き崩れました。熱い涙がほほを流れていきました。ひざまずいていた青年は立ち上がり、墓に積もった雪を払いのけ、自分の着ていた服を、1枚1枚ぬいでその墓に被せました。あたかも母親に着せてあげるかのように・・・。そしてもう一度泣き崩れて、言いました。「お母さん、お母さん、その時どんなに寒かったことでしょう。恵み深いお母さん。本当に恋しいです。本当に誇らしいです。ほんとに尊いお母さん。もう一度会いたいです!」

皆さんにも、それぞれお母さんがおられますね。私にも母がいます。これは私の母の20年ほど前の写真です。今はもっと年をとっていますが。お母さんである皆さんは、どのような思いで子供たちを育てて来られたのでしょうか。私の母は、いつも、わたしにはおいしいものを食べさせて、自分は残り物の冷めたご飯を食べていました。夜も眠らずに仕事をしていました。子供たちには良いものを食べさせ、着せて、自分は食事を抜くこともありました。子供のためなら、いくら重いものでも持って、遠い所まで運んでいました。母親だからといって、自分のことを考えないわけではなかったと思います。でもいつも、子供たちを優先して、謙遜に生きた母。母親にとって、子どもほど大事な存在はありませんね。

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