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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

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2014年03月23日 | 日記

    

  福音の力を体験せよ 142

たとえ教会に座っていても、誤った思考と感情を抱くことがあります。ですから、教会に出席しているからといって、みんなが救われるわけではありません。皆さんの思いと心をイエス様に屈服させる経験が肝要です。死んで墓に入れば、墓の中では、これ以上心には何の変化も起こらないのです。「たとえ私が、怒りの心情をもって墓に入ったとしても、私が祈って悔い改めることを主はご存じだから、とにかく私は救われるに違いない」と考える人がいるでしょうか?しかし神様は、すべての人に、生きている間に悔い改める機会を下さるのです。各自の選択にしたがい、救いか滅びかが決定されていきます。

“道徳的完全が、すべての人に要求されている。”(COL330) 

良からぬ思いや感情を抱いたまま、天国に行くことができますか?現在抱いている思考と感情が、すなわち皆さんの品性であります。イエス様は、「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と言われました(マタイ5:48)。天の父なる神様は、よからぬ思いや感情を持っておられません。

私たちは、生涯のあらゆる分野において、どうすれば正しく生きられるか分かっていません。しかし、どう生きるかという方法論よりも、品性の完全がすべての人に求められています。そして、それは実現可能なのです。

    宇宙戦争 ⑯

聖書を見ると、信仰というのは、愛をもって行うことだと言われています(ヤコブの手紙2章参照)。「尊いのは、愛によって働く信仰だけである」(ガラテヤ5:6)。「私は信じます」と口で言うことが信仰ではなく、愛によって働く信仰が必要なのです。信仰があるというのは、行いがあるということなのです。

今日多くの人が、熱心に教会に出席しているから、救われていると思っています。イエスさまの十字架を信じて、熱心に奉仕活動や伝道活動をしたり、定期的に献金を捧げたりしているから、自分には信仰があり、救われているという安心感を持っています。

皆さんも、そのように思っておられませんか。私たちの救いというのは、十字架を知ることだけで決定されるものではありません。十字架の力を体験する時こそ、救いを得たといえるのです。福音の力が、私の心に宿って、この福音の力によって私の心が新しくされ、怒りや、ねたみや、欲情や、高慢など、あらゆる罪に勝利する力を経験し、すべてのことを愛をもって行うことが出来るようにされていくことこそ、信仰があると言えるのです。


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