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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

   福音の力を体験せよ 179

2014年05月02日 | 日記

 

福音の力を体験せよ 179

ではこれから、イエス様について注意ぶかく調べてみましょう。

“ただ、「しばらくの間、御使いたちよりも低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、栄光とほまれとを冠として与えられたのを見る。それは、彼が神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれるためであった。なぜなら、万物の帰すべきかた、万物をつくられたかたが、多くの子らを栄光に導くのに、彼らの救いの君を、苦難をとおして全うされたのは、彼にふさわしいことであったからである。”(ヘブル2:9、10)

さらに、次の11節は非常に重要です。

“実に、きよめるかたも、きよめられる者たちも、皆ひとりのかたから出ている。それゆえに主は、彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされない。”(ヘブル2:11)

主は、どのような人たちを「兄弟」とお呼びになるのですか?清められる者だけが、キリストの兄弟となります。

  

    霊とまことの礼拝 2

教会でその質問をした時に、ある人が、「それは肉と偽りのない礼拝という事でしょうか」、と答えられました。そうです。まことの礼拝が、霊とまことを持ってする礼拝であるとするならば、その反対は肉と偽りの礼拝、つまり、肉のある礼拝になります。肉を持った者が、いくら神様を礼拝したとしても、その礼拝は、実は神様が求めておられる礼拝ではない、また心に偽りがある人たちが、いくら神様を礼拝しているように見えたとしても、実は心の奥には自我というものがあって、自己崇拝、自分を正しいものとし、自分を崇めようとする心で行っているにすぎないのです。そのような肉と偽りの礼拝は、本当の意味で神様に受け入れられるものではないのです。

まことの礼拝、それは聖霊と真理に基づくものでなければなりません。まことと言うのは真理と訳されている言葉ですけれども、真理に基づき、そして霊に満たされた、そういう礼拝こそが、まことの礼拝であり、そのような礼拝を私たちは捧げるように求められているわけです。

『各時代の希望』と言う本を見てみますと、そこにこういう事が書いてあります。これはちょうどイエス・キリストが来られる直前の、ユダヤ教会のようすを描写している言葉ですけれど、「彼らは無意味な祈りを唱え、人々に見せるために礼拝の儀式をとり行っていたが、富と世俗的な誉れを求めるためにあくせくしていて、メシア出現に対する準備が出来ていなかった。同じような無関心がイスラエルの国中にみなぎっていた。俗事に没頭している利己的な心は、全天を感動させている喜びを知ることが出来なかった」(各時代の希望上31p)。


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