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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

救いは取り消されることがあるのか 第40回

2014年11月29日 | 日記

    

救いは取り消されることがあるのか 第40回

  9、過去、現在、未来の救い 

ある人が陸地から遠く離れた海の上で、小舟に乗って釣りをしていました。ところが、突然舟がひっくり返って、水の中に沈んでしまいました。その人は泳ぎが出来ませんでした。ちょうどその時、他の舟が近づいて来ました。しかしその舟はたくさんの荷物を載せていたため、それ以上人を乗せることは不可能でした。しかし溺れているこの人を助けてあげたいと、縄を投げました。「ここにある縄をつかんでください!私たちがあなたを陸地まで引いてあげます」と言いました。その人は縄をつかんですぐに「神様、本当に感謝します!私は助かりました!」と言いました。彼が縄をつかんでいる限り、彼は救助を受けた状態にあるのです。

救いはまさしくそのようなものだと言えます。神様の救いの中では、その人がやるべき役割があります。もし彼が、つかんでいた縄を離して、再びつかむことを拒むなら、これ以上彼を救助できなくなります。そのように、罪から救われた者も同じです。彼がキリストの手をつかんでいる限り、彼は救われた状態にあります。しかし、彼がつかんだ手を離そうと決心して、代わりに悪魔の手を掴むなら、彼は滅びるでしょう。人の救いは、その人自身の選択にかかっていす。

実際には私たちは、救いを、過去、現在、未来の、三つの時制に分けて考えることが出来ます。彼が縄をつかんだ時「私は救われた」ということができます。その舟によって引かれている時、「私は救われている」と言えます。彼が陸地に足を置く時「私は救われた者になった」と言えます。悔い改めた人は赦され、罪の刑罰から救われました。神学的に私たちはそれを「義認」と言います。同じく彼が現在、罪の勢力から救われているならばこれを「聖化」と言います。そしてイエス様が来られる時、彼は罪の本性と弱い肉体から救われることになるでしょう。それを「栄化」と言います。この三つの時制は皆、聖書が救いに関して説明する場合に用いられています。

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プロテスタントの誤り

ところが、このキリストの人性については、カトリックだけではなく、ほとんどのプロテスタント教会も、間違ったことを信じています。もちろん、マリヤが罪のないまま生まれたとは信じていないのですが、イエス・キリストが無原罪のマリヤの本性を取ったという点で、同じことを受け入れています。しかし、それは間違っています。

もっと説明したいと思います。「罪の肉の様」、これはどういう意味でしょうか。神様がアダムを造られた時には、どのような者として創造されましたか。完全な人間として創られました。アダムは、エデンの園の中では最初とても忠実でした。全く罪に汚染されていませんでした。しかし、アダムは罪を犯しました。そして、アダムが罪を犯した後、アダムが堕落したその後の本性を、イエス様はとられたのです。

ところが、今教会では、イエス・キリストは、アダムが堕落する以前の本性を持って生まれたと言います。多くのプロテスタント教会の教えは同じです。私たちの教会もそうですよね。それがどんな意味か、皆さん、分かりますか?イエス様がどんな肉体を持って生まれられたか?それが私たちと何の関係があるのでしょうか?


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