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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の力を体験せよ 180

2014年05月03日 | 日記

 

  福音の力を体験せよ 180

“真のクリスチャンとは、自ら公言する真理のままを生きている人のことである。このような真実な心を持つご自分の追従者たちを、イエスは恥じることなく、「兄弟」とお呼びになるのである。”

イエス様の兄弟とは、彼と一つになった人のことです。イエス様がお生まれになったのと全く同じ経路から生まれた人たち、つまり根源を同じくする人たちが、イエス様の兄弟です。イエス様は、私たちと同じ肉体をとってお生まれになりました。と同時に、霊によってお生まれになった方でした。

したがって、清められた人とは、肉に生まれても、心は聖霊によって新しく生まれた人のことです。それゆえ、新しく生まれた経験のない人たちは、イエス様の兄弟ではありません。ですから、彼を通して真実に新しく生まれた人たちは、イエス様の兄弟となるのです。

“天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである。”(マタイ12:50)

   霊とまことの礼拝 3

イエス様が間もなくお出でになろうとする時に、ユダヤの教会にあったのは、人々が世俗的な誉れを求める、そういった俗事に没頭している利己的な心であった。礼拝は行われているかもしれない、讃美歌は歌われるし、聖書は読まれている、けれどもその心の中心には、やっぱり世俗のこと、そして自分のこと、それが満ちていたというのです。

少し前に聞いたのですけど、教会の礼拝の時、教会では牧師さんが立って説教をし、長老さんや執事さんが司会をするのですけど、ある長老さんが司会をしている時に、多分何かお金のことを考えていたんでしょうね。「それでは皆さん立って讃美歌365円を歌いましょう」と言ってしまったというのです。本当は365番と言わなければいけないのに、お金のことが気になっているから、つい365円と言ってしまったのでしょう。本当にその人が心に考えていることは、礼拝の最中にも、実は浮かんでくるわけですね。礼拝の席に座っていても、帰ったら夕ご飯は何にしようかしらとか、ああ、あの事はどうすればいいのかとか、そういう世俗的な事がいっぱい心に満ちていたら、それは霊とまことの礼拝ではないのではないでしょうか。本当に純粋に肉や偽りを捨て去った、そういう礼拝をする人たちが現れる事を神様は求めていらっしゃいます。


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