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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

 救いは取り消されることがあるのか? 第8回

2014年10月27日 | 日記

   

   救いは取り消されることがあるのか? 第8回 

8、愛がなければ結婚も宗教生活も悲惨になる

お互いの愛が冷えてしまった夫婦にとって、結婚生活とは束縛であり足かせのように思えるかもしれません。愛し合っている時には、少しも苦痛でなかった、相手のために自分を犠牲にすることや、忍耐すること、赦すことなどが、辛く苦しいことになってしまいます。そして相手に対する不平や不満ばかりが目につくようになるのです。この場合、間違っているのは結婚生活ではなく、愛が壊れてしまったことにあります。

同じように、クリスチャンがキリストの愛から離れ、親しい関係がなくなる時、戒めや宗教的義務に対して不平を言うようになります。この場合も、問題は戒めにあるのではなく、神様に対する愛が冷えてしまったことにあるのです。

主を愛するクリスチャンは、喜んで自分自身を否定しながらこの世を歩むでしょう。キリストは言われました。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(ルカ9:23)。キリストのこの言葉は、「キリストに従う道は厳しくつらいけれども、自分を殺して不平を言わずについてきなさい」、という意味でしょうか?いいえ違います。そのお方はただ、クリスチャンの歩みには、心を混乱させる色んな誘惑がつきまとうので、それからどうやって逃れるかを教えておられるのです。この世には、常に私たちを魅惑してキリストから離れさせるような、肉体的、世俗的な誘惑があります。私たちは、現在自分たちが持っているような愛よりも、もっと高く、強力な愛に支配されていなければ、それらの感覚的な誘惑が私たちを圧倒し、敗北してしまうことでしょう。自分を捨てるとは、頼りにならない自分の知恵や能力によって生きるのではなく、100%神様の力によって生きるということです。自分の心の中のゴミを全部捨てる時に、神様の愛が心を満たし、主の奉仕のために与えられる十字架が喜びと感謝になるのです。

     お約束を果たされた神様 第8回

 

私は今日この場で、聖書の中で、最も大事な研究をしたいと思います。イエス様が復活されて第一番になさったこと、それを私たちはやるべきです。復活されたイエス様を見ても信じなかった弟子たちを、イエス様はこの方法を用いて、信じる者にされました。

「こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた」(ルカ24:27)。「それから彼らに対して言われた、『わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわちモーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する』。そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて・・・」(ルカ24:44、45)。

復活されたイエス様が、初めになさったことは、奇跡ではありませんでした。イエス様が復活なさって、弟子たちを訪ねて一番初めになさったことは、聖書研究でした。その晩の聖書研究のタイトルは何でしたか。モーセの律法、預言書、詩篇ですね。これは旧約聖書全体を表しています。旧約聖書を開いて、ご自分が誰であるかを、弟子たちに教えられたのです。主は、何かのしるしを見せたりされませんでした。なぜなら、奇跡を見て信じたとしても、それは崩れてしまう基礎にしかならないからです。弟子たちは、3年半もイエス様についてきましたが、実際イエス様がどのような方で、何をなさる方なのかを知らないでついて行ったのですね。政治家の周りに集まる人々のような感じだったのです。落選したらみんな散らばってしまいます。ただパンを食べてお腹が満腹したから、病人を癒やされるから、興味津津で・・・。そのような形で、あちらこちらついて行ったのですね。

しかしイエス様は、私がだれであるか、旧約の身元調査をして私を信じなさいと語られました。そして、この聖書研究が終わった時には、弟子たちは、自分の命さえも捧げる覚悟が出来たのです。彼らは天のお父様の子として、本当に生まれ変わったのです。このようなことが、皆さんそれぞれに起こることを願います。


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