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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

 救いは取り消されることがあるのか? 第7回

2014年10月26日 | 日記

   救いは取り消されることがあるのか? 第7回

     7、狭い道は果たして不幸の道だろうか?

イエス・キリストを信じることは、しばしば結婚にたとえられています。この結婚生活というのは、ある意味宗教生活よりももっと制約が多い関係です。だからと言って、そのような制約が結婚生活を不幸にするのでしょうか?愛し合う新郎新婦が、お互いに取り交わした誓いについて、不平を言うことがあるでしょうか。結婚したばかりの夫婦が、彼らの誓いについて不満を漏らすことはありません。彼らは相手のためなら、自分の命をも奉げると約束しながら、心から喜んでいるのです。

バプテスマは、私たちの花婿であるイエス様と結婚する儀式です。誰かが、新しくバプテスマを受ける人を失望させようとして、このように言ったとしたらどうでしょう?「おやおや、あなた大変だよ、考えてごらんよ、これからは飲み屋にも行けなくなるし、ダンス・パーティーも行けない、毎週教会に行くなんて、制約が多すぎるんじゃない?」。その時、新しく生まれ変わったクリスチャンは、明るい笑顔で言うでしょう。「それでもいいです。むしろそれが私の大きな喜びですから!」。

キリストとクリスチャンの関係についての説明が、コリント人への第二の手紙5章14節に教えられています。「なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである」。キリストが私たちの救いのために死んで下さるという、大きな愛を示されました。その愛を知った私たちも、キリストを愛するゆえに自分に死んで、自分のために生きることをやめ、自分のために死んで下さった方を喜ばせることに全力を尽くすようになります。そのような心で奉仕と従順の道を歩む者たちには、キリストが教えられるどんなことも、重荷や足かせとはなりません。「いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである」(黙示録22:14)。

     お約束を果たされた神様 第7回

なぜ信じるのか

皆さん、信じる理由を、しるしや奇跡に置いているなら、ここできっぱり諦めていただきたいと思います。私たちが目にしたもの、経験したことに信仰の基礎を置くことはできません。どれほど大きな奇跡を経験していても、弟子たちは散らばってしまいました。このような弟子たちを、イエス様は、どうやって回復させられたのでしょうか。どのようにして、弟子たちはもう一度信仰に燃えることが出来たのでしょうか。

ルカによる福音書24章を見ると、イエス様は復活なさった後、恐れて隠れている弟子たちの前に現れました。皆さんの中で、「私は夢の中ででも、一回でもイエス様にお会いしたら、一生信じる」、とそのような思いを持っている人はいませんか。「イエス様に一度だけでもお会いしたい、そのお姿を見させて下さい」と、そのように求めている人多いですね。しかしこの時、恐れて隠れていた弟子たちの所に、主は現れて下さったのです。「安かれ」と。その時弟子たちはどうしましたか。「幽霊だ!」と言いましたね。復活されたイエス様に出会ったにもかかわらず、彼らの信仰は熱くなりませんでした。皆さんが、イエス様に夢でお会いして、いや、実際にお会いしたとしても、それだけでは信仰の基礎にはなりません。その出会った人が、本物のイエス様か、偽者のイエス様か分からないからです。イエス様はそのような方法を用いて、人々に信仰を与えられません。

それでは、復活したイエス様にお会いした時も、信じられなかった弟子たちを、イエス様はどのようにして、後には、イエス様のためなら命さえも捧げる者に変えられたのでしょうか。いったい何をなさったのでしょうか?このどうしようもない弟子たちが、イエス様のためなら、本当に命を捧げることが出来る者に変えられたのは、どんな方法によったのでしょうか?


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